「中国問題について十分その政策を調整していくことが必要である。緊密な連携と協議を続けることで合意した」
日米首脳会談の共同発表である。
ただし、今回ではない。
1970年10月24日、ワシントンで行われた佐藤栄作首相とニクソン大統領の会談後に発表された文書の一節である。
当時は冷戦の時代。アジアでは米国と中国が真っ向から対決していた。この共同発表は、日米の共通敵である中国には、今後も協力して当たろうという同盟の誓いのはずだった。
だが、翌年71年7月15日。驚天動地の発表があった。
プライムタイムのテレビに、ニクソン大統領の顔が現れた。
「こんばんは、私が今夜このテレビの時間をあけるように要請したのは、世界で恒久平和を打ち立てようとする努力で、重要な進展のあったことを発表するためです。中華人民共和国とその国民が参加しなければ、永続的な平和はありえません」
ニクソンは、安全保障問題担当のキッシンジャー補佐官がひそかに北京を訪問し、大統領の訪中で合意したことを発表した。
まったくの隠密外交で、日本とは事前の調整はなかった。
アメリカ政府は、発表の直前に、ワシントンにいる牛場信彦駐米大使に通告した。牛場が日本外務省に電話を入れ、それが官邸に伝わったのは、定例の閣議が終わった直後。佐藤首相は、秘書官から差し出されたメモでニクソン訪中を知った。演説の3分前だった。のちに首相となる竹下登官房長官は、みずからの記者会見の途中、記者団の質問でニクソン訪中を知らされた。「はい、あまりにも突然のことで……」。しどろもどろになった。
アメリカが中国との和解に踏み込んだのは、同じ社会主義陣営の中国とソ連の間にくさびを打ち込み、冷戦外交の局面を大転換するねらいだった。アメリカの対中強硬姿勢を信じていた日本は、完全にはしごを外された。
発表通り、1972年2月にニクソンは歴史的訪中を果たす。日本は同年9月、佐藤を継いだ田中角栄首相が訪中して、日中国交正常化に踏み切った。日本は、アメリカの新戦略をひたすらフォローした。だが、このニクソン・ショックは、長く日本外交のトラウマ(心理的傷)として残った。
もちろん、当時と現在では国際情勢も違う。軍事、科学技術、貿易、あらゆる分野にわたる米中の現在の対立は、ふたつの超大国が一気にディールできる段階にはないだろう。しかし、グローバリゼーションの時代において、米中は互いを不可欠なパートナーとする依存関係にもあることも忘れてはなるまい。
まして、相手は、場当たり的言動を繰り返すトランプ大統領である。ドイツのメルケル首相もフランスのマクロン大統領も、主要国の指導者はトランプとの関係に手を焼いている。その中で、「安倍首相のみがうまく立ち回っている」と日本政府関係者は胸を張る。
だが、この「おもてなし」外交は効果をあげているのか。そもそも首脳間の信頼関係が意味を持つのは、政策の一致を生み出すときのみである。
5月27日の日米首脳会談後の共同会見で、トランプ大統領は、北朝鮮のミサイル発射が国連決議に違反しているとの見解を否定した。最大の懸案である日米間貿易交渉については、8月に合意するとの見通しを一方的に示した。そこにあるのは本人の強烈な思い込みと、大統領再選のためにはなりふり構わぬ経済ナショナリズムである。
ご機嫌をとることで対日姿勢が和らぐほど、外交は甘くない。本当に議論すべきことを首相は詰めているのか。厳しい利益の争いが始まれば、「友情」など何の役にも立たないだろう。
日本には、そのときの備えはあるのか。