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サハリンに残された「戦後」 多様性の島に生きる残留日本人の思い

World Now
樺太庁博物館として建てられたユジノサハリンスク市のサハリン州郷土博物館は、扉に菊の紋章があしらわれている Photo: Asakura Takuya

ユジノサハリンスク市中心部にあるサハリン州郷土博物館は、日本統治時代の1937年、樺太庁博物館として建てられた。「帝冠様式」と呼ばれる和洋折衷の外観で、重厚な玄関扉には菊の紋章があしらわれている。展示を見ても、ロシア極東と北日本に住む人々がいかに深くつながっていたかがよく分かる。

サハリン島南部は1905年に日本領の南樺太となり、日本本土や日本領だった朝鮮半島から渡ってきた人々だけでなく、アイヌ、ニブヒ、ウイルタなど様々な先住民族が暮らしていた。先住民たちは日本による同化政策で、日本名や日本語を強いられ、日本人として暮らした。今回訪れたある学校でも、日本姓のニブヒの生徒がいると聞いた。

 第2次大戦後、南樺太をソ連が占領すると、広大なソ連の各地から新たな住人が入植してきた。日本人の大半は本土に引き揚げたが、それまで「日本臣民」だった朝鮮人の多くは日本への引き揚げを拒まれこの地に残った。さらに、様々な事情でとどめ置かれた日本人もいる。

 サハリン日本人会(北海道人会)会長の白畑正義(78)もその一人だ。内砂(ないしゃ)と呼ばれた島の南端に近い村で生まれ、日本の学校に入って間もなく終戦を迎えた。山形県から移住した父親は電話線修理の技師。ソ連に必要とされ、引き揚げさせてもらえなかったという。

サハリン日本人会(北海道人会)の白畑正義会長 Photo: Asakura Takuya

日本の学校は廃止され、ソ連の学校に通い、ロシア語で勉強した。「ロシア人とはすぐ仲良くなりました。子どもだから」。16歳でソ連国籍のパスポートをとり、18歳でソ連軍に入隊。「軍隊は面白かったですよ。学校でも軍隊でも、いじめはなかった」と言う。「演習で『日本から敵が攻めてきた』というと、部隊のロシア人が『ここに日本人がいるぞ』と冗談を言って」と、楽しそうにふりかえる。

除隊後は、父親が勤めていた営林の事務所に就職し、定年まで働いた。「(自分は何人かと)聞かれれば、ヤポンスキー(日本人)だけど、あまり区別はないです」。いまは3人の孫にも恵まれている。

白畑が会長を務める日本人会は1990年の発足。冷戦下で日本に渡航できなかった残留邦人にとって悲願だった一時帰国が実現した年だ。東京の「樺太同胞一時帰国促進の会」(現・NPO法人「日本サハリン協会」)と協力し、一時帰国や永住帰国を希望する人たちを支援してきた。

ただ、日本の家族に会い、日本で暮らそうと思っても、白畑のように日本語を不自由なく話せる人はまれだ。

在ユジノサハリンスク日本総領事の協力で開かれている日本語教室では、会員たちが懸命に勉強する姿も見られた。授業中、先生に何度も質問をしていたボリス・サイトウ(68)は、幼い時に北海道に引き揚げた家族らともっと話したくて、妻と一緒に勉強を続けているという。「この年齢になると覚えるのが難しい」と苦笑いした。

40年間続いた日本統治時代に発展したユジノサハリンスク市でも、当時の建物はサハリン州郷土博物館などわずかしか残っておらず、街を歩いても日本の面影はほとんど見当たらない。

日本統治時代の1937年、樺太庁博物館として建てられた、ユジノサハリンスク市のサハリン州郷土博物館 Photo: Asakura Takuya

残留邦人はもともと、朝鮮系の夫と結婚した日本人女性が多く、家庭では韓国料理が主流のようだ。市の人口約50万のうち、朝鮮系は1割近くを占めるとされ、ビジネスでも活躍している。

90年代半ばには約450人いたという日本人会の会員は、約110人にまで減り、うち「1世」とされるのは約70人しかいない。(敬称略)