日本が中国との国交正常化に動いたきっかけは、1971年7月のキッシンジャー米大統領補佐官の極秘訪中だった。中国大使を務めたことがある谷野作太郎氏は次のように明かす。
「キッシンジャー訪中は国務省を外して行われ、ロジャーズ国務長官らが反発しました。キッシンジャーとニクソンには、中国を取り込んでソ連を包囲したい考えがありました。ベトナム戦争の負担を軽くするため、ベトナムとの和平に向けて中国の仲介を期待していた側面もありました」
ニクソン大統領はキッシンジャー氏の帰国後、極秘訪中の事実と大統領自身が近く訪中する考えを発表した。
谷野氏は「外務省の幹部たちは『これが米国のやり口か』と憤慨し、怒り狂っていました。日本政府は米国との間で、対中国関係は緊密に協議するとしていました。米国はソ連にすら、2、3日前に連絡したのに、当時の駐米大使、牛場信彦氏に説明したのは、発表の数分前でした。米国は日本を格下に見ていました」と語る。
谷野氏の言葉通り、米国は戦後長く、敗戦国の日本を対等のパートナーとして扱ってこなかった。例えば、外交史上で有名な「ダレスの恫喝」がある。
1956年8月19日、重光葵外相はダレス米国務長官と会談した。当時、歯舞・色丹の2島返還で領土問題を妥結するという動きがあった。
ダレス氏は、日本側が国後、択捉両島に対するソ連の主権を認めた場合、米国は沖縄領有を主張する考えを伝えたとされる。
米国はなぜ、極秘訪中を発表直前まで日本側には伏せていたのか。谷野氏によれば、キッシンジャー氏は「日本人は口が軽いから」と、冗談めかして周囲に語ったという。
谷野氏を含む複数の外務省元高官によれば、ニクソン大統領の発表を受け、当時の外務省内には「対中関係で米国に先を越させない」との怒りの声が上がる一方、「米国が動き出したのだから、自分たちも中国と関係を結んで構わないんだ」という安心する声が広がったという。
1972年7月、田中角栄氏が首相に就任し、9月に訪中した。日中共同声明は、台湾条項や歴史認識を巡って難航した。
田中首相は夜になるとウイスキーを飲みながら、「ダメなら引き上げよう」と言いつつ、「大平(正芳外相)も高島(益郎条約局長)も大卒だろう。頭が良いなら、知恵を出せ」と叱咤した。
日本側は共同声明の前文で、戦争終結や歴史認識に詳しく触れることで、解決を図った。
9月25日の晩餐会で、通訳を巡って混乱した田中首相による「わが国が、中国国民に対して多大なご迷惑をかけた」という発言も、訪中前に「絶対、中国に謝罪するな」とした自民党の強硬意見を押しのけた結果だった。
自民党は田中首相の発言に反発したが、訪中後に首相が自民党で説明を行うと、程なく騒ぎは収まったという。
谷野氏は「当時の自民党に、後藤田正晴元官房長官のような戦争経験者が多数いたことも影響しました」と振り返る。
1985年にソ連でゴルバチョフ政権が発足し、ソ連と中国が再び接近を始めると、中国の日本に対する態度が徐々に冷淡になっていった。
1990年代後半になると、中国の測量船が東シナ海に頻繁に出没し始めた。海流や塩分濃度などを調べている様子が見て取れ、潜水艦用の海図を作っているのではないかという指摘が出た。
1995年から1996年にかけて起きた台湾海峡危機問題もあり、日本内部で中国軍の動きについて少しずつ警戒感が強まった。
これに対し、中国は中曽根康弘首相、橋本龍太郎首相、小泉純一郎首相らの靖国神社参拝に激しく反発した。当時外務省高官だった人物は「でも、外務省は米国中心主義ですから、米国に従って外交を立てるしかありませんでした」と話す。
日本と米国は1980年代から1990年代にかけ、貿易摩擦の問題から緊張した関係が続いた。1998年6月、クリントン米大統領が日本に立ち寄らず、中国に9日間滞在すると、日本の国内から「ジャパン・パッシングだ」という不満の声が上がった。
2001年1月、米国で共和党のジョージ・W・ブッシュ政権が登場すると、日本政府内で対中政策での日米協力を期待する声が出たが、同年9月の世界同時多発テロにより、ブッシュ政権の関心はアフガニスタンやイラクに移った。
2009年に登場したオバマ政権も当初は対中融和姿勢が目立った。中国は2008年の北京夏季五輪以降、対外的に強硬姿勢が目立ち始め、尖閣諸島や南シナ海の権益で日本やフィリピン、ベトナムなどと衝突した。
オバマ大統領が尖閣諸島を日米安保条約第5条の適用対象だと明言したのは、2014年4月になってからだった。
当時の自衛隊幹部は「私たちの危機感を共有する米軍関係者がいても、ホワイトハウスまでは届きませんでした」と語る。
逆にトランプ政権の後半から、米国は中国と対決する道を選んだ。ポンペオ国務長官は2020年7月の演説で「今、行動しなければ、中国共産党はいずれ我々の自由を侵食し、自由な社会が築いてきた規則に基づく秩序を転覆させる」と述べ、中国との対決姿勢を鮮明にした。
バイデン政権は今年春、インド太平洋経済枠組み(IPEF)を創設する協議を始めた。内容をみると、デジタルや労働などの分野で新たなルール作りを目指している。
日本政府関係者は「半導体供給で中国を締め出し、中国の人権問題を批判するために労働問題を使うなど、明らかに中国包囲網を狙った枠組みだ」と指摘する。
東南アジア諸国などは米国の強硬姿勢を懸念し、IPEFへの参加をしり込みした。日本はこうした国々の参加を実現するため、米国と東南アジア諸国との間で仲裁に奔走したという。
最近では、米国の国力の低下もあり、独自外交にまい進する国々の姿も目立つ。インドは、日米豪印の安全保障対話(QUAD)に参加する一方、ロシア極東地域で8月から9月にかけ、ロシア軍が主導して行われたボストーク軍事演習にも参加した。
バイデン大統領は7月、関係が冷え切っていたサウジアラビアを訪問し、エネルギー供給などでの協力を求めたが、サウジアラビアは大幅な原油増産には応じなかった。
「頼れるものは日米安保条約とG7(主要7カ国)の枠組みだけ」(外務省関係者)という日本は、そんな独自外交を行う余裕もない。
谷野氏はこう述べた。
「今の外務省は首相官邸の言いなりになるだけで、自分たちで外交を切り開く力もありません。こんな状況では、日中関係を新たに構築していくことは到底、無理でしょう」