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【旅する記者③】チーズ1個買うのに1時間? 銃声が響き、戦車が走るモスクワで見た「激動」のリアル

旅する記者 更新日: 公開日:
モスクワ市内中心部の通りを走る戦車=1993年10月、西村大輔撮影

念願のロシア留学へと旅立った西村青年。1993年のモスクワで彼を待ち受けていたのは、「激動」のリアルでした。ソ連崩壊直後の大混乱期。目の前で繰り広げられる本物の銃撃戦に右往左往しながらも、日々の暮らしやホームステイを通じてロシア人の「素顔」に触れていきます。後の海外特派員に通じる感性が芽生えた、モスクワ滞在記をお届けします。

えらい国に来てしまった

アンカー職人の仕事を辞めてまもない1993年9月1日、私は成田空港からアエロフロートでロシア連邦の首都モスクワに向けて出発した。

果てしなく続くシベリアの大地を眺めながら、ロシアのとてつもない大きさを実感した。初めての海外生活。混乱が伝えられるロシアでうまく暮らせるだろうか。不安も大きかった。

私は国立モスクワ大学傘下で留学生にロシア語を教える「国際教育センター」に入学した。

モスクワ中心部からやや南西にある地下鉄シャーボロフスカヤ駅のすぐ近くに、外国人留学生の寮があった。ポプラ並木に沿って建てられたソ連式の無味乾燥とした集合住宅だった。

4人用の部屋で、ルームメートは全員日本人だった。スーツケースを抱えて階段を上る途中、掃除しているおばあさんとすれ違った。

「ズドラーストヴィチェ(こんにちは)」とロシア語であいさつすると、おばあさんは「は?」と首を傾け、肩をすくめた。通じなかったらしい。これからの生活が思いやられた。

授業は1クラス5~6人で、私以外は全員韓国人のクラスだった。教師は年配の女性でロシア語しか話さない。授業中に彼女が話している内容の半分も聞き取れなかった。何とか授業についていこうと、毎日大量の単語や文章を頭にたたき込んだ。

やがて、少しずつ教師が話している内容が分かるようになってきた。クラスで日本人が私だけだったのも良かった。いやでもロシア語で話すしかなかった。

こんなに真剣に勉強したのは生まれて初めてだった。アンカー職人として必死で稼いだお金を1円も無駄にしたくなかった。もし学費を親に頼っていたら、挫折していたかもしれない。

モスクワの治安は悪かった。いつ恐喝されてもすぐに差し出して命だけは奪われないように、ズボンのポケットには必ず100ドル札をしのばせていた。

一番たちが悪いのは警官だ。ささいなことで難癖をつけては賄賂をせびった。警官の給料は安く、自分の持つ小さな権力を少しでも換金しようとしていた。

大変だったのは買い物だ。「外貨ショップ」はドルなどが使え、輸入品なども含めて品ぞろえは豊富だった。

ただ値段は高く、当時は世界一と言われた東京の物価と変わらなかった。国営商店はルーブルしか使えず、品数も品質も劣っていたが、桁違いに安かった。

数年間留学する予定で生活費を切り詰めたかったので、できるだけ国営商店を利用するつもりだった。

それがどれほど苦痛なのかを初日に思い知らされた。

国営商店は固有の店名がなく「第○○○番食料品店」と数字で示されている。内装は古びて清潔とはいえなかった。

チーズを買おうとしたら、ショーケースの前に長蛇の列ができていた。しばらく並んで私の番になった。

いくつかのチーズの塊からほしいチーズを指さし、「200グラム」と女性店員に伝えた。店員は切り取ったチーズを古びた大きなはかりに乗せ、チーズの名前と実際に量った重さを紙切れに書いてよこした。

私が支払おうとすると、店員は「ここじゃない。レジに行って」と身ぶり手ぶりを交えて教えてくれた。

紙切れを握りしめてレジに並ぶ。ここにも大勢の人が並んでいて、ずいぶん待たされた。

ようやく私の番になった。ところが、レジの店員は「ここは野菜売り場のレジ。乳製品のレジは向こうだ」と言う。

なぜ商品ごとにレジが分かれているのか、まったく理解できなかった。乳製品のレジを見ると、そこにも長い列があった。

並び直してやっと私の番が近づいた時、レジの女性店員が女友達とおしゃべりし始めた。なかなか終わらないのでいらいらした。

レジが再開されたと思いきや、私の目の前でレジの小窓がぱたっと閉ざされた。「休憩」と書いてあるではないか。

怒りを通り越して、途方に暮れた。

チーズ売り場でもらったしわしわの紙切れを握りしめ、入店して1時間近くたつのにまだ1切れのチーズさえ手に入れていない。これからパンや野菜、肉、卵、調味料も買わねばならない。「いったい何時間かかるんだ」と天を仰いだ。

「これは、えらい国に来てしまったぞ」

早くもロシアに来たことを後悔した。

モスクワ大騒乱に遭遇 銃撃戦で逃げ惑う

私がモスクワにやってきた頃、ロシアは政情不安に揺れていた。

市場経済化に向けて急進的な改革を進めていたエリツィン大統領と、改革に強く反発していたルツコイ副大統領やハズブラートフ最高会議議長らの反大統領派との対立が、日に日に激化していた。

留学生活が始まって1カ月ほど。1993年10月4日だと記憶している。私は友人から、最高会議ビル周辺が大変なことになっていると聞き、現場に行ってみることにした。

モスクワ随一の目抜き通り「新アルバート通り」の近くに最高会議ビルは立っていた。「ホワイトハウス」と呼ばれたこのビルに、反大統領派が立てこもっていた。

前日に武力衝突が始まり、エリツィン大統領が「非常事態」を宣言していた。

新アルバート通りには、戦車がずらりと並び、数百人の治安部隊が列を成していた。周囲で大勢の市民がかたずをのんで状況を見守っていた。

モスクワ市内で起きた銃撃戦の現場に座り込む筆者=1993年10月
モスクワ市内中心部の通りにずらりと並ぶ軍用車両=1993年10月、西村大輔撮影

反大統領派の武装勢力と大統領側の治安部隊の間で銃撃戦が始まった。

シュッ、シュッと銃弾が飛び交う中、私はやじ馬に紛れて逃げたり、また現場に近づいたりして、数時間にわたって銃撃戦を眺めた。銃弾が左右に飛び交っている時と、自分の方向に飛んでくる時の音の違いも聞き分けられるようになった。

こちらに向かってくる音がすると、がむしゃらに逃げた。つい最近まで平和な東京で暮らしていた私は、目の前で展開している現実離れした情景に圧倒された。

「これは、えらい国に来てしまったぞ」。改めてそう思った。

この日、ロシア軍の戦車部隊が、反大統領派が立てこもる最高会議ビルを砲撃し、ルツコイ氏やハズブラートフ氏ら反大統領派は降伏。騒乱は収束した。

モスクワの中心部が内戦状態になったこの事件は、世界でトップニュースになった。恐ろしい経験だったが、歴史的事件の現場に立ち会えたことに興奮している自分もいた。

多くの同期生とはずいぶん違う道を歩んできてしまったが、「こんな経験も悪くない」と楽観的だった。

ホームステイで知ったリアルなロシア生活

日本人留学生と暮らすのも楽しいのだが、ロシア語を上達させるには良い環境とはいえなかった。

知人の紹介でお年寄りの姉妹が暮らすアパートにホームステイすることにした。モスクワ大学の西側を走る「友好通り」に面した典型的なソ連式アパートで、近くに中国大使館があった。

ウクライナ系のマリーナさんとガリーナさんの姉妹は夫に先立たれ、空き部屋があった。当時のロシアは市場経済に移行する過程で激しいインフレに見舞われ、ルーブルの価値がどんどん下がっていた。

年金は紙切れのようになり、多くの高齢者は困窮していた。路上で物乞いをするお年寄りが目立ち、心が痛んだ。

8畳ほどの部屋で、家賃は朝晩食事付きで月50ドル(当時のレートで約5000円)。驚くほど安かったが、価値が落ちないドルは、当時のロシア人にはのどから手が出るほど貴重だった。おばあさん姉妹は昼間にシリア人の幼児を自宅に預かって小金を稼いでいた。

初日の朝食が忘れられない。お米を牛乳と砂糖で煮た「カーシャ」(おかゆ)には、大きなバターの塊がのっていた。その横にはパンと厚切りのチーズ、豚の脂身を燻製(くんせい)にした「サーロ」などが並べられ、砂糖たっぷりのミルク入りコーヒーもあった。

甘くて、脂っこくて胸焼けしそうだった。夕食もかなりのボリュームで、私の体重はあっという間に10キロ増えた。

食材はいずれも高価なものではなかったが、カロリーは高かった。厳しい寒さに耐えるには脂肪分も必要なのだろう。

冬のモスクワは零下20度を下回る。教室まではバスで30分から40分ほどかかるが、バスには暖房がついていなかった。窓ガラスの内側は乗客の息の水分が凍りついている。厚着をしていても寒さが身にしみる。

マリーナさんたちが教えてくれたのは、家を出る前にウォッカをショットグラスで1杯ひっかけることだった。学校に着くまで体がぽかぽかと温まり、授業が始まるころには酒は抜けている。

むしろ少し酔っ払っている方が、教師やクラスメートとロシア語で会話するのに口がなめらかになった。私は冬の間中、毎朝ウォッカを飲み続けることになった。

ホームステイでお世話になったマリーナさん(左)とガリーナさん姉妹=1993年11月、西村大輔撮影

韓国人、フィンランド人、ドイツ人、トルコ人、イラン人……。実にさまざまな国籍の留学生と知り合った。

その思い出をつづっていたら紙幅がどれだけあっても書き切れない。中でも忘れられない友人の1人が、ギニア出身のダボだった。

アジアや中東、アフリカなどの留学生を多く受け入れていたロシア諸民族友好大学の留学生だった。

寮の廊下で偶然知り合い、人なつっこい性格ですぐに打ち解けた。ロシア人の知り合いも多く、いろいろな人たちを紹介してくれた。

ロシア人たちも、ギニア人と日本人の留学生コンビをおもしろがって、よく食事やパーティーに招いてくれた。多民族国家のロシアでは、あまり人種的な偏見を感じることはなかった。

ダボが手作りしてくれた肉を煮込んだカレーに似たギニア料理が絶品で、しょっちゅう彼の寮で寝起きした。

あっという間に時間が過ぎ、夏休みが近づいてきた。

ダボが「日本人の親友をギニアの家族や親戚に紹介したい。夏休みに一緒にギニアに行かないか?」と誘ってきた。アフリカ旅行なんて思いもよらなかったが、友人と一緒なら楽しそうだと思い、快諾した。

しかしその後、私はアフリカの大地で生死をさまようことになる。(続く)

モスクワ留学中に親しくなったギニア人留学生のダボ君(左)と筆者