【旅する記者⑥】ウォッカで縮めたロシア人との距離 機密の街で育んだ「秘密の恋」
語学力を生かして海外の在外公館で実務を担う「派遣員」として、モスクワの在ロシア日本大使館に着任したのは1995年4月のことだった。
クレムリンのやや西側に位置する静かな裏通り「カラシュヌイ小路」に立っていた当時の大使館は、日の丸が掲げられていなければ通り過ぎてしまいそうな、目立たない古い建物だった。
19世紀に商人の邸宅として建てられ、黄色と白を基調としたかわいらしいロシア建築だったが、現地スタッフも含めれば100人ほどいた館員を収容するには狭かった。
アパートが見つかるまで滞在した大使館近くのホテルから、初めて出勤した時のことを思い出す。
アンカー職人のころは作業服だったが、今ではスーツ姿で出勤だ。ロシア人が行き交う通りを歩いていると、外国で働いている実感がわいてきて、顔をなでる風や通りのにおいさえもすがすがしく、新鮮に感じられた。給料は当時の大卒の初任給と比べればはるかに恵まれていた。
私は管理班に配属された。
来訪した国会議員や官僚らの空港送迎や市内の移動などの便宜供与のほか、大使館や大使公邸の修繕、現地スタッフの管理など業務は多岐にわたる。年配の外交官の班長を中心に派遣員3人、現地スタッフ3人の計7人のチームだった。
最初に拝命したのは配車係だった。
大使館には10台ほどの館用車があり、それぞれロシア人運転手がついていた。大使と首席公使には専用車があてられ、残りの車両を館員全体で利用した。
はじめは「配車なんて難しくないだろう」と甘く見ていたが、すぐに大変な仕事だと分かった。
館員から依頼を受けて車両を手配するのだが、館員の人数が多いので配車の調整は複雑だ。行き先によって、何時に発車するか、いつ迎えに行くかなど、市内の距離感や渋滞などの交通状況も頭に入れておかねばならない。
配車のタイミングを間違うと、館員が大事な会議に遅れたり、どこかで待ちぼうけを食らったりと大使館業務に支障をきたす。車両のメンテナンスも怠ってはならない。
運転手たちのほとんどが40~50代で人生の大先輩ばかり。プライドが高く、一癖も二癖もある運転手たちにうまく動いてもらうのは一苦労だった。
時には厳しい態度で臨まなければならない場面もある。私のような若造にうるさく指示されれば、運転手たちも不満がたまる。なかなか運転手との心の距離は縮まらなかった。
そこで私は運転手たちを誘って飲み会を開くことにした。
大きな会議が終わった金曜日の夜、私はウォッカのケースを抱えて運転手部屋を訪ね、酒盛りを始めた。
運転手部屋は大使館中庭にある駐車スペースの脇にあった。8畳ほどの広さで、食事や休憩ができるように古びたテーブルやソファが置いてあった。
ロシア人運転手たちのウォッカの飲み方は豪快だ。ショットグラスなど使わず、コップに40度を超えるウォッカをなみなみと注ぐ。私は先陣を切ってコップを掲げ、運転手たちの日頃の苦労をねぎらった。ウォッカを飲み干すとのどや胃がやけそうになったが、運転手たちは大喜びだった。
その後、次から次へと運転手が乾杯を繰り返し、大いに盛り上がった。翌朝に目を覚ますと私は運転手部屋のソファに寝ていた。床には数人の運転手が倒れていて、いびきをかいていた。十数本のウォッカの空き瓶が無造作に転がっていた。
その後、私と運転手たちの距離は一気に近づいた。
皮肉屋で扱いが難しかったベテランのダビドフさんは、息子の社交ダンスのコンテストに一緒に行こうと私を誘ってきた。大柄で無口なクルガーノフさんたちとは、冬になるとモスクワ郊外でクロスカントリーを楽しんだ。
私が乗っていたホンダ車のメンテナンスを手伝ってくれた若手のネダレーゾフさんも忘れられない。
ブレーキ関連の部品が破損し、新品を取り寄せるのに1カ月以上かかることが分かると、彼は数日後に部品をどこからか調達してきた。驚いてどこで見つけたのか聞くと、知り合いのつてをたどって見つけた旋盤工にお願いして、同じ部品を手作りしてもらったというのだ。
さらに彼は「困ったときはお互い様」といって代金も受け取らなかった。日本では、ロシア人は取っつきにくい印象があるかもしれない。しかし、いったん心の壁が取り払われると、これほど人なつっこい人々もいないと感じた。
運転手たちと一丸となって乗り切った大仕事は、1996年4月にモスクワで開かれた「原子力安全サミット」だった。
チョルノービリ(チェルノブイリ)原発事故から10年の節目にロシアのエリツィン大統領(当時)が提案した首脳会議で、原発の安全性や核物質の管理問題などについて話し合った。
日本からは橋本龍太郎首相が出席した。大使館は館用車を総動員して車列を組み、日本代表団を運んだ。私は最後尾の車両に乗り込み、代表団に同行しながら運転手に指示を出した。
4月18日夜、モスクワ郊外のブヌコボ空港に橋本首相らが降り立った。
日本代表団は空港で待機していた私たちの車列に乗り込み、モスクワ中心部に向けて走り始めた。ロシアの交通警察車両が先導し、十数台の長い車列が街中を疾走する姿は圧巻だった。
厳しい交通規制が敷かれているため、ホテルまで一度も止まることなくあっという間に到着した。運転手たちも、見事なハンドルさばきで安全に任務を遂行してくれた。
20日には、サミット会場のクレムリンに車列が入った。
ウスペンスキー大聖堂などロシア伝統様式の壮麗な建築物が並ぶ。日本代表団が下車して会議場に向かった後に車列に残って休んでいたら、クリントン米大統領やフランスのシラク大統領らが私のすぐ横を歩いていった。テレビの画面でしか見たことがない世界各国の首脳を目の前で見て興奮した。
1996年秋、大使館が所有するモスクワ郊外のダーチャ(別荘)で、大使館幹部と日本メディアの特派員の懇親会が開かれた。
私は焼いた肉を配る役回りで、各社の特派員とあいさつを交わした。特派員は日々どのように働いているか興味があると話したら、朝日新聞の特派員が支局に招いてくれた。
支局に訪れると、数人の特派員が忙しそうに資料を読み込んだり、電話をしたりしていた。自らの仕事にプライドを持ち、取材の苦労話を楽しそうに話す特派員たちの表情も印象的だった。
世界を揺るがすニュースを現地で取材し、何百万人の読者に記事を届ける。「特派員は大変そうだけど、やりがいがある仕事だな」と思った。大学の就職活動の時から「自分はいったい何がしたいのか」ともがいていたが、ようやく心の底から目指したい目標が見えてきた。
派遣員生活が2年目に入った1996年春、管理班の現地スタッフが辞めたので求人を出した。
数人の応募があり、大使館の応接間で私と総務班の外交官の2人で面接を担当した。とりわけ日本語が流暢(りゅうちょう)で、朗らかな性格のナターシャという女性の印象が際立っていた。
真っ黒な髪と大きな瞳が印象的なアフガニスタン系ロシア人で、モスクワ言語学大学で日本語を学び、広島大学に留学経験もあった。私たちの評価は一致し、彼女を採用することに決めた。
管理班に配属されたナターシャは予想通り、職場の同僚ともすぐになじみ、てきぱきと仕事をこなしていた。そんな彼女に徐々にひかれていき、目が合うたびに胸がざわつくようになった。
ある晩、管理班のメンバーでバーに飲みに行った時のことだった。
静かな音楽が流れはじめ、チークダンスの時間になった。そのとき私の手を引いたのがナターシャだった。少し驚いたが、ゆっくりと踊りながら、お互い好意を持っていることを告白し合った。
仕事帰りに初めて2人で食事に行った時は、家族のことや若い頃の思い出など、さまざまなことを語り合った。
彼女の父はアフガニスタンの高貴な家柄の出身で、エネルギー工学を学ぶためにモスクワに留学した時にロシア人の女子学生と知り合い、結婚したという。ナターシャはモスクワで生まれた。
幼少期はアフガニスタンで暮らした時期もあった。紛争が激化して近所にミサイルが撃ち込まれ、九死に一生を得たこともあったという。
結局、家族はソ連に移住することを余儀なくされた。母親はナターシャが高校生の時に病で亡くなったという。日本で平穏に過ごしてきた私の人生とは全く違う境遇に圧倒された。
明文化されていたわけではなかったが、大使館ではロシア人との恋愛関係は御法度だった。ロシア側に機密情報が漏れないようにするためだ。
同僚にも一切気付かれないように振る舞った。仕事帰りや休日にモスクワ市内を2人で歩き回ることも難しい。館員に見つかったら面倒なことになる。
そこで私たちは、金曜日の夜に夜行列車でモスクワから北西に650キロ離れたロシア第2の都市サンクトペテルブルクに向かった。人目を気にせず週末を過ごし、月曜日の朝に再び夜行列車でモスクワに戻る生活を送った。
私は当時、外交官専用の集合住宅「外交団アパート」に住んでいた。日本人の同僚も住んでいたので、ナターシャが私の部屋を訪れるときは、気付かれないように男装してやって来た。
交際を始めて4カ月後、2人は結婚することに決めた。
彼女の父親を説得するため、ポーランドとリトアニアに囲まれたロシアの飛び地、カリーニングラードに2人で向かった。古びた集合住宅に住む父親は立派な口ひげが印象的で、イラクのフセイン大統領をほうふつとさせた。
父親は私を見てもにこりともせず、食事時に一緒に食卓に座っていても話しかけてこない。気まずい時間が流れた。このままで終わるわけにもいかず、夜も更けた頃、台所で私から父親に話しかけた。
「私は歴史が大好きです。もしよければ、アフガニスタンの歴史を教えてください」
すると父親はうなずいて、ゆっくり語り始めた。
紀元前の王朝から始まり、現代にいたるまで「講義」は約4時間に及んだ。正直言えば、アフガニスタンの歴史にそれほど興味があるわけではなかった。
ただ、父親が歴史好きだと聞いていたので、少しでも話すきっかけをつくろうと思っただけだ。まさか4時間も話すとは想像していなかった。
すべてロシア語の上に、なじみのないアフガニスタンの地名や人名も次々と飛び出してくる。父親の気分を損ねるわけにもいかず、関心があるかのように大きくうなずいていたが、太ももをつねって眠気を抑えるのに必死だった。
午前2時を回ったあたりでようやく講義が終わった。そして、父親は静かに私に語りかけた。
「娘と結婚したいのだな」
「はい。幸せにします」
父親は「わかった。もう寝なさい」とほほ笑んだ。承諾は突然で、あっけなかった。
私がアフガニスタンの歴史にそれほど興味がないことに、父親は気付いていたのだろう。ただ、私がどんな姿勢で彼に向き合うのかを見極めていたに違いない。数時間の眠気に耐えたことは、無駄ではなかったようだ。
1997年2月、私たちは「モスクワ第4結婚宮殿」で結婚式を挙げた。
市役所の婚姻届の窓口と結婚式場が合体したような施設で、社会主義時代の名残なのか宗教色を一切排していた。華やかなドレスを着た女性職員が私たちに婚姻届にサインするように促した。
署名が終わると会場の管弦楽団の演奏が始まり、結婚式を盛り上げた。日本人やロシア人、アフガニスタン人、ギニア人の親友ダボも含め、出席者は実に多国籍だった。
派遣員は任期を2年間延長することができたが、新聞記者になるため帰国することに決めた。
派遣員の中には外務省に入る人も少なくなかった。それも悪い選択ではなかったが、新聞記者の方がより自由で、面白い経験が出来るのではないかと感じていた。
新妻にはモスクワで待機してもらい、就職が決まったら日本に呼び寄せることにした。
ところが、就職活動はそれほど甘くはなかった。(続く)