間もなく77回目の「終戦の日」(8月15日)がやってくる。日本の人口の8割以上が戦後生まれとなったいま、戦争の体験や記憶を継承することはますます難しくなっている。
一方でロシアによるウクライナ侵攻は世界に衝撃を与え、戦争の生々しい有様が報道を通じて日々伝わってくる。
遠ざかる過去の出来事と現在を、私たちはどのように結びつけることができるのだろうか。アートを通して戦争という歴史に接続する試みを紹介したい。
アーティストの藤井光は綿密なリサーチを通して歴史上の出来事に接近し、「リエナクトメント」(再演)という手法を用いて多くの作品を制作してきた。
先日東京都現代美術館で開催された「Tokyo Contemporary Art Award(TCAA)2020-2022 受賞記念展」(2022年3月19日〜6月19日)注1)において、藤井は、日中戦争、太平洋戦争中に日本人画家たちによって描かれた「戦争画」をテーマにした挑戦的な新作を発表した。
展覧会場入口の壁に次のような記述がある。
「日本の戦争美術展 昭和21年8月21日ー9月2日 東京都美術館 入場 占領軍関係者に限る 主催 アメリカ合衆国太平洋陸軍」
展示室に入るとベニヤ板のようなもので作ったパネルが壁に掛かっている。木材が剥(む)き出しのもの、単色の布が貼られたものなど、絵画の形状をしているがそれらが何を示すのかは判然としない。
しかしキャプション(説明書き)には、藤田嗣治「サイパン島同胞臣節を全うす」1945年、中村研一「北九州上空野辺軍曹機の体当たりB29二機を撃墜す」1945年、小磯良平「カリジャティ会見図」1942年など、日本美術史を代表する錚々(そうそう)たる画家の名前と作品名が書かれている。
これらは戦争画の実寸大の平面を廃材を用いて再構築したものだ。藤井は、150点余りの戦争画を集めた1946年の展覧会の「再現」を試みたのである。
別の部屋からは英語の会話が聞こえてくる。米軍関係者たちが戦争画について語っている内容で、脚本化された記録が音声と字幕で表現されている。
戦争画をどう扱うべきかに関して、彼らの戸惑いが伝わってくる。主な論点はこうである。
収集されている絵画は「芸術作品」なのか「軍事的プロパガンダ」なのか、あるいは戦争の「賠償」なのか。
芸術であれば保護すべきだし、悪質なプロパガンダなら廃棄すべき。賠償ならば賠償規定に基づいて他の連合国にも分配されるのが筋である。
アメリカ本国陸軍と占領軍との間で指示連絡の混乱もあったようで、紆余曲折ののちGHQ(総司令部)のマッカーサー最高司令官は「できる限りの戦争画を上野の美術館に集めて価値を見積り、日本の戦争行為を賛美するこれらの作品からは日本人を遠ざけること」を決定した。
そして上述のように占領軍関係者のみが見ることを許された展覧会の後、展示室は閉鎖される。
その後絵画群は1951年に合衆国に移送される。1970年に「無期限貸与」という形でアメリカ政府から日本政府に返還され、東京国立近代美術館に収められることとなった。注2)
さらに、通路に沿って続く壁に展示された複数のモニターには、さまざまなイメージが浮かび上がる。
銃を構えた兵士の姿の図像、古い英文書類。和訳されたキャプションには「四月九日の記録(バアタン半島総攻撃)向井潤吉 1942年」などの文字が書かれ、それらが戦争画の記録であることがわかる。
夥(おびただ)しい数の古めかしい画像と対照的な、硬質な顕微鏡のイメージが現れ、レンズが資料に近接する。「ジーッ」という機械音が不穏な響きを立てる。
藤井は、本展のためにアメリカ国立公文書館から膨大な資料を取り寄せ、戦争画を記録したマイクロフィルムをデジタル顕微鏡で接写して映像を制作した。
米軍関係者の語りのシナリオは、戦争画を研究してきた美術史家の河田明久氏に執筆を依頼、さらに占領史の専門家のチェックを経て展示が完成された。
しかし、藤井が試みたのは史実の探究や戦争画の是非ではなく、戦争画を巡って表出する「揺らぎ」を描くことだったろう。
アメリカ人を悩ませた芸術とプロパガンダの曖昧な境界。また、接写による戦争画のディテイル(細部)からは、イデオロギーを超えた純然たる絵具の痕跡と、画家の手仕事による筆致が浮かび上がる。
藤井は顕微鏡で細かく絵画を観察する行為を通して、芸術家のもつ制作の喜びを肌で感じたという。藤井はそれを芸術家の「黒い欲望」と表現する。注3)
またアメリカ人の語りの中にしばしば出てくる「藤田」すなわち藤田嗣治は、自身の絵画がアメリカで公開される可能性を大いに喜び、戦争画収集に積極的に協力していた。ほんの少し前まで日本軍の勝利を讃える戦争画を描いていた画家が、一転してせっせと米軍に協力している様子が浮かぶ。そこには芸術家の、いや人間のどうしようもない性が感じられる。
画家たちにとって戦争画は「公共性の獲得」でもあったと藤井は分析する。普段は社会から理解されにくい画家の孤独な作業が市民や国家から認められ、作品が評価されたのだ。
画家の多くは国から強要されたのではなく、率先して従軍画家となった。注4)描く喜び、新たな主題への好奇心、公共的ミッション。当時の画家たちにとっての誘惑は、現代の芸術家とも無関係ではない。芸術とプロパガンダの境目は常に揺らぎ続ける。
153点の平面のインスタレーションにはもう一つの暗示がある。赤や黒、灰色一色で彩られた絵画、青や茶色の矩形で整然と区切られた画面。これらの表現は戦後の美術を席巻したアメリカの抽象表現主義絵画を彷彿(ほうふつ)させる。
戦争によって前衛的表現活動が困難になったヨーロッパの芸術家たちの多くが渡米したことも影響し、リアリズム絵画に代わる表現として抽象表現が支持され、芸術の中心地はヨーロッパからニューヨークへと移っていった。
戦争画とおよそ反対の当時のアメリカの先端的表現を重ねることで、敗戦後の日本がアメリカの勢力の傘下に入り、文化や芸術も確実にその影響を受けた事実が見えてくる。
あるいは、一見アメリカナイズされた日本の皮を一枚剥げば、そこに戦争画のリアリズムが隠れていることを示すともいえる。
藤井の展覧会と時期を同じくして、戦後の日本の美術を考える上できわめて興味深い展覧会が町田市立国際版画美術館で開かれた。
「彫刻刀が刻む戦後日本―2つの民衆版画運動 工場で、田んぼで、教室で みんな、かつては版画家だった」(4月23日〜7月3日)と題されたこの企画は、戦後の版画運動に焦点を当て、日本におけるリアリズム美術の系譜を検証する内容であった。
戦後間もない1947年、焼け跡の残る東京の銀座三越と神戸の大丸百貨店で中国の木版画(木刻)を紹介する展覧会が開催され、大きな反響を呼ぶ。
封建制度や日本の帝国主義に反対し、民族独立を促す中国木刻運動は、作家であり思想家の魯迅によって1930年代に提唱された。
文字の読めない人にもメッセージを伝えるために版画の図像を用いて展開されたこの活動に触発され、その流れを汲む版画運動が日本においても高まりを見せていく。
労働問題や公害、庶民の暮らしなど、社会問題や人々の生活に根ざしたリアリズムが版画を通して表現され、全国に広がった。
この版画運動から派生して教育版画運動が起こる。義務教育過程で版画制作が推奨されたことから全国の学校で版画指導が行われた。注5)日本人の多くが学校教育で体験した木版画作りの源流に、このようなリアリズムの運動があったとは意外だった。
展覧会の企画者である学芸員の町村悠香は、戦後の版画運動を含むリアリズムの系譜が日本の美術界において語られなくなっていった背景に「文化冷戦」があったことを指摘する。注6)
東側のリアリズムに対抗するように西側の抽象表現主義が1950年代から日本に盛んに紹介され、「現代美術」の主流となっていく。
藤井が戦争画の表面にそのイメージを重ねた抽象表現主義絵画は、アメリカの文化政策として新たな「武器」となった。冷戦の只中において、文化冷戦の綱引きが日本の芸術界においても行われていたのである。
戦時下で国家と芸術が結びついた戦争画も、より自由で洗練されて見えたアメリカの抽象表現も、盛り上がりを見せたものの収束した戦後の版画運動も、当時の政治と密接な関わりがあったことを忘れてはならない。
そして、かつての芸術家のみならず、いまを生きる私たちが個人の意志で決めたと信じている選択も、より大きな体制やイデオロギーの影響を少なからず受けているはずなのだ。
歴史を掘り下げることの意味について藤井はこう語る。
人は言語やジェンダーなど無意識のうちに構造化された価値基準の中で生きている。そこから距離を置き、自分を批評的に見ることによって自由を獲得したい。そのために歴史を再訪し、学ぶのだと。注7)
この藤井の態度は現在きわめて重要だ。かつての冷戦を思わせる深刻な勢力争いが世界を揺るがしているいま、メディアの情報を含め「当然だ」と自分たちが感じる価値観そのものを疑い、俯瞰(ふかん)する力が求められている。(敬称略)