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ソ連は娯楽少なく…声優ジェーニャ「アニメは二つ。チェブラーシカとヌー・パガジー」

People 更新日: 公開日:
声優のジェーニャさん
インタビューに応じる声優のジェーニャさん=2021年12月、関根和弘撮影

ソ連の記憶について語る声優のジェーニャさん

――ソ連での暮らしぶりを教えて下さい。

私はシベリアのノボシビリスクという都市で生まれたんですけど、父が軍人だった関係でリャザンやゴーリキー(現在のニジニノブゴロド)など転々としていました。

ものは少なかったですね。それはあとから分かったことで、当時は普通だと思っていました。商店に行っても、陳列棚が空っぽの記憶しか残っていません。

並んでいるのは、おいしくなさそうな缶詰だけ。バナナでさえめったに目にすることはなかったから、黄色くなるまで食べられないことを知らなかった。それでも売り出されたとたん、とりあえずみんな買った。

衣類もなかったです。入荷したらサイズが合わなくても買いました。だって次いつ入荷するか分からないから。だから「ファッションてなに?」という感じ。

デザインも選ぶ余地はなくて、何歳の時だったか覚えてないけど、誕生日に両親がコートをプレゼントしてくれたの。でもデザインが気に入らなくて。「こんなの着られない」と怒ってしまって。今から思うと、親は色々と手を尽くして買ってくれただろうに、申し訳ない気持ちです。

あとは知り合いからお下がりでもらったり、ニットはお母さんが編んでくれたりしました。

ソ連時代のジェーニャさん
ゴーリキー(現在のニジニノブゴロド)で暮らしていたころのジェーニャさん。1980年代末期で、当時はまだソ連だった=本人提供

市役所からは、お店で商品を買うことができるクーポンみたいなものをもらっていました。あなたは月にバター200グラム、砂糖は1キロ、小麦粉1キロ買えますよっていう券です。それを持ってお店に並ぶんだけど、真冬でも子どもたちを連れて、結構しんどいです。

もっとも、お父さんのお給料も多くなくて、お金はないし、お金があってもなかなか買えないし。お店と特別なコネクションがあったらどうにか、って感じですね。

ノボシビリスクに住んでいたころは、近くにお母さんの方の祖父母が暮らしていて、食べ物を分けてもらったからまだラッキーだった。近くと言っても300キロぐらい。でもそれはロシアでは近い方(笑)。

豚や鶏を飼っていて、あとで食べられるようにハムもつくった。夏には野菜も作って、長い冬に備えるの。冬は野菜が取れないから、ビタミン不足になるので、夏の野菜を瓶に詰めてマリネにして保存食。今はロシアでもスーパーで売ってるけど、当時は家で作っていた。

頼りになったのは、お父さんが軍から支給された物資。月1回、段ボールでコンビーフや練乳の缶詰などが与えられました。角砂糖があると「よし、お菓子だ」と喜んだ。どれも数は少なかったから貴重品だった。

あと、お父さんは軍の中でも共産党の政治思想を部下に指導する士官だったから、たまにモスクワに出張に行くことがあって、帰りにトランクいっぱいにお菓子やおもちゃを買ってきてくれた。そうでもしない限り、素敵なものは手に入らなかった。ソ連時代は物がなかったと言っても、モスクワはたぶん別格で、状況は全然違っていたと思う。

住む家はあった。マンションみたいなもの。国がくれたの。

子どものにとって一番大切なのは娯楽なんだけど、例えばテレビはチャンネルが二つぐらいしかなくて。

アニメはソ連製の「Чебурашка(チェブラーシカ)」と、狼とウサギが追いかけっこをするコメディー「Ну, погоди!(ヌー・パガジー!=日本語で「おい、今に見てろよ!」の意味)。ソ連版「トムとジェリー」と言われる作品ですね。これを何度も繰り返し見ていました。

あとは「ディアフィルム」という、家庭用の小さなプロジェクターみたいなものがありました。夜、壁に画像を投影する機械なんだけど、音も動きもないから、紙芝居のように絵を映して、台詞は自分たちで読んでいました。

ソ連のアニメ「Ну, погоди!」

――物もない、情報もない。つらくなかったのですか。

当時はつらいとかなかったと思う。むしろ楽しいって思ってた。だって、その世界しか知らないから、そういう生活が当たり前だと思ってたから。

国が情報をコントロールし、人々に国外の様子を教えない。ある意味幸せ。それがソ連のコンセプトの一つだったと思う。漫画の「進撃の巨人」と同じ。主人公は壁の中で生まれ育ち、その外側に別の世界が広がっているなんて知らなかったあの世界観。

でも、私は8歳のころ、壁の外に世界があるってことに突然、知ることになったんです。お父さんがチェコに行くことになって、私たち家族も引っ越したんです。

 そこでは本当に夢のような生活だった。お菓子もおもちゃも、自由もあった。かわいいお洋服も店にあってびっくりした。国によってなんでこうも生活が違うの?って。不公平に思ったし、裏切られた気分だった。

チェコスロバキアにいたころのジェーニャさん
チェコスロバキアにいたころのジェーニャさん(右)と弟(左)と友人=本人提供

夏休みにソ連に帰省することもあったんだけど、大きな段ボールにいっぱいお菓子を詰めて、おばあちゃんの家に行って、「どやっ」って感じでみんなで食べた。

お父さんの赴任は5年の予定だったんだけど、結局1年で帰国することに。ソ連崩壊まであと1年ぐらいだったから、それにつながるごたごたが影響したんだと思う。

チェコスロバキアに住んでいたころのジェーニャさん
チェコスロバキアに住んでいたころのジェーニャさん(上)と弟=本人提供

――またノボシビリスクに戻ったのですか。

いや、別の任地ですね。カリーニングラードという、今はロシアの飛び地になってるんですが、ここの近くにある部隊にお父さんは配属になった。ここは本当に最悪で、まず住まいは軍の寮みたいな建物。部屋にトイレがなくて、すごく寒くて。風邪をこじらせて肺炎みたいになって入院したこともあった。ここで1、2年ぐらい暮らして、やっとノボシビリスクに戻ることができました。

チェコに赴任する前、ゴーリキーに家を所有していたんだけど、これをノボシビリスクの人と交換して、移り住むことができたんです。今なら家を売って買い直しますけど、当時は部屋を交換するということをやっていました。

――ソ連が崩壊したのは30年前の12月25日でした。このときの記憶はありますか。

それが覚えてないんですよ。というか、周りもそれほど騒ぎになるということもなかったですね。それよりも、崩壊の前にあったクーデーター未遂事件の方が記憶にあります。「赤の広場」に戦車が出動して。お父さんも軍人だったので命が危ないんじゃないかとかは思った。怖かったかな。

ソ連で起きたクーデターに反対する市民
軍の装甲車が警戒する中、ソ連保守派のクーデターに抗議しクレムリンわきのマネージ広場に集まった市民たち=1991年8月21日、モスクワ

――ソ連が崩壊したあと、生活はどうなったのでしょうか。

本当につらかったのはソ連が終わったあとです。崩壊直後は一番貧しかった。ソ連時代よりももっと食べ物がなくて、お父さんの給料も払われなかった。

でも周りの人たちも同じように大変だった。貧しいのも平等。だから、お互い助け合って乗り越えたと思う。物々交換して。みんな親切だった。あと中国から安い商品が入ってきたので、どうにかそれを買ってしのいだ。よくなるのに数年かかった。

お父さんはさらに大変だった。ロシアのチェチェンで内戦が起きて、それに行ってる。私たちが想像できないようなものを見てきたんだと思う。

悪夢にうなされただろうし。すごくつらかったと思う。内戦も崩壊の結果。国が崩れて、人のつながりも崩れて。みんなの生活がいったんすべて崩れた。

でも崩壊によって海外の映画や音楽も入ってくるようになって、「ターミネーター」とか「エイリアン」とか、アメリカの映画も見られるようになった。

私の人生を変えた日本のアニメ「美少女戦士セーラームーン」も見られるようになった。1997年、16歳のころです。ちょうどそのタイミングで録画機能付きのビデオも買ってもらって、セーラームーンをよく録画してみていました。でも家電を買うのにも結構お金をためないといけなくて。ローンなんてないから、知り合い同士でお金を貸し借りしていました。

セーラームーンの前にも日本のアニメはあったの。「キャンディ・キャンディ」。でも設定が日本ではないでしょ。あと、ディズニーとかもあったんだけど、そのどれよりもセーラームーンは心動かされた。

アニメなんだけど漫画っぽい表現が多くて。例えば泣いたり、笑ったりする表情が漫画っぽく描かれている。痛いときの表情とかもね。テーマも色々。ステレオタイプじゃないのもあって、日本のアニメのよさがすごく凝縮されていたと思う。いい意味でわがままに作られている、制作陣が作りたいものを作っているという感じ。セーラームーンは世界中でヒットしてるんだけど、それが理由だと思う。

1998年にノボシビリスク国立経済経営大学に入り、ITを専攻しました。チェコにいた記憶がずっとあって、あの世界を知ってしまった以上、絶対に海外に出たいと思うようになった。だからとにかく英語は頑張った。

大学に入った後、地元にあったシベリア北海道文化センターに出入りするようになりました。そこでアニメクラブを作って部長になり、アニメ好きの仲間を増やしました。日本語もここで勉強しました。

インターネットもできるようになり、個人でサイトを作った。「kawaii.otaku.ru」という名前。英語版も作ったら、サイトを見つけた日本人たちと交流が始まったの。

2002年、初めて日本に行くことができた。交流していた日本人のみんなが支援金を集めてくれて、それで飛行機のチケットやホテル代を出してくれました。

初めて来た日本は最高で、感動しすぎて泣いていた。その後、大学を卒業して一度はロシアで就職してみたんだけど、私背が低いし、声が高いので子ども扱いしかされなくて(笑)。

だったらもう、だめもとで日本に行って声優になってみようと思った。今考えると色々と条件がそろってないよね。年は取ってるし、日本語も完璧じゃない。

振り返ってみると、チェコで外の世界を知ったことが大きかった。繰り返しになるけど、あのとき、絶対にソ連から出てやるって決めて、英語をたくさん勉強した。まあ、来たのは日本だったんだけど(笑)。

ジェーニャさんの初来日の写真
ジェーニャさんが初めて来日した際、日本で撮影した写真=2002年、本人提供

――両親はソ連について、どう思っていますか。

両親はソ連についてあんまり悪い印象持っていない。「ソ連のころってしんどかったよね」ってお母さんに言ったことがあるんだけど、「そんなことないよ」って。

お父さんも楽しかったと思う。元々、今のウクライナの田舎に住んでいて、子どものころ、家の近くにあった軍の基地を見て軍のパイロットにあこがれて。パイロットにはなれなかったけど、ノボシビリスクの士官学校に入って、共産党の思想を教える立場にもなって。

お父さんにしてみたら、軍も国も、自分に何もかも与えてくれた存在だったから。誇りを感じていたと思う。

それに当時は2人とも若くて、私たち子どもも小さくて、きっと希望に満ちていたから、そう思えるんだろうけど、いい思い出だけを覚えている感じ。人間て記憶を「改ざん」するって言うじゃないですか。それなのかも。

もう少し上の世代になると、ソ連がよかったと思う人はもっといると思う。でも、あの流れで国をずっと続けていくのは無理だったと思う。

ジェーニャさんの家族写真
ジェーニャさん(前列左)と弟(同右)、父(後列右)、母(後列右から2人目)。撮影したのが1986年で、当時はまだソ連だった=本人提供

――逆にソ連のよかった面というのはあったのでしょうか。

ソ連にもいい面はあった。まず教育。大学も無料だったし、国語や科学、スポーツなど、色んな分野で教育がしっかりしていたと思う。病院も無料。治安もよかった。映画や芸術も、心を込めて作られたものが多かった気がする。

あと元々考えられていた国の仕組みや理念とかは悪くはなかったと思う。とにかく正義とかフェアとか、そういうのをすごく大事にしていた。でも、問題はそれを実行するのが不可能ってこと。なぜなら、国や社会を作っているのは人間だから。

私もソ連は嫌だったけど、実は感謝している面もある。来日して最初の10年は生活するのに本当に大変で、銀行口座に千円しかないこともあった。でもソ連時代のつらく、不自由な経験があったからこそ、今日まで頑張れたんだと思う。ハングリー精神というのかな。私も記憶を改ざんしちゃっているのかも(笑)。

日本で暮らし始めたころのジェーニャさん
日本で暮らし始めたころのジェーニャさん=本人提供

――一部の日本人、特に若い世代には、ソ連に対するあこがれと言いますか、肯定的にとらえる人もいます。ミリタリー好きの人たちとか。どう思いますか。

どこかちょっとイラッとするよ。彼らにしてみれば、映画でも見ている感覚で、こんな世界があったら楽しいねとか、ちょっとおもしろがる感じなんでしょうけど、でもそれちょっといやですね。こっちはその世界を実際に生きてきたわけですから。

ご飯が足りない、物が足りない、情報が制限されている。そういう現実を生きてきたんですよね。

彼らは「国歌がいいよね」「軍服が格好いいよね」とか言うんですけど、それはそうなんですよ。だって、国の威信に関わる部分だから。ソ連はプロパガンダに力を入れていたの。

「ソ連はロマンだ」と言って、そういう楽しみ方も、ソ連の記憶が風化しないという意味でもありなのかもしれない。でも、一方で、ソ連で暮らしいていた人たちがどれだけ苦労したか、もっと深い闇がある。それも分かって欲しいですね。

――ソ連に対する否定的な意見についてはどう感じますか。

私もあの国が嫌で早く出たいと思っていたから、こう言うと矛盾するかもしれないけど、ソ連が暗いとか、怖いとか、これもまた一面的だと思う。

温かい人が多かったし、みんな大変だったけど一生懸命生きようとしていた。生まれた国や環境が違っても、人間はやっぱり一緒だよ。

声優としてアニメ作品のアテレコに臨むジェーニャさん
声優としてアニメ作品のアテレコに臨むジェーニャさん=本人提供