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女性不在、男性中心の展示…「平成美術」に私が抱いた抵抗感

アートから世界を読む 更新日: 公開日:
「平成美術:うたかたと瓦礫(デブリ) 1989–2019」の会場=京都市京セラ美術館、Photo:Kioku Keizo
「平成美術:うたかたと瓦礫(デブリ) 1989–2019」の会場=京都市京セラ美術館、Photo:Kioku Keizo

「アートを見れば世界が見える」をテーマに東京藝術大学准教授の荒木夏実さんがつづるコラム。今回は話題になった展覧会「平成美術」に筆者が問題提起します。キーワードは「男性中心」です。

美術批評家の椹木野衣(さわらぎ・のい)キュレーションによる展覧会「平成美術:うたかたと瓦礫(デブリ)1989-2019」(京都市京セラ美術館、2021年1月23日~4月11日)は、今年最も話題の展覧会の一つだろう。約30年の平成年間を三つに区分し、平成の美術と社会を振り返る内容である。

目玉の一つは、展示室入口にそびえ立つ長さ16 メートルの年表「平成の壁」。黒板とチョークの手書き文字が、泡のように「現れては消える」という本展のコンセプトにつながるイメージをうまく表している。

展示作品の一つ「平成の壁」=京都市京セラ美術館、Photo:Kioku Keizo
展示作品の一つ「平成の壁」=京都市京セラ美術館、Photo:Kioku Keizo

しかし注意すべきは、本展にはアーティスト14組(と1組の資料展示)しか選ばれていないこととだ。形態が「グループまたは集合体」に限られていることも特徴的だ。

「平成美術」という大きな名称に惑わされて、平成に活躍したアーティストを網羅的に紹介する展覧会だと誤解してはならない。展覧会があくまで椹木野衣というキュレーターの目を通した一解釈であることに留意するべきである。

三つの区分の中で最も熱量が伝わってくるのは、第1部(1989~2001年)である。椹木が批評家として頭角を現してきた時期に、同時代人として深く関わったアーティストやプロジェクトが紹介されている。当事者としてムーブメントを体験したことは、椹木自身が記録の一部として作品に登場していることからもわかる。

それにしても、本展から強く感じられたのは女性の不在である。女性アーティストのみのグループも1組あるのだが、彼女たちによる「突然、目の前がひらけて」は、メンバーたちが大学時代に行った展覧会の名称である。現在、各メンバーのアーティストとしてのキャリアはまだ浅く、プロジェクトの継続性も含めてもう少し先の展開を追うべき段階にあると感じる。

展示作品の一つ「突然、目の前がひらけて」=京都市京セラ美術館、Photo:Kioku Keizo
展示作品の一つ「突然、目の前がひらけて」=京都市京セラ美術館、Photo:Kioku Keizo

Chim ↑ Pomと人工知能美学芸術研究会は女性を含むグループではあるが、その他は男性のみのグループか男性アーティストが主導する集団であり、カタログの文章や年表にも女性アーティストの名前は少ない。それは椹木が注目したのが男性アーティストであり、展覧会の構造に男性中心の歴史や思考が反映されているからだろう。(注1)

そもそも「平成美術」というくくりは、椹木が「機械的」と呼ぶ10年ごとに区切る西暦ではなく、日本独自の「元号」に基づいている。椹木によれば、元号は災害や災難の悪気払いや天皇の崩御を軸とする「失意と祈り」(注2)としての時間の交代であり「傷ついた時間」(注3)に対応するものである。
西洋的な流れに準ずるグローバルな基準ではなく、伝統的でローカルな「日本的」価値観を強調する姿勢がここには見られる。

展覧会名には鴨長明「方丈記」に現れる「うたかた」と磯崎新の「瓦礫(デブリ)の未来」が引用され、狭小の庵である「方丈」が災害時における仮設住宅になぞらえられている。そして個ではなく、うたかた(泡沫)のようなアーティストたちの離合集散と「密で非中心的な物質の凝集」である瓦礫としての作品に着目している。(注4)

男性であることが必須(昨今の女性天皇をめぐる議論によってむしろそのこだわりが際立って見える)の天皇を軸に、鴨長明、磯崎新、そして椹木野衣という日本人男性の思考の枠組みの中で、男性を中心とするアーティストやプロジェクトが紹介された展覧会。そのような印象を受けた。

男性アーティスト2人組グループ「Complesso Plastico」による作品=京都市京セラ美術館、Photo:Kioku Keizo
男性アーティスト2人組グループ「Complesso Plastico」による作品=京都市京セラ美術館、Photo:Kioku Keizo

女性アーティストが目立たないもう一つの理由は、今回焦点を当てた「グループ」として活動する女性がそもそも少ないからだろう。逆に考えれば、グループという形に男性的な要素が含まれているのではないか。カタログの年表には各年に結成されたアーティストグループの名前が紹介されているが、活動期間が短かったり、活動の実態がほとんどなかったりするものが多い。それぞれのアーティストの活動はあくまで個人による制作が中心で、プロジェクトのために不定期に集まるケースもある。

このように気楽に「離合集散」することが男性アーティストの間で頻繁に行われる傾向があるといえるだろう。それは結果的にプロモーションとしてはしばしば効果を発揮する。実態はともかく「〇〇のメンバー」という名称はアーティストの個人名にもう一つの顔と名刺を加えることになり、関心をもつ層を広げる一助となる。

 集まって仲間意識と価値を共有すること、強いリーダーシップのもとに秩序を形成すること、集合体として自らを守り外部(社会)に対抗すること。そのような集団の機能が男性アーティストと親和性があるのではないか。

さて、私自身の目で平成初期を振り返ってみると、美術館キュレーターとして働き始めた90年代半ばは実にエキサイティングな時期だったことを思い出す。ユニークな日本の若手アーティストが次々と現れて活躍しており、あの時期に学びきれないほどのことを学んだ。

一方で、関わったアーティストの大多数が男性だった。当時はキュレーターとして未熟で多様性の視点が足りなかったこともあり、情報が多く目につきやすい男性アーティストに注目しがちだったという反省が現在はある。

アーティスト、ギャラリスト、批評家全てが男性という状況の中で、新人女性キュレーターとして苦労したことも多々あった。当時は概念そのものが存在しなかったのではっきりと自覚できていなかったが、男性なら受けなかったであろうハラスメント経験も恒常的にあった。

このような実体験をふまえ、「女性」という属性を持つキュレーターの立場からすると、西暦(グローバル)ではない天皇制(ローカル)に基づいた元号を基準とした、男性中心のアートムーブメントを日本の特徴として今日紹介することにはいささかの抵抗を感じる。

「平成美術:うたかたと瓦礫(デブリ) 1989–2019」の会場=京都市京セラ美術館、Photo:Kioku Keizo
「平成美術:うたかたと瓦礫(デブリ) 1989–2019」の会場=京都市京セラ美術館、Photo:Kioku Keizo

さらに、日本を「傷ついた時間」をもつ特殊な場所としてその被害性を強調することは(注5)、戦前戦中の日本軍の行為や、今日まで受け継がれた男尊女卑の悪癖(それはジェンダーギャップ指数が世界156カ国中120位という先進国最低レベルであることからも明らかである)、マッチョな仕組みが内包する加害性や排他性を軽視することにつながらないだろうか。

本展で資料展示となったグループ「カオス*ラウンジ」をめぐるハラスメント問題(注6)は、同質性の高い男性が集団を作り、彼らの思考に基づいて活動が展開され、そこに権力構造が成立していたことと関係があるのではと考える。さらにいえば、それに対して違和感を覚え、指摘・修正することのできる「異質な」考えをもつ人物の不在が問題の根本にあったのではないだろうか。

女性や外国人などの異文化を避け、グローバリズムに逆らって日本(の男性)の独自性へと向かう先にある、内輪の価値観の肯定や密室の暴力性に対して、私たちは警戒する必要がある。この問題は、東京オリンピックの組織や開閉会式をめぐる辞任・解任騒動においても派手に露呈されたことではなかったか。

世界では今、これまでの歴史や文化をあらゆる視点から見直す動きがますます盛んになっている。ジェンダーや人種、民族によって異なる多様な価値観から振り返れば、英雄の物語も正反対の解釈となりうる。「日本」や「日本人」、「男女」という概念や枠組みも見直されるべきだろう。

これまで自明とされてきた仕組みや価値観は誰が作り、誰に利するものなのか。それを守ろうとする人、抗う人は誰でその理由はなにか。自分自身は個人としてどう向き合うのか。ポジティブな疑いの目を持って世界を見つめるべきだろう。

そして平成の時代に忘れられたものや見過ごしたものに改めて目を向けたいと思う。これからの社会と美術を考えるために。

展覧会情報

「平成美術:うたかたと瓦礫(デブリ)1989-2019」
2021年1月23日~4月11日(終了)
京都市京セラ美術館