■燃えるペンタゴン、浴びた熱風
2001年9月11日朝、日本大使館に出勤した伊藤氏が3階の廊下を歩いていると、防衛班の大部屋から「あーっ」という声が聞こえてきた。陸海空の2佐たちが取り囲んだテレビ画面に、ニューヨークの世界貿易センタービルに飛行機が突っ込む様子が映し出されていた。
前日までテロ攻撃の予兆は全くなかった。執務室に着いた伊藤氏は、米国防総省(ペンタゴン)の分室にいる米国防情報局(DIA)のカウンターパートの分析官に電話した。お互いに「これはテロだ」と確認し合い、1時間後にペンタゴンで面会する約束を取り付けた。
その30分後、テレビに「ペンタゴンが爆発」というテロップが流れた。慌てた伊藤氏は再び、分析官に電話したが、今度は呼び出し音すら鳴らなかった。伊藤氏は直ちに、大使館の防衛班員をペンタゴンに向かわせた。DIA分室は衝突現場の右側にあった。分析官は避難して無事だったが、多数の死傷者が出ていた。
現場の情報を収集するため、伊藤氏もその日の夜、ペンタゴンに向かった。大使館を出てみると、ワシントンの街中に規制線が張られ、警官や兵士が街頭に立って警戒していた。ペンタゴンの様子を見に行くと伝えると、警戒の兵士は、1等海佐の伊藤氏に「自動車専用道路上から見れば、様子がわかるはずだ」と教えてくれた。現場に近づくと、建物から炎が上がっているのが見えた。車を止め、窓を開けると、熱風が伝わってきた。
深夜、大使館に泊まり込んでいた伊藤氏に、米海軍のカウンターパートから電話が入った。「私は無事だが、同僚や部下が死んだ」。重く沈んだ声だった。伊藤氏は思わず、「私たちもテロと一緒に戦う」と声をかけていた。
米統合参謀事務局第5部(J5、戦略担当)のカウンターパートだったケビン・チルトン准将(後の米戦略軍司令官)からも電話がかかってきた。チルトン氏は「今回のテロにより、日本人にも尊い犠牲者が出てしまった。日本国として主体的に、このテロとどう向き合おうとされるのか。その具体策をお教え願いたい」とていねいな言い回しを使って問いかけてきた。
翌朝、日本大使館の幹部会議が開かれた。伊藤氏はチルトン氏の問いかけについて報告した。政務班長だった小松一郎公使が「私も国務省から同じ質問を受けた」と報告した。柳井俊二大使もホワイトハウスから同じ質問を受けていた。
それからの毎日、在米日本大使館から外務省の藤崎一郎北米局長を通じて首相官邸に、情報が直接伝えられる形がとられた。当時は内閣官房に国家安全保障局がなく、日本大使館がその役割を果たした。外務省は小泉純一郎首相の緊急訪米、防衛庁はテロ対策特別措置法の準備に、それぞれ取りかかった。
テロ特措法は10月末に国会で成立し、11月初めに施行された。伊藤氏は折にふれて、米海軍省のカウンターパートにテロ特措法案審議の進み具合を説明した。伊藤氏は「米側は、日本は補給や機雷掃海をやってくれるのだろうかと期待はしていたが、日本政府からはまだ何も正式に伝えられていなかった」と振り返る。アフガニスタンでの戦争は既に始まっていた。世界各国はコアリション(有志連合)という、法的な権利・義務関係に制約されない自主的な枠組みで参加していたからだ。伊藤氏は「メディアなどを通じた話が、間違った形で伝わらないように、外交窓口である大使館員として積極的に説明した」と語る。
当時、伊藤氏の説明は、海軍省や国防総省だけでなく、国務省やホワイトハウスにも伝えられていた。伊藤氏は翌年、ホワイトハウスの国家安全保障会議(NSC)に勤務していたマイケル・グリーン氏とパーティーで同席した。グリーン氏は「当時、コンドリーザ・ライス(大統領補佐官)から毎日、『キャプテン伊藤は今日は何て言っているの』と質問されていた」と話したという。伊藤氏は「情報がほぼ同時期に、フラットに共有されている事実に驚いた」と語る。
■「日本再軍備」懸念の声、下火に
伊藤氏は「9・11を契機に、日本に対する米国の信頼が深まったことは間違いない」と語る。
伊藤氏がワシントンに着任した1990年代末には、米軍内にはまだ、在日米海軍司令部などに「日本再軍備」の危険性を唱える人が残っていた。海上自衛隊は2001年に特別警備隊(特警隊)を発足させた。1999年に能登半島で起きた北朝鮮不審船事件を契機に、近接戦闘などを念頭に置いた部隊だった。しかし、当時の在日米海軍のなかに「海自がシールズ(特殊精鋭部隊)を作ろうとしている」として警戒や反対の声を上げた幹部がいたという。
また、ある米海軍省の幹部は、当時海自が進めていた、船首から船尾までつながる全通甲板型護衛艦の建造に反対した。9・11を契機に、米軍内でのこうした声は確実に小さくなり、全通甲板のヘリコプター搭載護衛艦建造を応援するようになっていったという。
一方、逆に日本が不安を抱く現象も起きていた。
伊藤氏によれば、9・11の直前まで、米海軍の現場と上層部の間では、中国軍に対する見方が割れていた。現場では、増大する中国軍の脅威に対して、冷戦期のような「封じ込め戦略」を唱えるなど、早急な対応を求める声が上がっていた。
9・11の直前、1999年に米海軍大学で行われた討論会で、伊藤氏は「日本にとっての中国は、政治経済的に相互に影響がある隣国であり、米ソ冷戦のようにはいかない。中国にシンパシー(親近感)のあるメディアの影響もあり、仮に封じ込めなどと米国がいえば、世論は二分するだろう」と発言した。米海軍関係者の間では「今度の日本の駐在武官のキャプテン伊藤は中国の回し者だ」というメールが出回った。
伊藤氏は「その一方で、米海軍の上層部は全く逆の考え方をしていた。特に当時のデニス・ブレア米太平洋軍司令官は、日米中を等距離で考える戦略を描いていた」と語る。「米海軍上層部の考えは、ネイビー(海軍)は世界共通だというものだった。ロシア海軍ともわかり合えるのだから、中国海軍とも話し合えば大丈夫だと信じていた」
そして9・11が起きた。中国やロシアは、米国が掲げた「テロとの戦い」を支持した。それまで激しく批判していた日米主導のミサイル防衛(MD)にも反対しなくなった。伊藤氏は「中国はチベットなど、ロシアはチェチェンなどでの戦いを、正当化できると考えたようだ。米国が中東に関心を集中させることは、中ロ両国にとっての脅威の削減にもなる」と語る。
実際、米軍上層部にあった「対立ではなく、関与することで中国の変化を促す」という戦略がますます強くなった。伊藤氏は「中国ではすでに1999年、(情報や外交、テロなどあらゆる手段で目的を達成する)超限戦の論文が発表されていた。米国は結果的に中国にだまされた格好になった」と語る。
伊藤氏は海上幕僚監部指揮通信情報部長時代、米軍との定期協議の場で何度も、中国が南シナ海で人工島を整備して軍事利用しようとしていると警告した。米側の回答は「何とかしなければいけない」というものだったが、この声は上層部に報告される過程で消えていった。オバマ政権は2012年、環太平洋軍事演習(リムパック)に中国軍を招待した。オバマ政権は11年秋、アジア太平洋重視政策を発表したが、政策が本格化したのは政権後半になってからだった。
■アフガニスタンのいま、どう見る
9・11から20年。伊藤氏はアフガニスタンのガニ政権が崩壊したニュースを聞いた。
伊藤氏は「中国やロシアがアフガニスタンに介入する可能性は低いのではないか」と語る。「ロシアはアフガニスタン侵攻に失敗した苦い経験がある。中国の新疆ウイグル自治区はイスラム過激派との深い結びつきがある。中国指導部も、アフガニスタンに手を出せば米国との深刻な対立を招くことはわかっている」
そして、伊藤氏は、米国民は米軍撤退を当然の結論だと受け取っているとみる。バイデン大統領は「(米国の)アフガニスタンでの任務は、国家の建設や中央集権的な民主主義の構築ではない」と語った。伊藤氏は「サンクコスト(これまでに投じたコスト)に拘泥しない、米国らしい考え方だ」と語った。
燃えるペンタゴンを直接目撃し、米軍人たちの悲痛な声を聴いた伊藤氏は、アフガニスタン戦争について「自由主義に対するテロは絶対に許さない」という信念から起きた出来事だと考えている。
その一方、アフガニスタンの首都カブールの空港付近で8月26日に起きた自爆テロにより、米兵13人が死亡した。バイデン大統領は「我々は許さないし、忘れない。追い詰めて代償を払わせる」と述べた。20年前、伊藤氏が米国で見聞きしたことが今も続いている。
いとう・としゆき 1958年生まれ。防衛大学校機械工学科卒。海上自衛隊で、潜水艦はやしお艦長(2等海佐)、在米日本国大使館防衛駐在官(1等海佐)、海上幕僚監部広報室長(1等海佐)、防衛省情報本部情報官(海将補)、海幕指揮通信情報部長(海将補)、海自呉地方総監(海将)などを歴任し、2015年8月退官。大学院ではフォロワーシップ・リーダーシップ論、組織開発、危機管理を教える一方、国防論・安全保障論についてメディア出演多数。