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【旅する記者⑤】「さて、どう生きる?」病と就職氷河期で詰みかけた僕が、新たなチャンスをつかむまで

旅する記者 更新日: 公開日:
写真はイメージです=gettyimages

西アフリカ・ギニアでのマラリア感染を乗り越え、日本に一時帰国した西村大輔青年を待ち受けていたのは、予想だにしない病でした。暗い病室で、バブル崩壊後の「就職氷河期」という厳しい現実に直面し、将来への展望を失って途方に暮れる日々。しかし、どん底で偶然耳にしたある情報が、閉ざされたはずのロシアへの道を再び切り拓くことになります。

「天国」から一転、暗転する日常

ギニアで発病したマラリアの症状が回復し、1994年9月にモスクワ経由で東京に帰ってきた。

街は清潔で、ほしいものはすぐに手に入る。なにかと不自由なロシアの生活から見れば、東京の暮らしは天国のようだった。

しかし、帰国して10日ほど経ったころ、急に体がだるくなり、熱も出てきた。マラリアは原虫が体内に残っていると再発するらしい。いやな予感がして、地元の総合病院の救急外来に駆け込んだ。

医師にはこれまでの経緯を説明し、マラリアが再発したと思うと伝えた。診察や血液検査を経て、医師に呼ばれた。

「西村さん。ご安心ください。マラリアではありませんでしたよ」

私がほっとしたのもつかの間。

「急性A型肝炎です。今すぐ入院してください」

全く予想していなかった病気に驚いた。

私は自宅に帰ることも許されず、そのまま病衣に着替え、ベッドに横たわることになった。A型肝炎ウイルスは、飲料水や食事などを介して経口で伝染することが多いという。

ギニアでは、感染症を防ぐために料理は必ず十分に熱を通して作ってくれるよう親友のダボにお願いしていた。ダボが気を遣ってくれたおかげで、どこでも熱々の料理がでてきた。

ただ、食事は大皿に盛られ、数人の男たちが囲んで一緒に手づかみで食べるのが一般的だ。ギニアの人々は客人の私においしい部分を食べさせたいと思うのか、手づかみで私の方に肉を寄せてくれる。感染のリスクはあるのだが、私はそれを無視するわけにもいかず、ありがたく食べさせていただいた。

それだけではない。行く先々でおやつ代わりに出されるマンゴーなど皮をむいた果物も食べてきた。

思い起こせば、A型肝炎ウイルスに感染する機会はいくらでもあった。不覚にも、ワクチン接種などの予防対策もしてこなかった。

入院といっても手術など特別な医療行為はなく、ただベッドで安静にしているだけだった。塩分や油分を極力控えた味も素っ気もない病院食をひたすら食べ続けた。ロシア語の勉強と大量の本を読みあさる日々が続いた。

ただ、血液検査だけは頻繁に行われた。正常値が10~40とされる「GPT」という肝機能を示す数値が、日を追うごとに200、500、1000、1800……と言った具合にぐんぐん上昇していく。それとともに体がだるくなり、全身に黄疸(おうだん)が出てきた。

GPTの数値が3000ぐらいに達すると、私の白目が鮮やかな黄色になった。体は動けないほどぐったりとして、食欲も失せた。

しかし、ピークを過ぎると徐々に数値は下降し、黄疸も引いていった。

結局、私は約2カ月間も入院した。モスクワ大学の担当者に連絡したが、すでに留学の更新手続き期間は終わったので、来年に再度手続きするように言われてしまった。

病み上がりの上に、留学もできず、仕事もない。アンカー職人として稼いだカネもずいぶん減ってしまった。

バブル経済は崩壊し、私が就職活動をしていた2年前はあんなに景気が良くて学生側の売り手市場だったのに、いまや「就職氷河期」と言われるまで冷え込んできた。

就職には絶好だったバブル期をロシア留学でむざむざと逃したことに後悔の念も浮かんだ。大学の同級生はみんな、就職先でばりばりと働いているのだと思うと、自分だけぽつんと取り残されてしまったような気がして心細かった。

多少ロシア語を学んだからと言って、武器として使えるほどでもない。なんの展望も開けないまま、ベッドの上で仰向けになり、途方に暮れた。

「さて、これからどうすればいいのだろう?」

写真はイメージです=gettyimages

そんな折、友人から偶然、ある情報を聞いた。日本外務省の在外公館で一定期間働ける「派遣員」という制度があり、もうすぐ採用試験があるという。

世界各地にある日本の大使館や領事館などに派遣され、語学を生かして外交官のさまざまな業務をサポートする仕事だ。滞在期間は原則2年間で、さらに2年間延長することができた。毎年、募集する在外公館のニーズに従い多様な言語の試験があり、その年はロシア語人材の募集もあった。

何もすることがない私は、だめでもともとの気持ちで試験を受けてみることにした。

1次試験は筆記だった。試験会場に入ると、100人ぐらいの受験生が詰めかけていた記憶がある。外語大などのロシア語学科で勉強してきた学生がほとんどだった。

私は行き当たりばったりでロシアに1年間留学しただけ。大学で4年間みっちりロシア語を学んできた学生にはとてもかなわないだろうと思った。ロシア語の派遣員の採用人数はほんの数人なのだ。

私にとって試験は難しく、半ばあきらめていた。ところが数日後、意外にも筆記試験に通ったと連絡があった。

2次試験は面接だった。面接なら少しは自信があった。わずか1年間とはいえ、ロシア人のおばあさん姉妹の家で暮らし、大学でもほとんどの時間をロシア語で過ごした。

短い間だったが、ロシア人女性と交際したこともあった。相手に好意を伝えるために、必死にロシア語で話してきた。そんな濃密な時間を過ごしただけに、ロシア語で話すことに緊張感はなかった。

面接担当者はロシア語が堪能な外務省のベテラン外交官だった。話した内容は覚えていないが、モスクワで経験した忘れがたい思い出を、おもしろおかしく話したのだと思う。私のロシア語は決して流暢(りゅうちょう)ではなかったが、面接担当者との会話は弾み、試験はとても良い感触があった。

写真はイメージです=gettyimages

そして、私は合格した。ロシア留学の道が閉ざされ、路頭に迷いつつあったのに、今度は給料をもらいながらロシアで暮らせる。大使館で働きながらロシアという国を深く知ることができる。

全く予期しなかった新たな道が開き、うれしさがこみ上げた。

今から思えば、日本外務省はソ連崩壊後の混乱したロシアで仕事を任せる上で、語学の優秀さよりも、生命力が強そうなしぶとい人材を好んで選んだのかもしれない。

私は在外公館の実務などを学ぶ外務省の研修を受け、1995年4月にモスクワの在ロシア日本国大使館に赴任することになった。

その後、モスクワで派遣員として働く中で、初めて日本メディアの記者と接し、ジャーナリズムに関心を持つことになる(続く)