山西省の自宅からオンライン取材に応じた劉さんは普段着の黒シャツ姿で画面に現れ、とつとつと話し始めた。奇想天外なストーリーで世界中の読者を魅了する大作家のイメージと裏腹に、どこにでもいる近所のおじさんといったたたずまいだ。
1963年に北京で生まれ、3歳の時に父親の仕事の関係で炭鉱町の山西省陽泉市に移り住んだ。物心ついたころは文化大革命の真っただ中。陽泉市は武力闘争が激しかった街で「外で銃声が聞こえ、家から出してもらえなかった」と振り返る。
そんな不穏な時代、小学生だった劉さんは父親が箱に入れてベッドの下にこっそり隠していたフランスの作家ジュール・ヴェルヌのSF小説「地底旅行」を見つけた。文革期は外国の文学は所持することさえ危うかった。
それでも劉さんはむさぼるように読んだ。「当時はSFという概念すらなかった。父に教えられるまで『地底旅行』の内容は事実だと思い込んでいた。想像力でこんなにリアルに書けるなんてすごいと感動した」。これをきっかけにSFにのめり込み、中学生になるとSF小説を書き始めた。
1976年に毛沢東が死去して文革が終わると、まもなく実権を握った鄧小平が改革開放に大きくかじを切った。海外の映画やドラマ、アニメなどが中国に入ってきた。英国のアーサー・C・クラークの「2001年宇宙の旅」を読んで最先端のSFの世界に舌を巻いた。「現代の科学理論に基づき、想像力は宇宙の果てまで及んでいた」
日本の作品で感銘を受けたのは小松左京のSF小説「日本沈没」だった。「大災害にあった時の社会の描き方やストーリーをどう構築していくかなど大きな影響を受けた」
理工系の大学を卒業後、1985年に山西省の火力発電所に就職。システムエンジニアとして働きながら、SF小説を書き続けた。残業がなく、小説を書く時間はたっぷりあった。余暇にマージャンで盛り上がる同僚たちを横目に、一人でSF小説を読みふけった。広大な宇宙に思いをはせ、インスピレーションが浮かぶと筆を走らせた。資料を探すために列車で7~8時間かけて北京に行くこともあった。「自分の趣味が大事だった。職場で昇進できなくてもいいと思っていた」
数々の短編小説の原稿を出版社に送ったが採用されなかった。当時はSF小説を発表する場も少なかった。「私も若く未熟だったが、出版界の編集者もSF小説になじみがなく、私の作品は奇妙に映ったのだろう」
SF作家の多くは愛好家の域を出ていなかった。1980年代の「ブルジョア精神汚染批判キャンペーン」でSF小説もやり玉に挙げられ、発表の場はほとんどなくなった。
潮目が変わったのは1990年代中ごろ。高度経済成長で社会が豊かになり、中国でインターネットサービスも始まった。庶民が国外の映像作品を楽しめるようになり、SF映画やSFアニメも注目されるようになった。「SF小説は文学界の隅に追いやられていたので、この環境の変化に興奮した。大きなチャンスだと思い、執筆に全力を投じた」と振り返る。
孤独に執筆を続けていた劉にも1999年に転機が訪れた。人気SF雑誌「科幻世界」に初めて短編「鯨歌」が掲載されたのだ。同じ年に発表した短編「彼女の眼を連れて」は、ユニークな発想が高く評価されて中国最高峰のSF文学賞「銀河賞」を受賞。当時36歳。遅咲きのデビューだった。「SF小説を書くことが、単なる愛好から仕事に変わった」
その後は続々と作品を発表し、どの作品も話題をさらった。2006年まで8年連続で銀河賞を受賞。前人未到の記録で、中国のSF界で劉は圧倒的な輝きを放った。発電所に勤務しながら執筆してきたが、2012年の発電所の閉鎖を機に、SF作家が本業となった。
劉の人生を一変させたのが2006年に同賞を受賞した「三体」だった。SFの長編は売れないとされ、劉も短編を書くことが多かった。しかし、SF界が活況を呈するなか、「未来の世界を完璧に描き出したい」と本格的な長編小説に取り組むことにした。
劉はとてつもない災難に直面した社会を描こうとした。「日本沈没」を参考に「中国沈没」を考えたが、巨大な大陸国家を沈没させるのは無理があった。あらゆる災害を考え、宇宙人の来襲というストーリーに決めた。「『三体』と『日本沈没』の内容は全く違うが、思想の核心部分は極めて似ている。『日本沈没』の影響があったからこそ書くことができた」
「三体」は、互いの引力の作用で複雑な動きを続ける三つの恒星に囲まれ、灼熱と凍結を繰り返す過酷な環境の惑星にすむ「三体星人」が影の主役だ。高度な文明を持つ彼らが移民先に地球を選び、神秘的な能力を駆使して侵略を狙う壮大な物語だ。異星人の描き方や侵略の手法など読者をあっと驚かせる描写が際立ち、文革期の中国を舞台にするなど中国人作家ならではのエキゾチックな要素も満載だ。
出版当時は劉さん自身も出版社も、国外で広く読まれるとは想像もしていなかった。だが、2014年に米国で英語版が出版されると記録的なヒットとなり、翌年にはアジア人で初めて世界屈指のSF文学賞「ヒューゴー賞」を受賞。山西省で受賞の知らせを聞いた劉さんは「私にとって神聖な存在の宇宙ステーションの飛行士が、私の名を読み上げてくれたことになによりも感激した」と少年のようにほほ笑んだ。
メタ(旧フェイスブック)CEOのマーク・ザッカーバーグは2015年、「三体」を今年の1冊に選び、SNSで称賛。米大統領(当時)のバラク・オバマも2017年、ニューヨーク・タイムズの取材に、「想像力が豊かで、その広がりは計り知れない。読んでいて楽しかった。日々の議会での問題が、ささいなことに思えた」と語っている。
快進撃は続く。2019年には劉の短編小説「流浪地球」が「中国初の本格的SF映画」として上映され、記録的なヒットになった。日本でも劉の作品の日本語訳が続々と出版され、多くのファンを獲得している。
今年9月に出版された「流浪地球」の日本語版の翻訳をした、古市雅子・北京大学准教授は「中国語の原文は素っ気ないくらいシンプルで、過剰な表現や装飾がない。それでいて、色鮮やかな映画のワンシーンのような映像が頭の中に浮かんでくるのが特徴です」と話す。「SFがあまり知られていなかった中国では、劉さんの登場で突如として中国SFというジャンルが始まったと受け止めている人が多い」と指摘する。
ただ、劉さんはいま苦悩も感じている。長らく新作を発表していない。「いまも書き続けている。でも途中で自信がなくなって、やめてしまうことがある」と話す。背景には大きな環境の変化もあるという。「科学技術が加速度的に進歩した現代社会では、SF小説の神秘性が薄れてしまう。私の作品は斬新な発想こそが命だが、人々を驚かせるようなストーリーを生み出すのが難しい時代になっている」
「SF以外は書かないのか」と聞くと、劉さんはきっぱりと否定した。「私はSFだけ書き続ける。科学を愛し、神秘の宇宙を愛している。SF以外で書きたいものはない。小説で直面する危機や災難は全人類共通だ。中国人だろうが、日本人だろうが、だれであろうと理解し合える。それがSFの魅力だ」