■短期集中連載「私の中のアフリカ」
- 星野ルネ(漫画家、タレント)「あなたの『アフリカ』は先入観だらけ。ぶっ壊すのが僕の役目」
- アフリカでビジネス、大勝負がしたい 「ウガンダで日本料理」に挑む
- アニャンゴ(ミュージシャン)「アフリカで手に入れた『もう一つの命』」
- 白戸圭一(立命館大教授)「『アフリカ市場の未来は明るい』は本当か そこに誇張はないか
」 - 横山仁美(開発コンサルタント、ベリーダンサー)「ダンス、アート、文学。アフリカに学んだ『ワクワクに正直に生きる』」
- 高橋基樹(京都大教授)「アフリカでの中国との競争は無意味 ビジネスだけでない付き合い方を
」
米国大使館や国際NGOの事務所が集まるウガンダの首都カンパラ東部のムエンガ地区。メインストリートの「タンク・ヒル・ロード」を歩くと、大きな三角屋根をしたガラス張りの建物がひときわ目につく。透明感のあるモダンな外観と現地で取れるユーカリの木を使った茅葺きの屋根の姿は、日本の田舎にあった家のようなどこか懐かしくて温かい空気を感じさせてくれる。
建物は昨年10月にオープンした複合商業施設「タンク・ヒル・パーク」。30代の日本人たち6人が2015年に創業した株式会社「こつこつ」が経営している。3000平方メートルの広々とした敷地に立つ施設の中心になるのは、日本料理店「YAMASEN」だ。生のサーモンを使った「手まりずし」が人気で、月1回のイベントではおでんなど本格的な日本の料理も提供する。
ティラピアのあられ揚げやキャッサバの煮物のフライなど、現地の食材を日本料理の手法で仕立てた一品も好評だという。1人当たりの予算は30~40ドルで現地の相場では「高級」になるが、約100席ある店は、国際機関の駐在員やウガンダ人の富裕層などでにぎわっている。
総料理長を務める山口愉史(38)は京都出身。大学を卒業後、大阪で1年間働いた後、「食材の仕入れからお客さんへ料理として提供するところまで自分でできることが魅力」と感じ、会社を辞めて京都に戻り、和食の料理人になった。5年間の修行後、引退する師匠から店を引き継いで独立。ところが、4年前にその店を閉じてウガンダに来ることを決めた。
きっかけは、一足先にウガンダで働き始めていた妻の宮下芙美子(30)の誘いだった。宮下はアフリカの流通や人の流れをテーマに人類学を研究していた京都大学大学院の在学中に農業のベンチャー企業に参加。海外で日本向けに輸出する農産物の開発事業を担当することになり、12年に初めてウガンダを訪れた。
「彼氏が京都で和食の店をやってるんですよ」。活動を通じて仲良くなったウガンダの日本人コミュニティーで何げなくそんな話をすると、熱のこもった言葉を口々に返された。「すぐに連れてくるべき」「こっちで店をやるべき」「ポテンシャル、半端ないから」。最初は酒の席での冗談交じりのやり取りだったが、少しずつその気になった。
■東日本大震災、生き方を考えた
実は宮下自身もこれからどう生きていくかを考えていた頃だった。もともとは研究者になりたくて大学院への進学を決めたが、入学を直前に控えた11年3月に東日本大震災が発生。「このままアカデミックな世界で、しかも日本から遠いアフリカの研究をしていていいのかと揺らいでしまった」
結局、大学院には入学したもののすぐに休学して農業ベンチャーで被災者支援に取り組んだ。ウガンダに仕事で足を運び始めたのは、仕事を続けながら復学した時期。世間とのつながりを意識するようになり、研究よりもビジネスでアフリカとつながることに面白さを見いだし始めていた。自分の仕事場を見て欲しいという思いもあり、14年10月に山口を2週間の旅行でカンパラに連れてきた。
山口は当時、英会話もままならなかった。それでもカンパラの街を案内され、宮下と活動する仲間に会って話すうちに、「やってみよう」という気持ちが湧いてきた。帰国して3カ月後には京都の店を閉め、入り口の扉に貼り紙をした。「ウガンダに移転します」
まだ建物はもちろん、具体的な計画は見えていなかったが、どうして決断できたのか。
もちろん、当時はまだ妻ではなく彼女だった宮下の姿にも刺激を受けたという。「ぽんとアフリカに出て行ってしまって。こういう生き方もあるんだなと。それまでは京都の店を回すのに必死で、考えたことのないスタイルだった」
しかし、宮下の存在以上に大きかったのは自分の気持ちだという。「自分の力を試すチャンスじゃないですか。カンパラには日本人の料理人でやっている日本料理店は1軒もなくて、大きなチャレンジだと思えた」
■「これからの社会」という勢いが魅力
山口は15年6月にウガンダに移り住んだ。プロの日本料理人が加わったことで、日本料理店の計画は大きく前進。宮下の大学時代のつながりや現地の邦人コミュニティーを通じて知り合った同世代もメンバーになり、いよいよ本格的に動き始めた。店の建築は、学生時代にウガンダに留学していた建築家のメンバーが担当。木材を中心にウガンダの素材を使って、施設を建てることになった。
とはいえ、そこはやはりアフリカ。食材の調達ルートの開拓や店で使う冷蔵庫などの機材の用意、建物の建築など、すんなりと進むことはなかった。京都と同じ名前の日本料理店「やま仙」が18年10月にオープンした時には、山口がウガンダに来てから3年以上過ぎていた。開店後は、ウガンダ人の客からメニューにはないピザを用意するように求められるなど、食に保守的な現地の人たちに今までなじみのなかった日本食を試してもらうために努力を続けている。
一方で、長い時間がかかった分だけ、日本料理店だけでなく、カフェやアクセサリー店が入り、展覧会などのできるスペースもある複合商業施設ができた。テナントは順調に埋まり、事業は料理店だけでなく、不動産開発業にまで広がっている。
今は会社の代表を務める宮下は「運にも人にも恵まれ面白い方向に来ている」と話す。初めてカンパラに来てから、開発はどんどん進み、街には高所得者向けのタワーマンションやショッピングモールなども姿を見るようになった。
「生まれてこの方ずっと不景気と言われて育ってきた自分たちの感覚からすると、『今日より明日』に漠然とでも希望を感じられることはすごいことだと思う。『これからの社会なんだぜ』という勢いにすごく惹かれる」
山口は現地で雇用したウガンダ人のスタッフとともに厨房で料理に腕を振るう毎日を過ごしている。「まずはスタッフの意識を高め、来てくれる人たちに喜んでもらいたい。将来的にはうちで学んだ人たちが独立したり、違うレストランに行ったりして育って欲しい。まいた種が実るのを実感して初めて満足できるかもしれない」
東京で投資会社に勤務しながら「こつこつ」の共同代表を務める清水政宏(37)は、計画の立ち上げ以来、資金調達を担ってきた。事業資金はメンバーの自己負担以外に、日本企業からも出資を受けているが、ウガンダでのビジネスで日本とのつながりを意識することはないという。
「目標は食や住まいなど生活にかかわる分野でウガンダに根ざした新しい産業をつくること。アフリカでのビジネスは戦い方がまったく違うから、日本の慣習にとらわれていると視野が狭くなってしまう」
清水は今年7月、現地で大勢の人がひしめき合うカンパラの市場の様子を見たとき、人口が爆発して発展していくウガンダのイメージが明確になったという。従業員は約40人に増え、若者6人で始めた会社は組織として形を成しつつある。
「僕たちはリスクがあることも理解しつつ、それでも大きな勝負がしたいし、しなければいけないと信じています」
宮下の思いも共通している。
「今は、何かを決めるときに『100人規模、1000人規模の会社でもできるか』を自問し、どんなウガンダ人の人材がいれば会社が成長できるか考えるようになった。自分たちが試行錯誤しながらつくっているものがこの国でスタンダードになるように丁寧に積み上げていきたい」
■短期集中連載「私の中のアフリカ」は、横浜で8月28日~30日に開かれる第7回アフリカ開発会議(TICAD7)に合わせて日本に住む人たちとアフリカとのバラエティに富んだ関わり方を紹介し、アフリカの開発と発展に私たちはどう伴走すればいいのかを考える企画です。