戦場で寿司を出すレストラン ウクライナ東部、ロシアの占領地を抜け生魚を届ける日々
ロシア軍との前線に極めて近いウクライナ東部の都市スラビャンスク。ここでレストランを営む30歳のSerhii Kovalov(以下、ウクライナの人名は原文表記)は、すしが好きなわけではない。担当のシェフにしたってそうだ。
でも、食べたがる客が何人もいた。そこで彼は、フィラデルフィアロール(訳注=サーモンとフィラデルフィア・クリームチーズを基本の具とする米国発祥の巻きずし)の材料となる新鮮な魚を手に入れるため、二つの大敵に挑んだ。一つはロシア軍の砲弾。もう一つは、途絶えがちな食料供給ルートだ。
ロシア軍は今、じわじわと迫ってきている。生活はますます難しくなり、どこに避難しようかと考えている市民も多い。だが、Kovalovは違う。なんとしても、兵士や市民にすしを出し続けたいと考えている。戦争が3年以上も続いているだけに、心地よさや滋養のあるもの、特別な味を求める人もいるだろうと思うからだ。
「自分がここで必要とされていることが、私にはよく分かるんだ」。店内と外の街並みを指しながら、Kovalovはいった。ロシアがもう長いことこの街に狙いをつけていることは明らかだが、「私はここにとどまる」と意志は固い。
すしの人気は、ウクライナではかなり前からとても高い。スラビャンスク市民にとっては、戦争がなかったころの暮らしを思い出させてくれるごちそうでもある。
ロシアによる全面的な侵攻が始まり、スラビャンスクが攻撃にさらされた2022年2月には、Kovalovのレストラン「Slavnyi Horod(輝かしい都市)」のメニューに「すし」はまだなかった。戦争の初期に市内で営業を続けていた料理店はこの1軒だけで、どこも食材を届けようとはしてくれなかった。
「だから、私たちは材料の調達網を一から作り直さねばならなかった」とKovalovは振り返る。同業者の多くはウクライナの中部や西部に移転し、そちらで新たな食材の仕入れルートを作っていた。戦闘の最前線をくぐり抜けて必要な品々をスラビャンスクまで運ぶには、ときにはKovalov自身が車を運転して往復せねばならなかった。
避難する市民も多く、店の従業員は35人から7人に減った。その代わり「家族」になった、とKovalovは笑う。
水や電気もなく、外で火をたいて調理した。何とか営業を続けようと、Kovalovはその後、発電機を1台購入し、井戸も掘った。
住んでいた集合住宅がミサイルに破壊されたときには、脳振盪(しんとう)を起こしながらも店に出向いた。
「あれがたぶん、これまでで最もしんどい日だった」
歩きながら、店をどうするかの決断を迫られていた。「もうやめるか、こんな目にあっても踏ん張ってチームを引っ張っていくか」
しかし、店に入ると、笑顔になってこう話していた。「大丈夫。私たちは、今回は運がよかった。さあ、今日は第2の誕生日だ。みんなで仕事を続けよう」
こんなにも多くの困難があるのに、なぜすしを提供し始めたのかと聞いてみた。すしのネタは保管や冷蔵方法が特殊だからだ。
「要望があったから」と答えは明快だった。ビジネススクールの教えには反するものだが、「市内にはすしを出す店がなく、客からは食べたいという声が上がっていた」とKovalov。「自分が好きかどうかは、関係なかった」
今では首都キーウに提携先ができて、「非常に新鮮な」生魚を吟味して選んでくれる。それは急速冷凍され、冷却コンテナに積まれて陸路8時間をかけてスラビャンスクに運ばれる。
道路はまず北東部にある第2の都市ハルキウ、そしてイジウムを抜ける。これらの都市では、破壊された建物群がロシア軍による爆撃、占拠とその後のウクライナ軍の反攻による解放という苦闘の歴史を物語っている。
さらに進むと、雪におおわれた森を通る。かつて侵攻の犠牲者の集団埋葬地だったところだ。そして、ロシアの占領地域のうんと近くを走り、ロシアの放送がラジオに入るようになる。
イジウムから高速道路で40分ほど走ると、スラビャンスクが属するドネツク州に入る。この州はかなりの部分をロシア軍が占拠しており、全州の掌握を狙っている。
魚を積んだ車は、スラビャンスクの北側から市内に入る。ここには塩水湖があり、平和だった当時は温泉療法を受けようという観光客をひきつけた。しかし、療養施設の多くは今はがれきと化し、その中を兵士たちが歩き回っている。
市中心部に向かうにつれ、レンガ造りの平屋に代わって集団住宅の街区が続くようになる。なかには攻撃を受けて無残な姿になった建物もあり、道路には対戦車用の障害物が並ぶ。
そんな傷痕がありながらも、スラビャンスクには活気がある。車は警笛を鳴らし、兵士が食料品や雑貨を買い求め、子どもたちは公園のカモに手を振る。
しかし、近隣の前線の激しい戦闘が落とす影は、日に日に濃くなる。ロシア軍は、30マイル(約48キロ)離れたチャシウヤールを陥れようと攻勢を強めている。成功すれば、この地域の中心都市の一つクラマトルスクを攻略する道が開ける。そうなれば、次は隣のスラビャンスクになることを市民は恐れている。
「避難用のスーツケースは、もう用意できている」とZoya Trubytsyna(68)は話す。
「前線は、こちらに近づいている」と歩いて出勤する途中だった彼女は眉をひそめた。「クラマトルスクがどうかなったら、私たちはみんな逃げるしかない」
停電はしょっちゅうで、爆発音を聞かない夜はほとんどない。暮らしの困難さは、増すばかりだ。
それでも、Kovalovは、毎日3回の時間帯に分けて店を開けている。朝食、昼食とディナーだ。
コーヒーをかき混ぜながら給仕係たちと雑談をしていると、朝食の客たちが席を埋め始めた。空襲警報が鳴ったが、食事をやめる人はいなかった。
手描きのハートをあしらった青い持ち帰り用の袋は、約1時間後にランチ客が殺到するのに備えてレジの後ろに並べられていた。
総菜を置く長いカウンターには、温かい料理やサラダ、デザートが並ぶ。その終わりの方にすしコーナーがあり、上に巻きずしと天ぷらの写真がぶら下がっている。
ザワークラウトやブラッドソーセージ、ラザニアを乗せたトレーを持っていた兵士(33)は、すしコーナーでフィラデルフィアロールを加えた。
「正直いってここのすしの味はいま一つ」。部隊内では「シエスタ」の呼び出し名で呼ばれるこの兵士は、皿をきれいに平らげるとこういった。「でも、どこか家にいるときのようなほっとした感じにさせてくれるんだ」
軍に入る前は、友人たちとキーウのすし屋に行ったとシエスタは話す。しかし、スラビャンスク近くの都市リマンの防衛にあたっている機械化大隊に所属している今は、普段の食事は基本的なものに限られている。「こんなちょっとのしょうゆ味だって、めったにないごちそうなのさ」
この間、スラビャンスクにはKovalovの「輝かしい都市」以外にもすしを提供する店がいくつかできた。街区を三つはさんだ店「ビッグロール」は侵攻当初、何カ月か閉店していた。再開はしたものの、商売は不安定な状況が続いているとオーナーのNatalia Gordienkoは明かす。魚は少量仕入れるだけにとどめている。
「次に何が起こるかも分からないのだから」と彼女はサーモンロールを箱詰めしながら嘆いた。「材料を保存したって、停電になったら傷んじゃうし」。それに、ロシア軍の攻撃をだれもがこわがっている。持ち帰り用の注文をした客には、「早くして、早く」とせかされる。
Kovalovの店では、21種類の巻きずしをつくっている。担当シェフのDmytro(安全上の理由からファーストネームだけを明かす条件で取材に応じた)によると、一番人気はフィラデルフィアロール。「自然には存在しない形の食べ物なのになぜだろう」と首をかしげる本人は、すしの愛好者だったことは一度もない。「だいたい、生の魚っていうのが怪しい」というとニヤッと笑った。
でも、すしづくりの仕事には満足している。YouTubeの動画で、新たな手法も学んでいる。ただ、ずっとすし職人を続けるかは分からない。
「今は、将来の計画を立てる気にはなかなかなれないんだ。この国では戦争があり、明日、明後日がどうなるかも分からないのだから」。注文が入ったと告げるウェートレスに小声でせかされながら、こう答えるのだった。
その上司のKovalovも、先行きの不透明さを気にしないわけにはいかない。ドネツク州の前線が敵に押されていることは分かっており、「みんな日々、不安な気持ちで過ごしている」。
でも、今は避難という選択肢は考えていない。
「どこかほかの場所で店を開くなんて思いもしない」と彼はいった。「だって、もうここで自分がやりたいことを見つけているんだから」(抄訳、敬称略)
(Cassandra Vinograd and Dzvinka Pinchuk)©2025 The New York Times
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