■「真綿で首を絞めるやり方」
米ハーバード大アジアセンターの池田徳宏シニアフェロー(元海将)によれば、同時期に行われている国連総会に比べ、QUAD首脳会議に対する米メディアの関心は低かった。池田氏は「逆に、それが今回のQUADの考え抜かれた成果だと思う」と語る。「共同声明が中国を名指しせず、米英豪によるAUKUSのような、軍事的な要素も盛り込まなかったからだろう。だが、中国の戦略を阻む要素があちこちに含まれている」
池田氏によれば、中国の戦略について、米外交誌「フォーリン・アフェアーズ」に掲載されたラッド元豪首相の論文が参考になるという。ラッド氏は、中国が取り得るQUADへの対抗策として、①東南アジア諸国連合(ASEAN)の分断②QUADメンバーの分断③ロシアとの関係強化――の三つを挙げた。
これに対し、共同声明は「インド太平洋に関するASEANアウトルック」政策への強い支持を再確認した。アウトルック政策は2019年6月に採択されたASEAN独自のインド太平洋構想だが、インドネシアなどが主導し、中国寄りのカンボジアやラオスなどの関心は薄いとされる。中国も王毅外相が9月、ベトナム、シンガポール、カンボジアを歴訪するなど、ASEAN諸国の分断と取り込みを目指している。
同時に、共同声明はAUKUSへの言及もなかった。ASEAN各国からはAUKUSに反発するコメントが相次いでいた。池田氏は「QUADはAUKUSと全く違うとアピールし、ASEANの取り込みを図っている」と語る。
また、QUAD共同声明は、インド太平洋地域への新型コロナウイルスのワクチンや「ハイスタンダードなインフラ」を提供すると強調した。池田氏は「地域内の国々を取り込むための誘い水だろう」と指摘する。QUADの取り組みが成果を上げれば、中国による巨大経済圏構想「一帯一路」や、中国主導の国際金融機関「アジアインフラ投資銀行」(AIIB)の影響力が下がっていくという構図だ。「真綿で首を絞めるようなやり方。中国は非常に嫌がるだろう」
逆にQUADが中国との正面衝突を避けたのは、同盟国ではないインドへの配慮や、経済や気候変動の問題で中国との協力が不可欠だという判断がある。池田氏は「QUADは今後も、経済と安保のバランスを取りながら政策を決めていくだろう」と分析する。
これに対し、中国はオーストラリアに事実上の経済制裁を科すなど、QUADの分断を目指している。そのなかで、非同盟諸国のリーダーを自認するインドが3月のオンライン会議に続き、対面での首脳会議に参加した。QUAD共同声明は「我々は、協力する習慣を引き続き積み上げていく。我々の首脳及び外相は毎年会合を開催し、高級実務者は定期的に会合を開催する」と宣言した。池田氏は「中国は相当、衝撃を受けていると思う」と語る。
■菅首相の外交への関心度合い
一方、日本は2016年8月に開かれた第6回アフリカ開発会議で、安倍晋三首相(当時)が「自由で開かれたインド太平洋戦略(FOIP)」を発表。米政府元当局者も「インド太平洋政策で、日本は常に新しいアイデアを出して関係国を引っ張ってきた」と語る。
しかし、日本は今回のQUAD首脳会議では、目立たなかった。菅首相も会議後、記者団に「私たち4カ国の自由で開かれたインド太平洋の実現のために、協力のさらなる発展に向けて、大変に意義のある会合であった」と語ったが、共同声明をなぞるような表現が目立った。池田氏は「16年当時から、日本が主体的にFOIPをけん引してきたが、今では米国がQUADを主導し、FOIPの具現化が進められようとしている。中国との急激な経済関係の悪化を避けたい日本としては、米国の陰に隠れていた方が得策と言える」と述べ、「結果オーライ」との考えを示した。
ただ、菅首相自身が9日の会見で在任中を振り返って「新型コロナとの闘いに明け暮れた日々だった」と語った通り、菅政権が外交安保政策に力を入れる余裕がなかったのも事実だ。今年1月に発足したバイデン米政権による外交政策の見直しにより、「菅政権が対米外交を展開できる時間は半年くらいしかなかった」(外務省幹部)という不運も重なった。
それでも、複数の政府関係者は、菅首相は外交や安全保障分野には関心が薄かったと証言する。広島での平和記念式典での「原稿読み飛ばし」が話題になったが、菅首相はオンライン形式での国際会議でも原稿を読み飛ばしたことがあった。別の国際会議では、官僚が準備した演説文を慎重に読み込んだため、制限時間を超えたこともあった。外務省は時間に余裕をもたせて原稿を作るよう内部に指示を出したという。
菅首相は4月、訪米してバイデン大統領と会談した。共同声明で「台湾海峡の平和と安定の重要性」を盛り込んだ。同時に「抑止力及び対処力を強化する」「サイバー及び宇宙を含む全ての領域を横断する防衛協力を深化させる」などとしたが、具体的な政策は先送りされた。米政府の元当局者は「指摘したい問題に全て触れたが、あいまいな表現が目立った」と語る。首相官邸は日米首脳会談後、具体策の策定に向けた指示を出していない。
菅首相は、豪州のモリソン首相と親密な関係を築いた。昨年11月に東京で首脳会談を行ったほか、今年6月の主要7カ国(G7)首脳会議でも朝食を共にした。近年、中国との関係悪化に悩む豪州側の事情が大きかった。米政府関係者は「豪州はQUADメンバーによる共同訓練など、豊富なアイデアを出し、QUADの機運を盛り上げた。豪州の果たした役割は大きかった」と語る。
また、菅政権は中国やロシア、韓国との外交では、関係が悪化、停滞していたこともあり、目立った成果を上げられなかった。来年は日中国交正常化50周年を迎えるが、首相官邸から外務省に具体的な指示は出ていない模様だ。
米政府の元当局者は「菅政権は外交に関して言えば、レッドテープ(官僚主導)が目立つ政権だった」と語る。
一方、日米首脳会談で台湾問題に触れたが、国家安全保障戦略や防衛大綱を見直す作業は始まっていない。山崎幸二統合幕僚長は2019年4月の就任以来、在任期間の目安とされる2年を超えたが、交代を巡る動きもない。自衛隊関係者は「官邸の考えがよくわからないので、他の将官級ポストの異動も滞っている」と語る。
昨秋、外務省や自衛隊の関係者が菅首相に対し、約1時間にわたってバイデン新政権の対外戦略を説明した。米中対立が激しくなるとして、在日米軍基地への中距離ミサイル配備の可能性などにも触れた。菅首相は、簡単な相づちを打つだけで、質問や主張はほとんどしないで終わった。
また、防衛省は来年度予算案として5兆4千億円余りを概算要求したが、陸上配備型の迎撃ミサイルシステム「イージス・アショア」の代替策としたイージスシステム搭載艦の建造費の計上を見送った。北朝鮮による核・ミサイル攻撃の可能性を理由に掲げた「24時間365日、切れ目のないミサイル防衛」の実現は大幅に遅れる見通しだ。
自衛隊関係者は「欧米各国が中国との対決姿勢を強めるなか、北朝鮮の脅威を理由に防衛戦略を組み立てるやり方は限界に来ている。国家安保戦略を見直し、専守防衛のあり方などの議論を始めるべきだ」と語る。
10月4日に発足する見通しのポスト菅政権も新型コロナ対策に苦しみそうだ。自民党議員の1人は「新政権が高い支持を得て、総選挙に勝利してもコロナの感染拡大が続けば、支持率がいつ急落してもおかしくない。来夏の参院選までしか続かない可能性もある」と語る。短期政権が続く場合、こうした外交安保戦略の練り直しが進まないばかりか、中国や北朝鮮による軍事挑発を招くことにもなりかねない。