1. HOME
  2. World Now
  3. 【旅する記者①】それは新宿の路地裏「コーシカ」から始まった―音楽を諦めた僕が、特派員を目指すまで

【旅する記者①】それは新宿の路地裏「コーシカ」から始まった―音楽を諦めた僕が、特派員を目指すまで

旅する記者 更新日: 公開日:
マリアさんと知り合ったバー「コーシカ」=1997年1月18日、東京・新宿で、松本泰生さん撮影

中途半端な気持ちで、社会に出てしまっていいのだろうか――。バブル崩壊直後の1991年、ある音楽好きの青年が大学卒業後の進路に迷っていました。20年後、彼はいかにして国際情勢の最前線を取材する新聞社の特派員になったのか。物語は、東京・新宿のロシアン・バーでの出会いから始まります。

筆者は大学時代(1991年)、ロックバンドでベースを弾いていた(右端)

ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)が1991年末に崩壊した時、日本はバブル景気の最末期だった。おかげで大学4年生だった私は、金融業や精密機器製造などいくつかの大手企業から内定をもらった。優秀な学生ではなかったが、学生側の売り手市場だった。

でも、内定したどの企業にも、あまり興味が持てなかった。

私は大学時代、サザンオールスターズが輩出した青山学院大学の音楽サークル「BETTER DAYS」の副部長を務めていた。ベーシストとしてバンド活動に打ち込んでいた私は、「音楽で飯を食っていけたらいいな」と無邪気に考えていた。

しかし、才能あふれる先輩のミュージシャンでさえ展望が開けない現実を知り、自信を失った。就職活動に忙しい同期の学生を見て、焦り始めた。夢や目標を見失い、流されるままに就職活動を始めた。

内定が出ても素直に喜べず、「こんな中途半端な気持ちで社会に出てしまっていいのだろうか」と悶々としていた。渋谷や新宿の夜の町で飲み歩く日々が続いた。

そんなある夜、新宿駅西口の線路脇に「新宿西口七福小路」という細くてどん詰まりの路地に差し掛かった。7軒の小さな飲み屋が並んでいるのでこの名がついたと、後に聞いた。小路の入り口に立っていたアーチの看板に「純ロシヤバー コーシカ」と書かれているのが目にとまった。

ロシア式のバーなんて初めて聞いた。「コーシカ」の意味もわからない。

新宿の喧噪の中で、ひときわひっそりとして、うらぶれた風情の街路にひかれ、そのバーの扉を開けた。

4畳半ほどの空間しかない、薄暗い店内にあったのは、古びたカウンターと4、5脚のいすだけ。ロシア民謡が低く静かに流れ、強い酒の香りがほのかに漂っていた。がたんがたんと電車が通過するたびに、グラスが震えた。

カウンターの向こうには、ふくよかで彫りの深い顔立ちの年老いた女性が座っていた。マリアさんと呼ばれていた。

少し緊張しながら、ポーランド産のウォッカ「ズブロッカ」のショットを注文した。1杯800円は、大学生には安くなかった。初めてのウォッカは強烈で、のどが焼けるようだった。

マリアさんはハルビン生まれのロシア人であること。コーシカはロシア語で「子猫」の意味であること。この辺は終戦直後、闇市だったこと……。とりとめのない話をしながら時間が過ぎた。

夜も更けて、そろそろ帰宅しようと思った。ウォッカ3杯の代金を支払おうとしたが、財布に金がないことに気づいた。飲み歩いていつの間にか金を使い果たしたか、夜道に札を落としたか。酔っ払って覚えていない。

とにかく、マリアさんに金がないことをわびて、後日必ず払いに来るからと、頭を下げた。

そのとき、マリアさんはにっこりと笑った。「あなた、お腹空いてるでしょ」と言って、手作りのピロシキを二つ、皿にのせて差し出してきた。

金を払わない客にピロシキまでごちそうするなんて。きっと悩み深い貧乏学生だと、哀れんでくれたのだろう。胸が熱くなり、ピロシキを頰張って家路についた。

数日後、再びコーシカに行ってマリアさんに代金を支払った。今度はマリアさんが喜んだ。「あんたがまた来るなんて思ってもみなかったわよ」

私はそれから毎週、コーシカを訪ねた。

新宿西口七福小路の入り口に立っていたバーの看板。左から二つ目に「純ロシヤバー コーシカ」と書いてあった=1996年12月23日、東京・新宿で、松本泰生さん撮影

マリアさんから、ロシア人の暮らしぶりを聞いたり、ロシア人が大好きなアネクドート(風刺小話)を教えてもらったりした。ソ連時代は鉄のカーテンの向こうだったロシアの様子はなじみがなく、私には興味深い話ばかりだった。

マリアさんに誘われて、お茶の水にある東方正教会「ニコライ堂」に復活祭の礼拝に行ったこともある。荘厳な雰囲気の聖堂で、正教式の祈りの作法をマリアさんに教えてもらったことを思い出す。

大勢のロシア人が祈る姿が、無数のろうそくに照らし出され、まるでロシアにいるかのような錯覚に陥った。マリアさんは、本当の孫のように私をかわいがってくれた。

ソ連が崩壊した結果、日本のすぐ近くで、市場経済と民主主義を標榜する新たなロシア連邦が出現していた。日ロ関係もにわかに動き始めていた。東西冷戦が幕を閉じ、新たな激動の時代が始まろうとしていた。連日のように、新聞の1面にロシア関連のニュースが載っていた。

日に日にロシアへの関心が強まっていった。ロシアを深く知れば、将来、やりがいのある仕事に出会えるかもしれない。

私は内定を捨てて、ロシアに留学しようと決めた。曖昧な気持ちで社会に出ることから逃げたい自分もいた。

マリアさんとの出会いが、私のその後の人生を大きく変えた。

意を決し、両親にロシアに留学したいと打ち明けた。両親の反応は予想以上に厳しかった。息子がすんなり就職すると考えていた母は落胆し、温厚な性格だった父は珍しく激怒した。

「露助(ろすけ、ロシア人に対する蔑称)の国には行かせない」

戦前生まれの父にとって、第2次世界大戦末期に対日参戦し、北方領土を不法占拠したソ連への印象は極めて悪かった。

それだけではない。ソ連崩壊後、ロシアの経済や政治の混乱、治安の悪化が日々、新聞やテレビで伝えられていた。なぜそんなに危ない国にわざわざ行くのか。息子の理解しがたい心変わりに、両親が戸惑ったのも無理はなかった。

当初、ロシア留学資金を両親に頼ろうと甘い気持ちを抱いていたが、それは難しいことを悟った。大学まで支えてくれた両親に、これ以上頼るわけにはいかない。反対を押し切って留学する以上、費用は自分で稼ぐしかない。

私は就職情報誌を買い、どんなにつらくてもかまわないので、最も給料が良い仕事を探した。そして目に飛び込んできたのが建設現場の「アンカー職人」という仕事だった。(続く)

新宿西口七福小路。線路脇にあり、右手奥に進むとバー「コーシカ」が立っていた。その先は行き止まりだった=1997年1月18日、東京・新宿で、松本泰生さん撮影