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ソ連に生きた日本人残留孤児、コロナで死去 「私は一体誰なのか」と問い続けた生涯

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ニーナ・ポリャンスカヤさんの赤ん坊のころとみられる写真
ソ連兵に救出された際、近くに落ちていたというニーナ・ポリャンスカヤさんの赤ん坊のころとみられる写真=2013年、関根和弘撮影

ソ連に生きた日本人残留孤児、ニーナ・ポリャンスカヤさん

ニーナさんは現中国東北部の牡丹江市で暮らしていたとみられる。終戦直後の1945年8月17日。ソ連軍が満州に侵攻し、牡丹江市も戦場になった。

この地の日本軍は全滅。防御陣地であるトーチカの中で、日本人将校とその妻とみられる男女の遺体があり、傍らにはその夫婦のものとみられる写真アルバムが落ちていた。

それをソ連兵の男性が記念に持ち帰ろうとしたところ、赤ん坊の泣き声が聞こえた。ニーナさんだった。近くには両親とみられる男女が亡くなっていたという。

発見された場所が草原のようなところだったことから、ロシア語でそれを意味する「ポーリャ」にちなんでポリャンスカヤと姓が与えられた。ニーナは、野戦病院で世話をしてくれた女性看護師の名前をもらったのだという。

その後、部隊の引き揚げに合わせて、ニーナさんは約5千キロ西のスベルドロフスク(現エカテリンブルク)に連れて行かれた。ここで将校クラブを管理していた女性に引き取られ、中国人として育てられた。敵国だった日本人と知られることを警戒したからだ。

発見時、ニーナさんは1歳か2歳だったが、国の手当が支給される年齢に合わせて5歳と申請された。だから小学校に入ったとき、勉強についていけずに苦労した。

誕生日はニーナさんが見つかった前日とされ、公的文書上の生年月日は1940年8月16日となった。

女性は復員した夫とウクライナに引っ越すことになり、ニーナさんは孤児院を転々とした。10歳のころ、ニーナさんは自分を見つけた男性と再会し、自分が日本人であることを明かされた。そして1枚の写真を渡された。

そこには、ニーナさんとみられる着物姿の赤ん坊が写っていた。男性が救出現場でニーナさん一家のものとみられるアルバムを見つけ、その中から1枚だけ持ち帰った写真だった。

ニーナさんはそれを唯一の手がかりに「自分捜し」を始めた。ソ連外務省や新聞社に助けを求めたが、時は冷戦。厳しく情報統制をしていた当局からは「余計なことに首を突っ込むな」と警告された。

ニーナ・ポリャンスカヤさんの赤ん坊のころとみられる写真
ニーナ・ポリャンスカヤさんの赤ん坊のころとみられる写真=2013年、関根和弘撮影

一方、ニーナさんの面倒を見ていた女性からも手紙で連絡があった。そこにはこう書かれていた。「ニーナ、許して。助けてあげられなかった。お願いだから何もしないで。あなたも大きくなればわかる」

女性はニーナさんが見つかった際に着ていたもんぺのような服を保管していたが、夫が当局を恐れて焼却処分した。ニーナさんは「自分捜し」をあきらめざるを得なかった。

追い打ちをかけるように、ニーナさんを病気が襲った。見つかったときの後遺症とみられる激しい頭痛や歩行障害に悩まされた。エネルギー関連の技師として働き始めた矢先のことだった。

障害者年金と手製の編み物を売って生計を立てた。特に生活が厳しかったのはソ連を立て直そうとして、ペレストロイカを進めたゴルバチョフ政権時代だった。

だが、1991年12月25日にソ連が崩壊したことで転機が訪れる。「鉄のカーテン」が開かれ、ニーナさんは日本人と接触するチャンスを得た。

2002年夏。福岡県筑紫野市の副島浩さん(82)がエカテリンブルクに来ていることをテレビで知った。副島さんはシベリア抑留者の墓地を捜しにこの地を訪れていた。

ニーナさんは副島さんに会い、写真を託して日本政府への連絡を頼んだ。2004年。副島さんの尽力でニーナさんは日本人残留孤児と認定された。中国以外で初めて残留孤児と認定されたケースで、この年、祖国の地を践んだ。

以来、ニーナさんは度々日本を訪れ、自分捜しと肉親捜しを続けてきた。

ニーナさんが助けられた牡丹江で生まれた作家のなかにし礼さん(昨年12月に死去)は彼女をモデルにした小説「戦場のニーナ」を書いた。

私が最初にニーナさんを取材したのは、2013年7月だった。当時、私はモスクワ特派員だった。この3カ月前、ニーナさんはロシアを訪問した安倍晋三首相(当時)と面会していた。興味を持った私は、エカテリンブルクに彼女を訪ねた。

家の前で出迎えてくれたニーナさんは足を少し引きずりながら歩いていた。5階建てアパートの最上階で暮らしており、上り下りが大変そうだった。

部屋は同じ年頃の女性とルームシェアしていた。この女性もほかに身寄りがなった。

たった一つの手がかりであるあの写真を見せてくれた。裏には「牡丹江 17Ⅷ 1945」と書かれていた。1945年8月17日、牡丹江でニーナさんを救出したことを兵士が記したのだという。この裏書きを見ながら、ニーナさんはこう言った。

「私は2回生まれたようなのです。最初は日本で、そしてこの日、この地で。つらい人生でしたが、これは私の運命だったと思っています。誰かを恨むことはありません。ただ、戦争が憎いだけ」

そしてこうも言った。

「肉親がわかったらうれしいけど、もしかしたらそのことすら、私にとっても、その肉親にとっても重要ではないかもしれない。だってお互い知らずにここまで生きてきたのだから。一番重要なのは、私が誰かということが明らかになること。私は本当に知りたい。自分はいったい誰なのか。名前とそして両親を」

支援者らか歓迎されるニーナ・ポリャンスカヤさん
来日し、支援者らか歓迎されるニーナ・ポリャンスカヤさん=2016年3月、新千歳空港、関根和弘撮影

ニーナさんが突然亡くなったのは昨年10月26日。原因は新型コロナだった。昨年1年間、新型コロナの感染拡大で予定された来日が中止になっていた。

ニーナさんは最後まで「自分捜し」をあきらめなかった、と教えてくれたのは副島さんだ。肉親ではないかという情報が寄せられれば、そこを訪ねて確かめたり、時にはDNA型鑑定もしたりした。副島さんは毎年、クリスマスのプレゼントをニーナさんに送っていた。

昨年はニーナさんが亡くなる2日前に到着。ニーナさんは友人らを入院先の病院に集めてプレゼントのお菓子を一緒に食べたが、それから間もなく、昏睡状態になったという。副島さんは言う。

「ニーナさんの人生は壮絶だったけど、ルーツを捜す彼女の『旅』は、多くのロシア人、日本人に助けられてきた。双方のいいところに触れることができたのは、せめてもの救いだったのではないでしょうか」

ニーナさんは2016年、「原友子」という日本名を贈られていた。

送り主はNPO法人「日本サハリン協会」(東京、斎藤弘美会長)。ニーナさんら現ロシアに残留を余儀なくされた日本人の一時帰国事業を支援する団体だ。ポリャンスカヤから「原」を、日ロ友好への思いから「友」をそれぞれ使った。

協会はこの年、永住帰国を果たした日本人らの共同墓を札幌市に立てた。ニーナさんは生前、ここに納骨して欲しいという希望を持っていた。ニーナさんの写真はすでに収められ、名前も慰霊碑に彫られている。

ソ連(ロシア)残留孤児たちの共同墓地
ソ連(ロシア)残留孤児たちの共同墓地=札幌市

斎藤さんは「ニーナさんは日本に来るたび、若々しくなっていきました。私たちが贈った日本の名前も、私たちが思った以上に喜んでくれて。自分は日本人だと意識できる証しになったのだと思います。昨年コロナの影響でロシアの残留日本人たちが来日できなくなりました。一番希望を持って、来日を熱望していたのが彼女だっただけに、本当にショックです」

ニーナさんは取材中も「私は誰なのか、知りたい」と何度も繰り返していたが、同時にこうも言っていた。「私はソ連人でもある」

12月25日はソ連が崩壊して30年。この節目に再び、彼女のその言葉に込めた思いをかみしめている。

ニーナ・ポリャンスカヤさんの名前が刻まれた共同墓の慰霊碑
ニーナ・ポリャンスカヤさんの名前が刻まれた共同墓の慰霊碑。支援者からプレゼントされた日本名「原友子」も刻まされている=日本サハリン協会提供