【旅する記者⑧】「日本のスパイ?」反日感情を乗り越え 中国留学で知った「隣人」の素顔と温かさ
北海道新聞から朝日新聞に転職したのは2001年2月だった。
最初の赴任地は水戸総局で、事件取材を担当するいわゆる「サツ回り」から始まった。2年後には東京社会部に異動となり、警視庁クラブに配属された。
警視庁公安部を担当し、極左集団、極右集団、カルト教団、中国や北朝鮮、ロシアなどのスパイ活動、テロ組織などに関する取材をした。普通に暮らしていれば一生出会うことがないような、特殊な世界の人々とつきあった。
2004年末、警視庁の記者クラブで仕事をしている時、1通のメールが目に留まった。海外留学生を募集する社内メールだった。
警視庁担当は社内で最も過酷な職場の一つで、私は日々「夜討ち朝駆け」を繰り返していた。朝早くから、あるいは夜遅くまで、捜査員の自宅前で待ち伏せして話を聞く取材手法だ。
捜査員は事件が動いている時は警視庁にはあまりいないし、いたとしても人目があるところで記者と話をするはずもない。だから捜査員の自宅前で、1対1で話す場をつくって情報を引き出しやすくするのだ。
そんな生活に疲れ切っていた私にとって、社費で1年間留学できる制度は輝いて見えた。
朝日新聞は毎年数人の記者を留学させている。この年は英語と中国語、ドイツ語、アラビア語の4カ国語を募集していた。申請書に第3希望まで書いて所属長に提出せよとある。
私はロシア語を学んだが、英語はぜひ習得したいと思っていたので、第1希望は迷わず英語と書いた。当時は米同時多発テロを引き起こしたイスラム原理主義のテロ組織アルカイダが注目され、イラク戦争も勃発。アラブ世界に興味があったので、第2希望はアラビア語と書いた。
第3希望は正直どこでもよかった。ただ当時、小泉純一郎首相の靖国参拝などで日中関係が険悪化しており、私は「こんなに日本を敵視している国には行きたくないな」と思い、第3希望はドイツ語にした。
しばらくして、私を呼び出した社会部長は、英語留学については昨年手を挙げたが行けなかった社会部の別の記者に行かせたいと話した。その代わり、中国留学の席が一つ空いているという。
2008年の北京五輪を控え、朝日新聞は中国語を使える記者を増やそうとしていた。英語以外の言語であれば通常は年1人だが、この年は中国に4人も派遣する計画だった。それで私にもお鉢が回ってきたというわけだ。
私は戸惑った。そもそも中国語は希望していない。関心もない国に突然行けと言われても。
一方で、どんな外国語であろうと日々の激務から解放されて勉学に没頭できる生活は魅力的だった。
数日考えた末、中国に行くことに決めた。
1年間の留学期間は語学をマスターするには短い。効果的に中国語を学ぶため、日本人が一人もいない大学を探した。中国語しか話せない環境に自分を追い込むつもりだった。
中国留学の仲介業者に調べてもらうと、雲南省昆明にある雲南大学と、陝西省の古都・西安にある西北工業大学などが候補に浮かんできた。私は高原地帯に位置して夏でも涼しい雲南大学で夏季講習を受け、その後西北工業大学で本格的に留学生活を送ることに決めた。
2005年7月、私は広州経由で昆明に入った。雲南大学ではこの夏、外国人留学生が集まらなかったようで、私は中年の女性講師とマンツーマンで中国語の基礎を学んだ。
講師は中国の歌謡曲が好きで、授業の終盤に彼女の好きな曲をCDプレーヤーで流し、中国語の歌詞を見ながら一緒に歌う練習をした。夏季講習で覚えた数曲の歌詞は不思議と今でもよく覚えている。
当初は中国留学にあまり気乗りがしなかったが、暮らし始めると、記者にとっては実に興味深い国であることがわかった。街では近代的な高層ビルの建設工事が至る所で進んでいる一方、取り壊しを意味する「拆(チャイ)」と書かれた紙が随所に貼られた貧民街が広がっていた。
高度経済成長の影で貧富の格差や環境破壊などさまざまな矛盾が噴き出していた。雲南省は少数民族が多い地域で、漢族のほかにもイ族、ナシ族、チワン族、ミャオ族などさまざまな民族の学生と知り合った。共産党を中心とした赤一色のイメージが強い中国だが、実際にはかなり多様性がある社会だった。
雲南大学での講習が終わり、9月上旬に飛行機で西安に向かった。
機内で隣に座った年配の女性とおしゃべりして親しくなった。高さんという西安郊外の療養所で働く看護師だ。日本人の私が中国語を勉強していることをとても喜んでくれた。
空港に到着すると、中国語がつたない私のことが心配になったようで、高さんは留学先の大学まで付き添うと言ってくれた。バスとタクシーを乗り継いで大学まで行くと、高さんは留学生担当の教員に掛け合ってくれて、宿泊施設などの手続きもやってくれた。
中国人には、こんなに世話好きな人もいるのだと驚いた。礼をいうと高さんは「困ったときはいつでも連絡をちょうだい」と言って去っていった。
高さんはその後も、自宅で手作りの中華料理を振る舞ってくれたり、買い物に付き合ってくれたり、いつも親切にしてくれた。
街中では、私が日本人だと分かると「小日本(日本人に対する蔑称)」などと絡んでくる輩(やから)もいた。そんな時、高さんは「彼は中国語を熱心に勉強している日本人よ。中国を理解しようとしている人を悪く言ってはだめ」などと私を守ってくれた。反日感情が高まっていた時期だけに、公衆の場で日本人をかばうのは決して簡単なことではなかったはずだ。私は高さんを「西安のお母さん」と呼んだ。
西安の中心市街地は、いかにも古都らしく城壁に囲まれている。大学はその城壁の南西に位置していた。中国の理工系大学の中でも有数の名門校だった。
ただ、当時は留学生を受け入れ始めて間もない頃で、留学生は50~60人だったと記憶している。そのうちの大半が、旧ソ連圏のカザフスタンやキルギスなど中央アジアの学生で、それ以外では韓国人が目立ったが、日本人は私1人だけだった。
中央アジアの学生たちはロシア語が堪能で、私もロシア語を話せることを知ると、たちまち仲良くなった。日本語を話せない環境に自らを追い込もうとこの大学を選んだのに、今度はロシア語に囲まれる生活になってしまった。
着いてから知ったのだが、西北工業大学は航空、宇宙、海洋工学などが強く、人民解放軍とつながりが深かった。米国の輸出規制対象でもあった。
単に日本人留学生がいないからこの大学に決めたのだが、あえてこの大学を選んだ日本人の新聞記者はかなり怪しく見えたかもしれない。
中国人学生と親しく交流する機会は少なかったが、学内にアニメ愛好会があることを知り接触してみた。日本アニメの影響力は絶大で、愛好会は日本人の私を快く受け入れてくれた。ここで多くの学生と知り合い、今でも連絡を取り合う友人もできた。
中でも印象的だったのは李という学生だ。李君は初めて日本人の友人ができてとてもうれしそうだった。買い物や市内観光など、なんでも付き合ってくれた。
ただ、少し気になるところがあった。
「なぜ中国語を学ぶことにしたの?」「なぜ、この大学を選んだの?」「大学では何を勉強しているの?」。李君は私と会うたびに、同じような質問を繰り返した。
ある日、私は李君に「なぜいつも同じような質問をするの? もう何度も答えたよね」と言った。
すると彼は恥ずかしそうに「僕は西村さんが大好きなんだ。でも、母は『日本のスパイだから付き合ってはいけない』と言うんだ」と白状した。
私は笑って「私が本物のスパイだとすると、会ったこともない李君のお母さんにも見破られたら私の仕事は失敗だ。ずいぶん間抜けなスパイだよね。安心して」と答えた。すると李君はほっとしたように笑った。
ただ、中国社会では私のような外国人は、容易にスパイと結びつけられるような存在なのだと実感した。
西安の生活にも慣れてきた11月ごろ、西安市の外国人の中国語スピーチ大会があった。
西北工業大学でも3人の代表を選ぶ予選会を開くことになった。私も腕試しをすることにした。原稿を作り、中国に翻訳し、滑らかに話せるよう練習した。文案のチェックや発音の矯正などを中国人の友人たちが親身になって手伝ってくれた。
スピーチは「西安の母」との出会いを紹介し、日中友好の大切さを主張する内容だった。選考会には、私の他、韓国人やキルギス人らが参加し、代表の座を争った。
私は他の学生よりも中国語を学んだ日は浅かったが、何とか代表の1人に選ばれた。審査した教員も、私のスピーチを褒めてくれた。
ところが、である。本大会の前日、大学の担当教員に呼び出され、私は大会に出場できなくなったと言われた。
少し前の10月中旬に小泉首相が靖国神社に参拝したことで、日中関係は一段と悪化していた。
担当教員は「こういう時期なので、西村さんのスピーチ中にものを投げられるといった不測の事態もありうる。あなたの安全のためだ」と説明した。
私は納得がいかず、「私のスピーチは日中友好がテーマなのに、なぜだめなのか。日中関係が悪いときだからこそ交流が必要なのでは?」と食い下がった。
それでも決定は覆らなかった。敏感な外交問題で少しでもトラブルを避けたい市当局の官僚的な対応だった。
約1カ月かけた準備は水の泡となった。留学生仲間や手伝ってくれた中国人の友人たちはみんながっかりして、私を慰めてくれた。
留学中、日本では知り得なかった中国人の人なつっこさを知った。政治に敏感な中国社会独特の雰囲気も体感した。
大学の授業の合間に旅して回り、広大な中国大陸の多様さにも圧倒された。目からうろこの新鮮な経験を重ねた留学生活はあっという間に終わってしまった。
偶然の巡り合わせで留学することになった中国だったが、今ではくめども尽きぬ興味がわき、ぜひ中国特派員になりたいと思う自分がいた。
私は帰国後まもなく、幸運にも上海支局長として特派員生活を始めることになる。そこで、中国特派員の仕事の本当の過酷さを知ることになる。(続く)