【旅する記者⑦】年齢の壁にも氷河期にもめげない 自ら選び取った「遠回り」の先に見つけた天職
在ロシア日本大使館の派遣員の職務を終え、1997年3月末に帰国した。
モスクワで結婚式を挙げて2カ月後。就職が決まるまで新妻のナターシャにはモスクワに残ってもらい、記者を目指して就職活動を始めた。
記者になりたいと思った理由はいくつかある。
日本や世界各地の大事件の現場に立ち会えることが何より面白そうだった。著名人や政府高官、識者などさまざまな人々とも会うこともできるだろう。
政治、経済、社会問題、文化、環境問題……、大げさに言えば取材対象は森羅万象すべてに及ぶ。毎日新しい事象と向き合い、一生涯学び続け、飽きることがない仕事に思えた。
中途半端な気持ちで就職活動をしていた大学時代とは異なり、今は目標がはっきりとしていた。
ところが、就職活動を始めてまもなく、受験できる新聞社やテレビ局がほとんどないことがわかった。
マスコミの就職活動が始まる時期は早く、大半のメディアが採用試験を始めていた。年齢制限は25歳以下が一般的で、28歳になっていた私は応募すらできなかった。
未経験者でも30歳まで受験できた長野県の信濃毎日新聞は1次の筆記試験で落とされた。朝日新聞も受験できたが、最終面接で落選した。
直前までモスクワで勤務していたので、マスコミの受験対策をする余裕はなかった。その上、日本は「就職氷河期」と言われていた時期だ。想像以上に厳しい状況に直面し、途方に暮れた。
ただ、日ロ関係は大きく動き始めていた。北方領土問題を含む平和条約交渉、経済協力など活発な外交が行われていた。ロシアで過ごした私の経験に興味を持ってくれるメディアはきっとあるはずだと自らに言い聞かせた。
そんな折、知人から新潟日報と北海道新聞がロシア関連報道に力を入れていると聞いた。いずれも、すでに就職試験は始まっていたと記憶しているが、だめでもともとの気持ちで、話だけでも聞いてもらおうと電話をかけてみた。
まず、新潟日報が会ってくれることになった。
さっそく北陸新幹線で新潟に向かった。人事課のオフィスに案内され、モスクワでの経験談や、記者になりたい意気込みを伝え、採用してほしいとお願いした。
人事課長らは真剣に話を聞いてくれた。新潟日報が日本海を挟んで向き合う極東ロシアに強い関心を持っていると感じた。
人事課長が帰り際に「せっかく遠くから来てくれたのだから」と食事に誘ってくれた。居酒屋で郷土料理を食べながら、私は話し続けた。
途中、新潟県政担当の中堅記者らが合流し、県庁での取材について話してくれた。批判精神にあふれ、記者の仕事にプライドを持っている姿が格好良かった。新潟日報にも好感を持った。
図らずも臨時の面接試験のようになったが、手応えは十分だった。八方ふさがりだった状況から、ようやく光が差し始めた。
その後、北海道新聞とも接触した。ここでも私のロシアの経歴に関心を持ってもらえたようだった。
面接試験をクリアして、内定をもらった。モスクワとサハリン州ユジノサハリンスクに海外支局を持ち、特派員として働ける可能性があることが決め手となり、北海道新聞に入社することに決めた。
新潟日報の人事課に事情を説明すると、「活躍を祈っていますよ。がんばって」と温かい言葉をかけてもらい、胸が熱くなった。
北海道新聞には1997年8月に入社した。本社研修を経て9月に小樽に赴任した。
かつて北のウォール街と呼ばれ、小樽運河をはじめ歴史的建築物が立ち並ぶ港町。私の記者人生と新婚生活はこの魅力的な街から始まった。
小樽報道部には、7人の記者とデスク、報道部長らがいた。
記者になって初めての取材は忘れられない。1985年に廃止された旧手宮線の線路跡の近くに建つ、石造りの喫茶店で開かれた写真展を取材することになった。
買ったばかりの一眼レフカメラを抱え、緊張して店を訪ねた。店長から写真展の概要を詳しく聞き、出展作品を撮影して報道部に戻った。
現像した写真をデスクに見せると、「こりゃだめだ。どんな場所なのかさっぱりわからん」と言われた。出展作品の接写ばかりで、展示室の様子がわかる写真がなかったのだ。
私は再び喫茶店に行き、今度は展示室を撮影した。だが、またもやデスクのだめ出しを食らった。
「客が1人も写っていないじゃないか。こんな寂しい写真見たことあるか」
恥ずかしさをこらえ、3度目に喫茶店に行くと、店長は気の毒そうな目で私を迎え入れた。ちょうど来店した女性客にお願いして写真を鑑賞する姿を撮らせてもらった。
四苦八苦して書いた記事は、デスクに跡形もなく書き直された。
翌朝、写真付き20行ほどの小さな記事が小樽版の片隅に載った。ほろ苦い気持ちで、人生最初の記事を眺めた。こんな調子で記者が務まるのか、不安になった。
地方紙の売りは、なんと言っても地元ニュースの豊富さだ。とりわけ北海道新聞は地方版の充実ぶりが際立ち、当時は人口約15万人の小樽市内の読者向けに2ページの「小樽版」があった。
7人の記者で毎日2ページをニュースで埋めていくのは大変な仕事量だ。新米の私も市内を駆け回ってネタを探したが、なかなか思い通りに記事が書けず、鬱々(うつうつ)とした日々が続いた。
小樽に赴任して数カ月たったころ、デスクが「小樽に大勢のロシア人が来ているが、彼らが何をしているのかをほとんどの市民は知らないだろう。ロシア人の連載を書いてみないか」と持ちかけてきた。
取り上げるテーマは自由に決めて良いという。小さな記事さえ満足に書けないのに連載なんてできるだろうかと不安だった。
でも、できの悪い28歳の新米記者が少しでも紙面に貢献できるのはロシアに関するテーマしかないと思い、引き受けた。
小樽港には当時、多くのロシアの漁船や貨物船が出入りしていた。カニなどの海産物を荷揚げし、日本の中古車を甲板一杯に載せて帰って行く。日本の中古車は、ロシア製の新車よりも安い上に、性能は格段に優れていることからロシアでは大人気だった。
港には中古車を買い求めに来たロシア人を自分の車に乗せ、市内各地の中古車販売店をめぐる「連れ去り屋」と呼ばれる業者がいた。港でロシア人を連れ去っていくように見えたので、こんな呼び名が付いたのだろう。彼らはロシア人船員の希望の車種や価格に合う中古車を探すのを手伝い、手数料を稼ぐ。
私は複数の連れ去り屋と知り合い、ロシア人の中古車買い付けの生々しい現場を取材した。
小樽で古タイヤを集めてロシアに送り、大もうけしたロシア人ビジネスマンとも知り合った。「最高の古タイヤ」を買い付けるために、日本人業者にロシアのお土産をこまめに配って人脈を築いていた。
私はロシア人が立ち寄りそうな市内のあらゆる店も訪ねた。片っ端からロシア人に話しかけ、何を買っているのかを聞いた。
どこまで取材すれば記事として成り立つのか。追いかけている話題が本当に読者の関心をひくのか。経験の浅い私にはさっぱり分からないまま、朝早くから夜遅くまで取材を続けた。
ストレスと疲労がたまり、胃の痛みで目が覚めるようになり、血尿まで出た。記者という仕事は、自分に向いていないのではないかと心底思った。
そのとき、ナターシャは「無理しないで。連載が失敗しても、殺されることはないでしょう。命さえあればいいの」と励ましてくれたのを覚えている。ずいぶん大げさな話だなと思いつつ、過酷な環境を生き延びたアフガニスタン人の言葉には妙な説得力があった。
ある程度取材が進んだ段階で、私はデスクに計8回の連載の概要を恐る恐る説明した。
するとデスクは「知らない話ばかりだな。こんな連載は君にしか書けない。面白いと思ったことをそのまま素直に書けばいい」と言ってくれたのを覚えている。
実際に執筆に取りかかると、1話100行以内に納めなければならないのに、うまく話がまとまらず200行以上も書くことがあった。
いつもは厳しいデスクが、この時ばかりは相好を崩して「面白れえなあ」と言いながら、短く、わかりやすく記事をまとめてくれた。
98年3月、連載「小樽とロシア人」が掲載された。
それまでの疲労が一気に消え失せ、充実感があふれた。読者の反応も良かった。自分で掘り起こした興味深いテーマを多くの人に伝える。記者の仕事はこんなに楽しいものなのかと思った。
小樽に赴任して2年目に入り、ネタ探しに奔走していたある日、たまたま通りかかった温泉施設の入り口に「JAPANESE ONLY」という看板が掲げられているのを見つけた。
こんな差別的な看板はひどいと思い、温泉施設の支配人に話を聞いてみた。
ロシア人客が来ると、湯船で泳いだり、浴場で酒を飲んだりして、日本人客が離れてしまうと危惧した温泉施設が考え出したのがこの看板だった。
施設側の苦悩は理解できるが、ロシア人に入浴マナーを説明するといった努力をした形跡はあまり見えず、安易に差別的な看板を掲げる対応には問題があると思った。
国際観光都市を標榜(ひょうぼう)する小樽のイメージ悪化にもつながりかねないが、行政の動きは鈍かった。
ソ連崩壊後に急増したロシア人の人権と、温泉施設の経営者の生活権がぶつかり合う興味深い現象だと感じた私は、この問題を大々的に報道した。雑報や連載を重ねたほか、小樽市役所幹部、外国人の入浴を拒否している温泉施設の支配人、入浴を断られたことがある道内在住の米国人を招き、3者対談を企画したこともある。
読者の反響は大きく、市役所も対策会議を立ち上げ、ロシア人船員に入浴マナーをロシア語で説明するパンフレットを配るなど、行政も動き始めた。
全国紙やテレビ局、海外メディアもこの問題を大きく取り上げた。自分が書いた記事がきっかけで、世の中が動きだす醍醐(だいご)味を知った。
そんな充実した記者生活を送っていた2000年春。朝日新聞のある記者から、「朝日新聞を受けてみないか」と誘われた。
上司や同僚に恵まれ、私は北海道新聞に強い愛着を持っていた。一方で、全国紙で働いてみたいという気持ちも抑えがたくなっていた。
東京で暮らす両親は息子の記事を読みたくても北海道新聞は売っていない。実家は長年朝日新聞を購読してきた。
後ろめたさもあったが、朝日新聞の経験者採用試験を受けることに決めた。北海道新聞で手がけた連載や特ダネ記事を携えて面接に臨み、3年前に落とされた朝日新聞に採用された。
アンカー職人、在ロシア日本大使館の派遣員、北海道新聞記者を経て、朝日新聞は私にとって四つめの職場となった。
私は31歳になっていた。ずいぶん遠回りをしてきたものだ。でも、その遠回りのおかげで、得がたい経験を重ね、成長できた部分も大きかったと思う。
大学卒業後に歩んだ道は曲がりくねっているようにみえるが、周囲に流されないで自分の頭で考え、その都度進路を選び取ってきた結果でもあった。
私は2001年2月、朝日新聞に転職し、水戸総局に配属された。朝日新聞では「サツ回り」といわれる警察取材が長く続いた。そして、私が初めて特派員として赴任したのはロシアではなく、転職当初は想像もしていなかった国だった。(続く)