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【旅する記者④】ギニアの大地が変えた「人生の景色」 マラリアの窮地を救ったあの国の診療所

旅する記者 更新日: 公開日:
ギニア内陸部の市場でおしゃべりする女性たち=西村大輔撮影

ロシア留学中に親友に誘われ、予備知識もないまま西アフリカのギニアへ向かった西村大輔青年。言葉も文化も異なる地で、ひたすら繰り返されるあいさつや人々の温かさに触れる日々。予期せぬピンチを救ったのは、あの国の診療所でした。

延々と続く「魔法のあいさつ」

1994年8月、私はモスクワ留学中に親友となったギニア人留学生のダボと、ロシアのアエロフロート便でギニアの国際空港に降り立った。

ダボに誘われて夏休みの里帰りについてきたが、ギニアといえば、タレントのオスマン・サンコンさんの故郷というぐらいの知識しかなかった。調べてみると、日本の本州とほぼ同じ面積で、アフリカ西部に位置する農業や鉱業が盛んな国だと知った。

飛行機の窓から眺めると、マングローブ林と赤褐色の大地が印象的だった。大西洋に細長く突き出て、建物がびっしりと並んでいる岬が首都コナクリだ。

国際空港といっても日本の地方空港のように小さかったが、旅客でごった返していた。初めて足を踏み入れたアフリカの大地に胸が躍った。

ギニア内陸部のクルコロの集落=西村大輔撮影

親友ダボの名前はサリウとかサレムとか、いくつかの呼び方があって覚えにくかった。だから私はいつも名字の「ダボ」と呼んでいた。

ギニアはフランスの旧植民地で、ダボはフランス語も話せたが英語は苦手だったので、2人の共通言語はロシア語だった。ギニアに滞在した約1カ月もの間、ロシア語で通訳してくれたダボは大変だったに違いない。

ギニア人の大半はイスラム教徒だ。ダボ家は地元の名家で、父親には4人の妻がいた。

ダボのきょうだいは10人を優に超え、おじやおばは数十人、親戚全体となると数百人、数千人規模になる。国内各地の自治体の首長や幹部も大勢いた。私はダボとギニア各地の親戚を訪ねまわる計画を立てた。

最初に滞在したコナクリでは、ダボの実母やきょうだいと過ごした。父親は病気のため米国で治療を受けていると聞いた。

暮らし始めてすぐに面白い習慣に気付いた。ギニア人は知人に出くわすとあいさつの掛け合いが始まるのだが、それが延々と続くのだ。

「タナテ?」(元気ですか?)

「タナシテ」(元気です)

といった基本形から始まり、

「お父さんは元気?」―「元気です」

「お母さんは元気?」―「元気です」

「子供は元気?」―「元気です」

「おじいさんは元気?」―「元気です」

「おばあさんは元気?」―「元気です」

「仕事はうまくいっている?」―「順調です」……。

こんな調子で小気味よい掛け合いが続く。長いときは数分もかかることがある。

ギニア人にとって、親密さや礼儀を表すためにあいさつはとても重要だという。私はこのあいさつができたらギニアの人々に喜んでもらえると思い、一連の掛け合いを丸暗記した。

ギニアの言葉はとても覚えやすかった。試しにダボの友人に「タナテ?」とあいさつしてみると、みんな目を丸くして驚いた。

ギニア内陸部の川の船着き場で遊ぶ子供たち=西村大輔撮影

当時のアルバムを見返すと、コナクリのほかに、「カンカン」、「ケルワネ」、「ファラナ」、「クルコロ」などの数多くの地名が書かれている。定員をはるかに超える20人以上もの客をワゴン車に詰め込んだ乗り合い自動車で、広大なサバンナを移動したことを思い出した。

日本人はかなり珍しいようで、どこに行っても歓待された。ある村では、広場に集められた村民の前で私が自己紹介することになった。村民に向かって例の「タナテ」のあいさつを始めると、「日本人が私たちの言葉を話している!」と大騒ぎになったこともある。

ギニアはとにかく子供が多かった。街路を散歩していると、かわいらしい幼児らが次々と私の指を握りしめてくる。気がつくと、私の指1本ずつが、それぞれ10人の子どもに握られていた。

ギニア内陸部カンカンで食事する女性たち=西村大輔撮影

行く先々でダボの友人たちがホームパーティーを催してくれて、地元の若者が集まった。ギニア人は深い肌の色が印象的で、男性も女性も均整がとれて彫刻のように美しい姿だと感じた。

食事はピーナツソースなどで肉や魚を煮込んだ、カレーのようなスープを白米にかける料理が定番で、抜群においしかった。

食事時は男女が分かれて座り、大皿を囲んで手でつまんで食べた。同席したギニア人たちは、おいしそうな肉の塊を見つけるとそっと私の方に寄せてくれた。

ある夜、満天の星を眺めながら、就職活動していたころや、新宿のバー「コーシカ」のマリアさんと過ごした日々、アンカー職人として汗を流していた時のことを思い浮かべた。

日本から1万キロ以上離れ、自然も文化もなにもかも違うギニアの大地に身を置くと、日本で悩んでいたことなんて、ほんの些細(ささい)なことなのだと感じられた。

生死の境で出会った意外な救世主

こうしてギニアの旅を満喫していたある日、急に悪寒に襲われた。気温は40度を超えているのに、ぶるぶると震えた。

「マラリアかもしれない」と思い、地方の旅程を早めに切り上げ、コナクリのダボの実家に戻った。蚊を媒介にして感染するマラリアは放置すれば死に至る病気だ。

私は冷たいタオルを持ってきてほしいとお願いした。しかし、ダボは「なんで寒いのにタオルでさらに冷やすの?」と難色を示し、「いま家族みんなで神に祈りを捧げているから心配するな」と私をなだめた。

私は「お祈りはありがたい。でも、タオルも持ってきて」と懇願したことを今でも覚えている。

ダボには急いで病院を探してもらった。

大変失礼なことは承知の上で、ギニア人の医師ではなく、もしいるなら日本人、あるいは欧米人の医師を探してほしいとお願いした。道中、ギニアの病院で注射針を洗っているのを見て、衛生環境が不安だったからだ。

ダボはいやな顔一つせず、知人を通じて外国人医師を懸命に探してくれた。

しばらくして、ダボが床に伏せている私に駆け寄り、「外国人の医師が見つかったよ。コリアンだ」と言った。

私は「韓国人の診療所なら、きっと衛生管理は日本と変わらないだろう」とほっとした。

私はダボが手配してくれた知人の軽トラックの荷台に載せられた。当時のコナクリの道路は穴だらけで、荷台にしがみつきながら必死に振動に耐えた。

軽トラックは市街地を離れて郊外の山間部に入っていく。「ずいぶん不便なところに病院があるのだな」と不思議に思った。

しばらくして診療所に到着し、木製の門が開いた。

診療所の敷地に入ると、玄関に北朝鮮の金日成国家主席の肖像画が掲げられているのが目に入った。

「コリアンって、北の方だったのか……」

私は動揺したが、この高熱を鎮めてくれるなら、もう誰でもいいと観念した。人生で初めて会う北朝鮮人だけに、私は身構えた。

診療所から白衣を着た若い男性の医師が出てきた。

私はモスクワの韓国人留学生から教えてもらった韓国語で、たどたどしく「アンニョンハセヨ(こんにちは)」とあいさつした。

医師はにっこり笑って「ハロー!」と返してきた。肩の力が抜けた。

診療所は清潔で、包装された使い捨ての注射針もそろっていた。医師は私の症状をチェックし、すぐにマラリアだと診断した。「キニマックス」という注射薬を2日に分けて7本をお尻に打つことになった。

私は早速ベッドにうつぶせになり、お尻を出した。

いつの間にか診療所に入ってきたダボの友人や地元の子供たちが興味津々でベッドを取り囲んでいる。そんな恥ずかしい状態で、太めの注射を次々に尻に打たれた。私のうめき声が出るたびに、どっと笑い声が響いた。

私は謝意を伝えて治療費を支払おうとしたが、医師は受け取らなかった。

1958年にフランスから独立したギニアは1980年代半ばまで社会主義体制を敷き、北朝鮮との関係も深かった。北朝鮮はかつて、第三世界に影響力を浸透させようと、ギニアなどアフリカ諸国に診療所を建てるなど医療支援に力を入れていたという。

私が訪れた診療所もおそらくその一環だったのだろう。とはいえ、日本からはるか遠く離れたアフリカの大地で、北朝鮮の医師に命を救ってもらうとは夢にも思わなかった。

治療のおかげで熱は引き、体調は徐々に回復していった。

忘れられない濃密な時間を過ごしたギニアとお別れの時が来た。私は日本に一時帰国した後、秋からモスクワ大学の学部生として留学を続けるつもりだった。

ところが、日本で思わぬ苦境に陥り、留学を断念せざるを得なくなった。その代わり、意外なチャンスに巡り合うことになる。(続く)

ギニア内陸部カンカンで子供たちと遊ぶ筆者