中国東北部・黒竜江省の方正県。白樺(しらかば)や松の林に続く狭い道路のはずれに、鉄製の門扉で閉ざされた「中日友好園林(Sino―JapaneseFriendshipGarden)」がある。
「園林(Garden)」という名称がついているが、中に庭園はない。そこには、かつて「満州」と呼ばれていた地域で死亡した日本人約5千人の墓地がある。第2次大戦の結果、大日本帝国が崩壊し、ソ連軍が侵攻してきた一帯だ。
この友好園林は歴史の悲劇の記憶として設けられたものだが、戦後、方正県と日本との間で築かれた太い絆を象徴するものでもある。
方正は、日本との関係の深さを誇ってきた。以前は街の商店には日本語の看板が掲げられ、住民人口の5人に1人が日本に暮らし、働いていた。ところが、中国と日本との間で対立の炎が燃え広がると、方正の人たちは裏切り者と受けとめられるようになった。そして2011年、反日感情をたぎらせた愛国主義者たちによって園林に赤ペンキがまかれ、その後、園林は閉鎖された。
しかしここにきて、朝鮮半島の緊張緩和の兆しや対米貿易摩擦での日本との利害の共有などを背景に、中国の対日関係に改善傾向がみられ、方正の人たちは用心深さを示しつつも絆の回復に期待を抱いている。
園林は、門のそばの小さな家に暮らす老夫婦に見守られているが、訪問には県政府からの許可が必要で、訪れる人はごくまれにしかいない。
方正は、園林と同様、アジアの二つの経済大国を分かつ入り組んだ苦悩の歴史にからめ捕られてきた。
方正県と日本との絆は、1930年代にさかのぼる。そこは今日、黒竜江省として知られる地方の一部で、かつて日本が満州に築いた傀儡(かいらい)国家の領域にあった。当時、日本は満州に約38万人の入植者を送り込んだ。そのほとんどが貧しい農民たちだった。
日本が降伏した45年、ソ連軍の侵攻で、方正県には約1万人の日本人入植者が取り残される。逃げ道を失い、寒さや病気、飢えで数千人が死亡。集団自決した人もいた。
数千人の日本人が生き延びたが、多くは必死だった親から中国人の家族に託されたか、孤児になった子どもたちだった。
こうした過去は、63年まで忘れ去られていた。この年、毛沢東に次ぐ政権ナンバーツーだった周恩来が、方正周辺の丘や森から日本人の遺骨を収集して火葬するよう県当局に命じたのだ。遺灰が集められて埋葬された。その場所が後年、中日友好園林になる。
経済的に豊かになった日本は80年代、中国東北部からかつての戦争による残留日本人孤児たちの帰国事業に着手した。中国人里親の親族や友人たちが日本に来て働いたり、留学や結婚をしたりするのも手助けした。
県政府のウェブサイトによると、方正から約3万8千人が海外に出ているが、その大半が日本在住だ。
95年、日本に帰還した元中国残留孤児の一人が日本人の子どもたちを育てた中国人里親たちの記念碑を友好園林の墓地に設立した。残留孤児の多くは中国人名をつけてもらっているが、帰国した人たちはほとんどが日本名を持っており、園林の訪問者の多くがそうした人たちである。
「友好園林は意義深い所だ」とクオ・フェンチン(74)は言う。元残留孤児で、現在は方正から190キロ余り離れたハルビンに住んでいる。「友好園林を訪ねるのは日本兵のためにではなく、私たちを育ててくれた中国人の里親たちへの表敬のためだ」
近くには塀に囲まれた「在外華人の故郷ビレッジ」と呼ばれる住宅街がある。かつては貧しい稲作農地だったそこには、日本で暮らした後、再び戻ってきた家族ら4万8千人が住んでいる。
「娘が日本人と結婚しているような家族は豪勢だよ」。方正でタクシー運転手をしているチェン・チョンポー(45)は、そう話し、「日本はまだカネ持ちだし、こっちよりずっと発展しているから」と言い添えた。
方正県当局は2006年、日本からの投資をさらに呼び込みたいとして、地元を「在日華人の郷里」とぶち上げた。その企画の一環として、方正の商店はすべて中国語と同時に日本語の看板も掲げるよう求めた。
ところが、それから間もなくしてトラブルが起きた。その背景には島嶼(とうしょ)の領有権問題の再燃や日本による戦時中の残虐行為をなかったことにしようという企てなど、中国と日本との経済的・政治的な対立がある。日本の政治家たちが靖国神社を参拝したり、1937年発生の南京事件を否定したりする度に、中国ではネットなどを介して反日感情が燃え上がった。
そうした怒りは方正県にまで及んできた。2011年、方正県が、日本人入植者たちの名前を刻んだ記念の塀で墓地を囲む事業に70万元(約11万㌦)をつぎ込むと、ネット上で怒りが拡散した。その年の後半、5人の若者が墓地に侵入し、塀に赤ペンキをまき散らした。方正県政府は夜のうちに塀の一部を倒して墓地に埋めた。
だが、非難は収まらなかった。方正は「裏切り者の郷里」として嘲笑された。地下商店街の入り口には、かつて日本が中国人を侮辱した仕方をまねて「日本人と犬は入るべからず」とする殴り書きが出現。通りからは日本語の看板がほとんど姿を消し、当局は墓地の方向を示す道路標識を撤去した。
県政府は今年1月、圧力に屈する形で、方正の墓地を「愛国教育の基地」にするとの計画を発表した。それには「日本の侵略に粘り強く抵抗した中国人魂をもっと示す内容を盛り込む」としている。
「私のように日中両国を愛する者にとっては苦痛だ」。元残留孤児で、中国からの帰国者友好協会の事務局長は言う。「方正は、憎しみを生み出すのではなく、同じ過ちを二度と繰り返さないよう人々に歴史を思い起こさせる場所であってほしい」と彼女は語った。
そっとしておいてほしいと願う人たちもいる。
「一般の中国人は政治になんて関心がない」とヤン・シュウーアンは言う。東京近郊のフィルム工場で3年間働いていた25歳の女性だ。「関係(コネ)があるなら、どうしてそれを利用しないのよ?」(抄訳)
(KarolineKan)©2018The New York Times
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