日本の美術館も被害か 300点のニセモノつくった「天才贋作師」の男が問う名画の価値

スイスのチューリヒから車で約40分。2024年11月19日、うっすらと雪化粧したアルプスの峰々をのぞむ湖畔のアトリエを訪ねると、ベルトラッキは妻と共に笑顔で迎えてくれた。
ダンスホールを改装したというアトリエは、天井に楽しげに舞う天使が描かれ、創作中の絵画や彫刻が所せましと並んでいた。
白髪のロングヘアにストローハット、ピンクのストールを首に巻いた彼の第一印象は、気さくな「ちょいワル」。椅子にどっかと腰を下ろすと、山盛りのクロワッサンをむしゃむしゃとほおばり、「はるばるよくきたね。洗いざらい話しますから、何でも聞いてください」と言った。
まず聞きたかったのは、日本で騒動になっている2枚の絵のことだった。
徳島県立近代美術館が1999年に6720万円で購入した、フランスの画家ジャン・メッツァンジェの「自転車乗り」。そして、もう一つが、高知県立美術館が1996年に1800万円で購入したドイツの画家ハインリヒ・カンペンドンクの「少女と白鳥」。
ベルトラッキに焦点を当てた米テレビ局の報道を見た人から昨年夏、彼の贋作リストの中にこの2枚が含まれているとの指摘があり、両美術館が調査に乗り出した。
果たして、2枚の絵は彼の手によるものなのか。写真を見せて問いただすと、悪びれる様子もなく彼は言った。
「間違いありません。いずれも私が描いた作品です」
ベルトラッキいわく、この2枚を含め、1980年代にパリで暮らしていた頃に描いた贋作の大半はパリやロンドンのディーラーを経由して、バブル期の日本に続々と販売された。当時、取引したフランス人の業者が「日本人はなんでも買う」と話していたのを覚えていると言う。
この他にも、日本の個人コレクターが所有するフランスの女性画家マリー・ローランサン作の肖像画は、自分の贋作だと彼は証言した。
「どこに売ったか把握していないけれど、1980年代に10ぐらいのディーラーと取引しました。そこから日本に渡った私の作品が、他にもまだかなりあると思います」
これは、えらいことだ。あっけらかんとしたベルトラッキの表情を見ながら、私は思った。
日本の美術館や個人が所有する絵画の中に、彼の贋作がいくつも紛れ込んでいる。私たちが著名な画家の作品だと思って感動した作品が、じつは真っ赤なニセモノかもしれない。しかもその所在を、生み出した張本人も分からないというのだ。
こうした絵画はいずれも名高いオークション会社を通じて購入され、鑑定のプロによって信頼性が高いとされた品々だった。そんな専門家をことごとく欺くことができたのは、ベルトラッキ独特の贋作手法だった。
「贋作をつくるためには、いくつものスキルと才能が必要だ」
彼いわく、オリジナルの画家について深く勉強し、幅広い美術史に精通すること。そして、絵画を年代物に見せるための科学的な知識や修復の技法。贋作をいかにも本物のように仕立てて市場で売りさばくプロデュース能力も欠かせない、と説明した。
なかでも彼が重視するのが、原作画家になりきったつもりで、そのタッチを再現する「筆遣い」のテクニックだ。それについて、こんな風に表現している。
「10分間、ある絵の前に私が立ったとしましょう。どんな時代でも、どんな国の人物でも、私はその画家が描いたのと同じ筆遣いを再現する自信があります。筆が止まるスピード、はねるタイミング、そのすべてです。私は右利きですが、左利きの画家なら、私は左利きで描きます」
絵画に対する独自の感覚は、幼少時代に培われたようだ。
1951年にドイツ北部の地方都市で生まれたベルトラッキは、教会の画家・美術修復師の父親の仕事を間近で見て育った。美術学校に通いながら、父の手伝いもした。あるとき、ピカソの絵を模写し、その出来栄えの良さに父も驚いたという。
11歳のときに、こんな体験をしている。オランダの親戚の家に遊びに行き、初めて大きな美術館に連れて行ってもらった。そこで17世紀のオランダの画家アーフェルカンプが描いた冬の風景画に目が釘付けになった。氷上で子供がスケートをしている、その絵を見ているうちに、夏にもかかわらず体が急に冷えていくのを感じた。カラスの鳴き声や犬の吠える声、スケートの刃が氷を切り裂く音、子供たちが笑いあう声がどこからともなく聞こえてきたという。
「絵の中でスケート靴をなかなか履けないでいる少年が、自分に助けを求めているように見えました。その絵の中に私も入りたい。思わず絵に触れたくなって手を伸ばしたところで、親戚のおばさんに引き留められました」
その後、他の絵画でも自分が絵の中に入り込むような感覚に陥り、その絵を描いた画家の作風や描き方のコツが短時間でつかめるようになったという。
「ただ、すべての絵でそうなるわけではありません。スケート靴の少年のように、自分を招き入れてくれる存在がある絵だけが、トランス状態を作り出してくれるのです」
15歳になったベルトラッキは、骨董品の転売をなりわいにしていた義理の兄と共にヨーロッパ各地を放浪し、アフリカのモロッコにも足を伸ばしている。はじめは骨董市で買った古い絵に部分的に描き足すなどして転売して稼いでいたが、絵の技巧が上がっていくと自ら丸ごと贋作を描いて売るようになったという。
「1970年代は16、17世紀の贋作をつくっていましたが、1970年代後半にはもう古い絵はやめました。その頃の作品は年代物に見せるための手間がかかるわりに、値段がさほど高くなかったからです。また、鑑定の技術が向上し、見破られるリスクも上がっていました」
その頃から、近代の絵画を中心に贋作をつくるようになり、試行錯誤を重ねながらプロの鑑定士をあざむくための技法を向上させていった。
贋作というと、本物そっくりに模写したコピー作品を連想するかもしれないが、ベルトラッキの場合は、その画家が描いたに違いないと思わせる「オリジナル」を創作した。
そのために狙ったのが、名のある画家の「空白期」。どんな画家にも、ある作品を発表してから、次の作品を出すまでに一定の間があく。ベルトラッキは、そうした空白期に描かれた絵という設定で、オリジナルの作品を作成した。
「作品リストをつぶさに確認して、描かれたことは分かっているが、どんな絵か確認できないまま戦争などで行方知れずになっているものも狙いました」
詳細がもともと分からない作品なので、プロの鑑定士も真贋を見抜くのはむずかしい。それどころか、闇に埋もれていた「未公開作品」として、美術界では歓迎され高値がついた。
やはり贋作を始めたのは、金もうけのためだったのか? 率直に尋ねると、ベルトラッキは否定しなかった。
「現代社会でカネを稼ぎたいと思うのは当然でしょう。でも、私の場合はそれだけではありません。スリルがたまりませんでした。それが市場で認められた作品なら、なおさらです。まるでサスペンス小説のまっただ中にいるような感覚でした」
そんな高揚感もあいまって、ベルトラッキの贋作にかける情熱は高まっていった。そのための研究と努力も惜しまなかった。
狙った画家のタッチを習得するために遠方の美術館まで足を運び、その画家ゆかりの場所を訪れて雰囲気や空気感を心身に染みこませた。画家の日記や手紙も綿密に調べ、「その画家ならきっとこんな絵を描いたはずだ」というイメージを膨らませるのに役立てた。
真贋を見極める技術が向上すると、対抗するように手口も巧妙になっていく。古いキャンバスや額縁をのみの市で購入し、絵の具もその当時の成分しか含まれていないものを使ったという。
作品を人工的に経年劣化させるため、サウナを改造した「熟成」装置を作成。過去の展覧会に出品された証拠をでっちあげるため、年代物のカメラで写真を撮影して偽造した。
現代の科学技術でも、ベルトラッキの贋作を見抜くのは容易ではない。2024年夏に贋作騒動に巻き込まれた高知県立美術館では、京都大学の研究チームに依頼して問題の作品の成分分析や赤外線による鑑定を進めているが、予想以上に難航している。
同館学芸課長の奥野克仁は憤りをあらわにしながら言う。「テクニックのすごさはもとより、様々な可能性を試しているクリエーティブな側面もある。一概に憎むべき犯罪と言えないかもしれないとすら思ってしまう。もし、原作画家に成り代わって作ったものだと告白していたら、十分に成立した芸術ではなかったのかという気もする」
こうした手法でベルトラッキは1970年代から30年以上にわたり、約120人の著名画家の作品として、約300点の贋作を制作したと主張。画商を装ってオークション会社などに売りさばき、巨万の富を稼いだといわれている。
だが、彼は当時の生活をこう振り返る。
「正直、ある程度のカネが手に入ると、金もうけに興味はなくなっていました。日常に不便のないぐらいのカネがあって、朝つらい仕事にでかけなくても、好きな絵を描きながら自由に暮らせればいい。ただ、そんな風に考えていたのです」
だが一つの些細なミスから、その生活は終わりを迎える。
2010年、ベルトラッキは妻ヘレネと共に詐欺容疑で逮捕された。
発端は、ドイツの画家ハインリヒ・カンペンドンクが1914年に描いたというシナリオで、オークションに出品した「馬のいる赤い絵」という絵だった。化学分析の結果、この作品に使われた絵の具から微量のチタンが検出されたのだ。
この物質が幅広く絵の具に使われ始めたのは1920年代とされ、ベルトラッキが設定したカンペンドンクの制作時期と矛盾した。この発見がきっかけとなり、世界中のオークション会社や画商をだましたベルトラッキの贋作疑惑が次々と明らかになっていく。被害者の中には、米俳優スティーブ・マーティンも含まれていたという。
ここまで綿密に計画を練り、周到にことを進めていたベルトラッキは、なぜミスをおかしたのか。
本人の説明によると、問題の絵を制作しているとき、いつも使っている絵の具がたまたま切れてしまい、新しい絵の具を業者に注文した。その際、絵の具の種類を示すコードは確認したのだが、成分表示にまで思いが至らなかったという。
「何十年もばれずにいて、自分のリスク感覚が薄れていました。また、科学技術の進歩も甘く見ていたところがあったと思います。初期につくった贋作なら、現在の技術で見破られるものがまだいくつかあるでしょう」と、彼は話す。
この時、ベルトラッキの作品をニセモノと知りながら市場で売りさばいていた妻ヘレネも共に逮捕されている。
翌年、夫妻は裁判にかけられ、ベルトラッキは6年、妻は4年の服役をそれぞれ言い渡された。米紙ニューヨーク・タイムズによると、裁判長は夫妻の犯行について、「軍隊レベルの精密さ」で計画されたと指摘したという。
「検察当局は最後まで、私が単独で作品をつくったのではなく、裏に組織的な贋作チームがあると信じて疑いませんでした」と、ベルトラッキは振り返る。
一方、裁判で贋作と認定された絵画は14点にとどまり、ベルトラッキ夫妻は計約3500万ユーロ(約55億円)の賠償金を命じられた。
その後、早期に釈放された夫妻はスイスに移住。ベルトラッキはオリジナル作品を描く画家として、創作活動を続けている。
そんな真っ当な画家としての道を歩むチャンスは、彼の人生の中でじつは幾度もあった。
まだ贋作師としては駆け出しだった1978年、ドイツ・ミュンヘンの展覧会に出品した作品3枚が売れ、ギャラリーから正式に契約の申し出があった。それらの絵は贋作ではなく、正真正銘ベルトラッキのオリジナルとして売れたものだった。
ふつうの若い画家なら飛びつく話だが、ベルトラッキはこの申し出を断った。
なぜか? 本人は当時の心境をこう語っている。
「ギャラリーと契約すれば、その求めに応じて同じスタイルの作品を描き続けなくてはなりません。私はそれが耐えられませんでした。その道に進めば、30歳そこそこで大学教授ぐらいにはなれたかもしれない。でも、私には自由の方が大事だったのです」
妻ヘレネも、1992年にベルトラッキと出会った当初、彼の違法行為を止めさせられないか悩んだ。結婚後、オークション会社に贋作を売り込む役割を担ったときも、「いつかはばれる」と不安にさいなまれ、絵を捨ててしまおうとしたこともあったという。
それでも後戻りはできず、献身的に夫を支え続けた。
当時の気持ちを彼女はこう振り返っている。「犯罪だと分かっているのに、夫の仕事ぶりに魅了されてしまったのです。いつしか道徳的なことすら忘れ、芸術的に魅力的で刺激的だと感じるようになっていました。私に彼の人生を変えることはできない。そう思うようになってしまったのです」
ここまで話を聞いていて、私は感じるところがあった。
ベルトラッキは贋作に独自の芸術的な「価値」を見いだしているのではないか?
彼は、ゴッホやルノワールといった、いわゆる世界的に名の知れた「超一流」画家の贋作はつくらなかった。ターゲットにしたのは、美術史的な評価は高くても、一般的にはそこまで知られていない画家の作品ばかり。
日本で贋作の疑いがもたれている徳島県立近代美術館の「自転車乗り」の作者とされるフランスの画家ジャン・メッツァンジェや、高知県立美術館の「少女と白鳥」を描いたとされるカンペンドンクは、そういうケースと言っていいだろう。
やはり有名すぎる画家の作品だと、贋作がばれるリスクが高いからだろうか?
疑問をぶつけると、意外な答えが返ってきた。
「たしかに私は、世界で最も有名な50人の画家ではなく、むしろ2番手に属する画家を選んで贋作をつくってきました。例えば、カンペンドンクが良い例でしょう。私は素晴らしい画家の一人だと考えていましたが、当時は決して超有名とはいえなかった。でも、私の贋作が発覚した後、彼の作品の価格はオークションで跳ね上がりました。それはカンペンドンクの輝かしいキャリアとなったのです」
実力があるのに、美術界で相応の評価が得られていないと感じる画家の作品を、自分の贋作能力で再び輝かせる――。彼はそう言いたかったのだろうと、私は思った。
30年以上にわたってプロの目を欺いてきた贋作師、そして画家として、心に宿る美術界に対するどす黒い感情が垣間見えたように感じられた。
さらに、ベルトラッキは「美術界は組織犯罪の仕組み」に似ていると言い放った。
「15年前、あるオークションで私の贋作が競売にかけられ、220万ユーロ(約3億4000万円)で売れました。でも、私が売ったときは2万5000ユーロでした。つまり、この差額の分、いろいろな人が利益を得ているわけです。でも、絵には何の変化もない。この意味が分かりますか?」
疑惑発覚の発端となったカンペンドンクの贋作は、オークションで280万ユーロという記録的な高値で落札された。メディアや美術界は当時こぞって称賛したが、贋作と分かったとたんに手のひらを返したように批判した。
その有り様を見たベルトラッキは、こう考えるに至ったという。
「あの作品は、私が描いたとしても、カンペンドンクだったとしても、芸術的な価値に変わりはありません。だから、みんなが称賛したのです。その後、変わったのは、世の中の見方だけでした」
本物とニセモノの違いとは何なのか。ベルトラッキは、そんな根本的な問いを投げかけているように思えた。
では、日本でいま起きている贋作騒動についてはどう考えているのだろう?
実際、多額の公費でニセモノをつかまされた可能性が浮上した徳島と高知の県立美術館は、大変な迷惑を被っている。そのことについて、罪の意識はないのか?
彼はこう主張する。自分たちはすでに法の裁きを受けて刑を終え、賠償金もオークション会社に支払っている。贋作のリストをオークション会社に伝え、約10年前に出版した書籍でも公表した。そこから先は、贋作を売買したオークション会社が対応すべき問題である――。
そして、日本の美術館やコレクターが大枚をはたいてニセモノをつかまされることになったのは「かわいそうで、残念に思います」としたうえで、言い切った。
「自分の良心が痛むかといえば、その気持ちはありません」
彼の言い分を聞きながら、贋作という犯罪の根深さを思った。
今この瞬間も世界のどこかでベルトラッキの贋作が「本物」として展示され、市場で転売されているかもしれない。そして、そのニセモノを公費で買い取った美術館に足を運び、「本物」はやっぱり違うなあと感動している私たちがいる。
最後にベルトラッキにこれだけは伝えなくてはいけないと思った。スイスに来る前に取材した徳島県立近代美術館課長(学芸交流担当)の竹内利夫が語った次の言葉である。
「贋作という犯罪は、愛や美意識など一人ひとりの人格の礎そのものを侵します。お客様たちは家族や恋人、友達と美術館を訪れ、それぞれが『今日はいい絵を見たね』という思い出をつくって帰ります。でも、その絵がもし贋作だと後で分かったら、その思い出が根こそぎ破壊されてしまうかもしれない。贋作とは単にお金だけではない、人間の尊厳を破壊する犯罪なのです」――。
少し考えてから、ベルトラッキはうっすらと笑みを浮かべて言った。
「その美術館の方がおっしゃるように、思い出を踏みにじるのは罪だと言う人がいます。だけど世の中とか人生で、それはよくあること。仕方ないことなのではないでしょうか」