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【旅する記者②】内定を捨て日給数万円の職人の世界へ ドリルを鳴らして稼いだロシア留学の軍資金

旅する記者 更新日: 公開日:
筆者がアンカー職人の仕事で使っていたノート。ドリルの形状や扱い方のコツなどを逐一メモして頭にたたき込んでいた=西村大輔撮影

新宿のロシアン・バー「コーシカ」での出会いが、1人の青年の運命を劇的に変えました 。ロシアへの情熱を胸に、内定をすべて投げ打った西村大輔。両親の猛反対という壁を越えるため、彼が選んだのは建設現場での「アンカー職人」という未知の道でした。

イメージ写真(Getty Images)

バブルの余韻残る現場で学んだ「働く」原点

ロシア留学を決心した私は、すべての内定を断った。

自力でなるべく早く費用を稼ごうと、実入りの良い仕事を探した。探し方は単純だった。ある日買った就職情報誌に載っていた求人募集の中で、機械的に一番給料が高い仕事を選んだのだ。

それが建設現場の「アンカー職人」の求人広告だった。

バイト代は1件目の現場で1万円。2件目は8000円、3件目は6000円と加算され、1日最大で24000円が稼げる。

以前バイトしていた喫茶店の時給700円からみれば、破格だ。見たことも聞いたこともない職業だが、東京・亀戸にある建設会社を訪ねた。

JR亀戸駅に近い雑居ビル1階にある事務所に入ると、恰幅が良い社長が出てきた。

「なぜ大学生がうちで働きたいの?」といぶかしげに聞いてきた。私がロシア留学のためだと説明すると、さらに訳が分からないようだった。

とはいえ人手不足で、すぐに採用された。最初は見習いだが、技術が身につけば職人として扱い、出来高払いにしてくれるという。1992年春のことだった。

アンカー職人は、コンクリートに電動ドリルなどで穴を開け、アンカーボルトと呼ばれる金属部品を打ち込むのが仕事だ。

天井や壁などにアンカーボルトを施工することで、空調設備や配管、パネルなどさまざまなものを取り付けることができる。

住宅、高層ビル、空港や学校などの公共施設……。コンクリートの建造物があればどこでも仕事はある。バブル経済の余韻もあって仕事はまだたくさんあった。

イメージ写真(Getty Images)

出勤初日の早朝、緊張しながら待ち合わせ場所の公園に行くと、10人ほどの職人が集まっていた。

社員が来て、その日の仕事の場所や内容を職人一人一人に伝える。アンカー職人は、大人数で一緒に作業することはまれで、たいていは1人か2人で現場に向かう。

職人たちは工具や材料を載せた車に乗って首都圏各地に散っていく。1日に23現場をはしごすることもある。

私はブルーのつなぎや作業靴を自費で買いそろえ、車や電動ドリルなどの工具は会社から借りた。大学生の新入りを、職人たちは物珍しそうに眺めていた。

日替わりでさまざまな現場を回った。

10キロ以上あるずっしりとした電動ドリルを抱え、はじめのうちは10カ所も穴を開けると息が切れた。

職人たちは100カ所でも200カ所でもなんなくこなす。こんなきつい仕事を続けられるだろうかと不安になった。

外からは見えないが、コンクリート内部には鉄筋が縦横に入っている。ドリルの刃が鉄筋にあたるとそれ以上進まないので、少しずらして再び穴を掘る。

危険なのはドリルの刃が鉄筋に微妙にかする時だ。ドリルの刃に刻まれたらせん状の溝が鉄筋とかみ合うと、ドリル全体が突然激しく揺さぶられる。

気を抜いていると転倒したりして危険だ。高層ビルの外壁工事なら命取りになりかねない。いつドリルが暴れても押さえつけられるように、全身にぐっと力を入れ続けなければならない。

特にきついのは、天井アンカーだった。

私たちがオフィスビルなどで見ている天井は、コンクリートの実際の天井からつり下げられているボードだ。コンクリートとボードの間には空調設備やさまざま配線などが設置されている。

このボードをつり下げているのが天井アンカーだ。床から数メートルの高さにあるコンクリートに穴を開けるのは大変な作業だ。

長い柄がついた天井アンカー用のドリルの刃を付けるので電動ドリルは重く、不安定になる。さらに、重力に逆らって上向きに力を入れて穴を掘るのはしんどい。

慣れないうちは数本打つだけで、腕の筋肉が固くなり、痛かった。

それでも、へこたれている暇はなかった。1日も早く職人になりたい一心で、歯を食いしばった。

そのうちに、だんだんとコツをつかんできた。3カ月の見習い期間を経て、ついに社長から「職人」として認めてもらった。

決められた日給をもらう見習いとは違い、やればやるだけ収入が得られる出来高払いだ。仕事さえあれば1日に56万円稼ぐことだってできる。当時の平均的な大卒の初任給が3日で稼げるような金額だ。

つなぎで通ったロシア語学校

アンカー職人の仕事と平行して、ロシア語の勉強も始めた。

元々語学が苦手で英語もほとんど身につかなかった。ロシア語を習得できるのか、自信はなかった。

知人の紹介で、JR代々木駅に近い古びた雑居ビルに入居していたロシア語専門の小さな語学学校「ミール・ロシア語研究所」に入った。

初級クラスは45人で、授業は週2コマほどだった。教科書は、数字を覚えるための例文が「レーニンが生まれたのは1870422日です」といった、いかにもソ連時代らしい内容だった。

ロシア語の文法があまりにも複雑なのにたじろいだが、ロシア語の響きの美しさに魅了された。先生は発音をとても重視し、大きな声で例文を何度も読まされたのを覚えている。私は仕事帰りに作業服のまま授業を受けることもあった。

当時使っていたロシア語の教科書。「共産主義を建設しつつあるソ連国民は戦争を望んでいない」といったソ連時代らしい例文もあった=西村大輔撮影

工事現場では正午から午後1時まで、近隣住民に配慮して騒音を出さないように静まりかえる。ほかの工事関係者はそれぞれ、食事に出かけたり、昼寝をしたりしている。この静けさを利用して、私は車の運転席でロシア語の教科書を開き、例文を何度も声を出して読んだ。

ロシア留学に強く反対していた両親は、ずぼらだった息子が作業服を来て早朝に出かける姿を見て、いつしか留学に反対することはなくなっていた。

はじめは距離を置いていたアンカー職人たちとも徐々に親しくなっていった。

中でも忘れられないのがAさんと現場を回った日々だ。中背でがっしりとした体格をした30代のAさんは、薬物絡みで服役した経験があると語っていたのを覚えている。

口が悪く、「へたくそなお前と行っても稼ぎは半々だからやってらんねえよ」と馬鹿にされた。

そのくせ、自分はよく寝坊して遅刻した。現場に着くと、仕事を始めたかと思ったら、すぐにどこかで休んでいる。会社の規定で報酬は職人の数で均等割りするので、私が損することも多かった。

それでも、Aさんを憎めなかった。実のところ、彼のアンカー職人としての腕前はピカイチだった。

特大のアンカーボルトを打ち込むのは私には難しく、いつもAさんに仕上げてもらった。腕力が強いだけでなく、仕事が丁寧で正確だった。

古い公営住宅の数十戸の壁に、エアコンの配管などを通す丸い穴を開ける作業があった。回転する円筒形の刃の先端にダイヤモンド粒子をコーティングした「ダイヤモンドコアドリル」という特殊な機器を使う。仕事はきついが、報酬が高いので気合が入った。

ところが工事日の朝、同行するはずのAさんはいくら待っても現れない。また前の晩に泥酔したのだろう。仕方なく私は一人で現場に向かった。

必死に2人分の仕事を終わらせ、かなりの売り上げがあった。会社には2人で作業したと報告した。

夕方にようやく電話に出たAさんは平謝りしていた。仕事の結果を報告すると、「よく一人でできたな」と珍しく褒めてくれた。

それから、私に対する態度は変わった。まじめに仕事を教えてくれるようになった。

私を小馬鹿にしながらも、一緒に仕事をするのが楽しそうに見えた。仕事帰りによく飲みに誘われ、酔っ払いながら「なんでロシアになんか行きたいのかさっぱり分からねえけど、とにかくがんばれよ」と不器用に励ましてくれた。

生い立ちや学歴、職業などにかかわらず、独特の輝きを放つ人がいる。ほかの学生と違う道を歩いてみたからこそ見えてくるものがあった。

1年半にわたってアンカー職人として数多くの現場を回り、数百万円の貯金ができた。

この稼業がおもしろくなり、「アンカー職人で食っていっても良いかな」とさえ思った。親しくなった職人たちとの別れはつらかったが、それでもやはり、次のステップに進まねばならない。

ロシアに向けて旅支度を整える時が来た。まもなく留学先で戦乱に巻き込まれることになるなんて、そのときは知るよしもなかった。<続く>

現在の亀戸の街並み=2026年1月、西村大輔撮影