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20世紀だけで5度も国が代わったこの街リビウで、人道主義が生まれた

World Now 更新日: 公開日:
リビウの夜明け。昇る朝日を背に、市街のシルエットが浮かび上がった
リビウの夜明け。昇る朝日を背に、市街のシルエットが浮かび上がった。オペラ劇場の屋根に、ナツメヤシの枝を掲げた有翼の女性像が並んでいる=喜田尚撮影

ウクライナ最西部の街リビウは、第2次世界大戦後に広まった「人道主義」の発祥の地。「ジェノサイド」と「人道に対する罪」という概念は両方とも、この街で学んだ法律家が生み出した。しかし、国の枠組みを超越した人権保護を、という理念とは裏腹に、力の論理の現実世界から紛争は絶えない。人道主義はもはや無力なのか。欧州・旧ソ連地域を長年取材してきた喜田尚記者が、街を歩いて考えた。

2月の終わり、午前6時半。ウクライナの首都キーウからの夜行列車で、西部リビウの駅に着いた。ホテルの窓から、向かいのオペラ劇場【下の衛星写真1】の屋根にナツメヤシの枝を掲げた女性像が並ぶのが見える。昇る朝日を背景に街のシルエットが浮かび上がった。

リビウを訪ねるのは3年ぶりだった。

2022年2月24日、私はウクライナに対するロシアの全面侵攻の始まりをキーウで迎えた。3日目に退避を決め、避難列車を乗り継いで翌朝リビウ駅についた。到着する列車から降りる避難民と、約70キロ西のポーランドへ避難しようとする乗客で、駅舎の中は足の踏み場もなかった。

あれからウクライナは圧倒的なロシア軍の攻撃に対して持ちこたえている。私はこの間何度もウクライナに来たが、ポーランドからの国境越えの列車で毎回、リビウは素通りしてきた。

この5月で欧州は第2次世界大戦の終結から80年を迎えた。リビウを再訪したいと考えたのは、この街がある意味、大戦後の世界の規範となった人道主義の原点のような街だからだ。

リビウの位置=Googleマップより

 「ジェノサイド」と「人道に対する罪」

1920年代に現在のリビウ大学【衛星写真2】で学んだ法律家ラファエル・レムキン(1900~1959)は、ナチス・ドイツによるホロコースト(ユダヤ人大虐殺)の分析から大戦末期に「ジェノサイド」(集団殺害)という言葉を生み出し、国際法で処罰する道を開いた。レムキンより前にリビウで学び、著名な国際法学者となったハーシュ・ラウターパクト(1897~1960)は大戦後、ナチス高官を裁いたニュルンベルク裁判で「人道に対する罪」を確立させた。

「ジェノサイド」と「人道に対する罪」は今、「侵略の罪」「戦争犯罪」とともに、国際刑事裁判所(ICC)が審理対象とする四つの罪を構成する。一般市民に対する迫害、非人道的行為を国を超えた犯罪とし、国際社会が処罰できるようにすべきだと主張した2人の考えは、戦後の人権保護、人道主義の太い柱の一つになった。

リビウ中心部の衛星写真
リビウ中心部の衛星写真=©Google

 常に緊張関係があった

ロシアに侵略され、存在を脅かされるウクライナにとって、リビウは独自の文化と独立運動を育んだ街だ。ウクライナの属国化を図るロシアにとっては「ウクライナ民族主義」の牙城(がじょう)だ。街の位置づけは大きく異なる。

この街がたどった歴史は複雑だ。

ウクライナ西部は、第1次世界大戦から、2度目の大戦をはさんで1991年のソ連崩壊でウクライナが独立国になるまで5度も帰属する国や支配者が代わった。

1918年の第1次大戦終結まではオーストリア・ハンガリー帝国。大戦後も当時の国際社会はウクライナの独立を認めず、東部や中部はソ連の、リビウを中心とする西部は新たな独立国ポーランドの一部とされた。1939年に第2次大戦が始まると、ナチス・ドイツとの秘密協定でソ連が侵攻。1941~1944年、今度はドイツに占領され、大規模なホロコーストの現場になった。戦後ソ連への併合が決まったのは1945年2月、米英ソの3首脳が世界を「勢力圏」に分割したヤルタ会談でのことだ。

第2次大戦までリビウの人口はポーランド系が5割、ユダヤ系が3割を占め、ウクライナ系は2割以下。住民の間に常に緊張関係があった。レムキンとラウターパクトはユダヤ系。ホロコーストで両親を始め、家族、親族の多くを失った。

リビウの歴史を表した年表

 祈りの声、棺、ひざまずく人々

今はウクライナへのロシアの侵攻が続き、兵士の戦死、市民の犠牲が後を絶たない。

午前11時、オペラ劇場の向こうの聖使徒ペトロ・パウロ教会【衛星写真3】で、東部の戦線で死亡した2人の兵士の葬儀が始まった。

司祭の祈りが通りに響く。やがて兵士らに担がれた棺(ひつぎ)が運び出され、霊柩(れいきゅう)車に向かって進んだ。母親だろうか、女性がおえつを漏らしながら後ろを歩いて行く。葬列に気づいた人々が歩道にひざまずいて棺を見送った。

教会前の葬列。泣きながら後方を歩く女性は母だろうか
泣きながら後方を歩く女性は母だろうか。人々はいっせいに歩みを止め、ひざまずいて棺を見送った=2025年2月、リビウ中心部で喜田尚撮影

亡くなった兵士の一人は900キロ以上離れた東部ドネツク州出身。東部、南部の戦闘地を逃れ、リビウで避難生活を送る人たちは近親者が戦場で命を落としても、故郷に埋葬できない。そして前線から離れたこの街をもロシア軍はミサイル攻撃で狙い、市民が命を絶たれる。

戦後の秩序が崩れつつある今、人道主義は無力なのか。私は重い気持ちで街を歩き始めた。