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「広島は第二のふるさと」ジョージア大使、平和記念式典出席へ 母国の戦争は「震撼」

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インタビューに応じるティムラズ・レジャバ氏=東京、関根和弘撮影
インタビューに応じるティムラズ・レジャバ氏=東京、関根和弘撮影

レジャバさんが広島にやって来たのは1992年。当時4歳だった。生物学を専攻していた父が一足早く広島大大学院に留学、そのあとを追って母と来日した。

一家は大学院がある広島県東広島市で暮らした。不慣れな異国生活を支えたのは、父の留学手続きも手伝った産婦人科医院を営んでいた角谷哲司さん(89)だった。

レジャバさん一家は、角谷さんの近くのアパートで暮らした。レジャバさんが小学校に入学して間もない1996年、父が博士号を取得したのを機に一家はいったん日本を離れた。

広島に家族で暮らしていた子どもの頃のティムラズ・レジャバさん(右から2人目)と角谷哲司さん(左)=広島県東広島市、角谷さん提供
広島に家族で暮らしていた子どもの頃のティムラズ・レジャバさん(右から2人目)と角谷哲司さん(左)=広島県東広島市、角谷さん提供

アメリカとカナダを回って4年ぶりに再来日。茨城県つくば市で暮らした。レジャバさんは早稲田大をへてキッコーマンに入社。3年間勤めたあと、母国でのキャリアアップを目指し、2015年に退社した。

帰国前、レジャバさんが訪ねたのが、第二のふるさと、広島の角谷さんのもとだった。

再会を喜びつつも、レジャバさんの記憶に残ったのは、角谷さんから初めて聞いた原爆投下時の話だった。

角谷さんは当時、県立広島第一中学校(現・国泰寺高校)の2年生だった。

生徒らは学徒動員でいくつかの兵器工場で作業することになっていたが、角谷さんら2年生は8月6日、たまたま自宅学習となって被爆を免れた。

校舎は爆心地から約1キロ弱。教職員と生徒約370人が死亡した。作業するはずだった工場も爆心地近くだったため、角谷さんは九死に一生を得た。

原爆ドーム。角谷さんが通っていた県立広島第一中学校(現・国泰寺高校)はここから約500メートルの距離だった=2021年3月、広島市中区
原爆ドーム。角谷さんが通っていた県立広島第一中学校(現・国泰寺高校)はここから約500メートルの距離だった=2021年3月、広島市中区

レジャバさんは話を聞いて運命的なものを感じた。彼自身、この7年前に戦争の「リアル」を間近で目撃していたからだ。

2008年8月。ジョージアは隣国ロシアと戦争になった。ジョージア領内の南オセチアでロシア軍とジョージア軍が衝突した。

レジャバさんはこの時、大学の夏休みで帰国。首都トビリシにいた。「震撼させられる経験でした。普段当たり前にあるものが、実は完全には保証されていないのだとわかりました」と振り返る。

グルジア紛争で南オセチアから逃げてきた難民のための居留地。同じ形の住宅約2000棟が並ぶ=2011‎年‎8‎月、トビリシ郊外、関根和弘撮影
グルジア紛争で南オセチアから逃げてきた難民のための居留地。同じ形の住宅約2000棟が並ぶ=2011‎年‎8‎月、トビリシ郊外、関根和弘撮影

角谷さんはどんな思いでレジャバさんに原爆の話をしたのか。照れくさそうにして取材にはっきりと答えなかった。だが、妻の安枝さん(88)はこう代弁する。

「男性ですからはっきりとは言いませんね。でも主人もテムカ(レジャバさんの愛称)が大使という立派な立場になって、しかも広島のことを思ってくれて喜んでいるはずです。医師として人命を救う仕事に就いたのも、亡くなった人たちへの思いがあるのだと思います」

レジャバさんは言う。「広島とのつながりは運命的だと思います。それをしっかりと意味のあるものとして、外交官として平和への取り組みにも力を入れたい」。8月6日、広島市内で開かれる平和記念式典に参加する。

レジャバさんへのインタビューのうち、主なやり取りは次の通り。

――広島で暮らしていたときの話を聞かせて下さい。

4歳のころ、広島県東広島市の西条というところに行くことになりました。きっかけは父が広島大に留学し、博士課程を取ることになったからです。

父は生物学者で、広島大で発酵について学びました。ジョージアではワインやチーズ、ヨーグルトの生産が盛んで、しょうゆや納豆といった発酵食品がある日本の技術を研究しようとしたんです。留学できたのは角谷先生のおかげでした。

私の祖父も研究者で、国際的な学会で角谷先生と知り合ったんですね。それがきっかけになり、父が留学できるようお願いすることになったのです。

日本は研究、科学において発展しているという情報がありましたし、祖父は常々、学を身につけることが大切だとも思っていましたから。

ただ、ジョージアは当時、まだソ連の時代でしたから簡単に手紙も届きませんでした。角谷先生も悩んでいたようです。

たまたま角谷先生が飛行機で乗り合わせた隣の席の人がジョージアに行くということがわかり、祖父に手紙を渡すよう託したんです。そこには父の受け入れ準備はできているとの内容でした。そしてようやく連絡が取れたということでした。

広島に来た頃、父と母は今の私よりも若く、25歳か26歳ぐらい。ジョージア人も日本にはほとんどいない状況で、今ほど母国と簡単に行き来ができるわけではないので、とても厳しい挑戦になったと思います。角谷先生はそんな私たちを支えてくれました。広島では弟が産まれましたが、母は角谷先生が経営していた産婦人科で出産しました。

特に私が覚えているのは、角谷先生からプレゼントされたランドセルです。東広島市立寺西小学校に入学したのですが、親は当時学生ですし、金銭的な余裕がなかったので入学式の直前までランドセルがありませんでした。

そこで角谷先生がプレゼントしてくれたんですね。とてもうれしくて、今までも背中にかけていたのを覚えています。あのときの記憶は本当に私の中で大事なものとしてしまってあります。ランドセル自体もジョージアに持ち帰り、今でも大事に保管しています。

広島での生活のあと、いったんジョージアには戻り、その後もアメリカやカナダへと移り、もう一度日本に戻ってつくば市に住みました。

どこも特別だったと言えばそうかも知れませんが、その中でも自分のルーツ、根ざしている場所はどこかと考えると、やはり広島。片足はジョージア、片足は広島という感じですね。

インタビューに応じるティムラズ・レジャバさん=東京、関根和弘撮影
インタビューに応じるティムラズ・レジャバさん=東京、関根和弘撮影

――広島での楽しかった思い出は?

色々あります。ジョージアからおじいちゃんとおばあちゃんが広島に来たことがあり、おじいちゃんにゲームセンターに連れて行ってもらってゲームをしたり、カードダスを買ったり(笑)。

今は残念ながら連絡が取れていないのですが、近所に同級生のヒロヤ君という友だちがいて、発売されて間もないスーパーファミコンを彼の家でよくやっていましたね。ソフトは「ドラゴンボール」や「星のカービィ」とかですね。

ほかには、近くの公園でサッカーやったり、その辺に転がっているビー玉やBB弾を探したり。

――広島市に行って原爆ドームや平和記念公園を訪れたことはありましたか。

実は毎週、広島市には行っていました。両親が語学を教えていた関係です。そういう意味では、原爆ドームは小さい頃からなじみのあるものでした。ただ、そのとき、原爆ドームの持つ意味というのは深くはわかりませんでした。

そういう歴史があったんだという程度だったと思います。たくさんの人が亡くなったということもわからなかったかもしれません。「死」というものが何なのかさえ、わからなかったかもしれません。原爆については、その後の人生で色んな経験をし、それらが点となってつながった上で、ようやく理解できました。

広島の原爆による悲劇は、本当であれば日々の生活の中で感じたり、考えたり、あるいは直接的、間接的な形で色んな人から話を聞くことが必要だったと思います。

平和が当たり前だと思っている人も少なくない中、それは難しいですし、もっと言えば、当たり前ではなく、とてつもない努力が必要だとわかっている人でさえも、それを日頃から意識し続けることはなかなか難しいでしょう。

先ほど申した人生の経験の中でということですが、私自身、戦争や平和についてしっかり考えるきっかけになったのが2008年に起きたジョージアとロシアの戦争です。

残念ながらジョージアはこの戦争で領土を失いました。この問題を平和的な手段で解決し、自分たちの法的な支配、コントロールを取り戻したいと考えていますが、残念ながら今はまだ、大きな課題として残っています。

私は当時、ジョージアにいました。18歳、19歳ぐらいで大学生でした。やっぱり物事の考え方が変わりました。普段あるものが実は完全には保証されていないのだと。物事に対する物差しが変わった経験でした。

さらには、わずか1日で多くの人命が失われて、その家族も大きな影響を受けて…。ある意味、私にとって現実の新しい「チャプター」を見せられたような、とても震撼させられた出来事でした。

そうなってくるとやっぱり広島のことに関しても、一段深い、ある意味での思い入れが出てきます。つながっているのだと思いました。

話は変わってしまいますが、日本の3.11にも通じる気がします。ある日突然、それまでの感覚が変わるという。だからこそ我々は日頃、もっと感謝しないといけないのだと思います。それは外交にも大いにつながるとも思いました。

被爆75年を迎えた平和記念式典=2020年8月6日午前8時11分、広島市中区、上田幸一撮影
被爆75年を迎えた平和記念式典=2020年8月6日午前8時11分、広島市中区、上田幸一撮影

――2015年に角谷さんを訪問し、原爆が投下された当時の話を聞かれましたね。

2015年というのは日本で勤めていた会社を退職し、ジョージアで自分のキャリアを試してみようと考えていた時期でした。ジョージアも経済成長していたので。

帰国前に、自分たち家族と日本とのつながりの出発点になった広島の角谷先生を訪ねてみようと思ったんですね。

ご自宅に泊まらせていただき、「あなたはお父さんに似てるね」などと、とても歓迎されました。ただ、その時、まったく予想してなかったのですが、「実はね」と角谷先生が話し始めました。「広島は原爆が落とされ、人々は被爆したのだ」と。そして、「自分も小さかったけど、そういう経験をした」と。初めて聞く話でした。両親からも聞いたことはありませんでした。

角谷先生は当時、中学生2年生で、普通に授業が続いていたわけですね。原爆が投下される前日に学校に行くと、みんなすごく疲れたのか、翌日は角谷先生の学級だけが休みになったと。

そしてたまたま、まさに原爆が投下されたのが、先生の学級が休みになった日だったそうなんです。その時に学校に行っていた人たちはみんな亡くなってしまったと。角谷先生は1時間とか40分ぐらいかけて山の向こうから通学していて、先生自身も自宅も被害は免れたんです。

私はそのことを聞かされ、先生がその現実を目の当たりにし、そして乗り越えたというのはとんでもない精神力だなと。そんな経験をした人が社会に復帰し、医者として貢献してきたと。ものすごく強いものを内に持っているんだなと。後々考えてみると、そういう経験が先生の優しさを作っているのかなとも思いました。

先生が飛行機の中で出会った人に祖父あての手紙を託したということもそうですが、私たちと日本とのつながりは、実は自分が思っていたよりもはるかに複雑で運命的なものなのではないかという実感がわきました。

この運命をしっかりと意味のあるものにし、自分も精いっぱい生き、子どもや国同士の関係のために少しでも何かできればと考えています。意義のある与えられた縁、運命を全うしたいという強い思いが芽生えました。

――帰国後、外交官になったのは角谷さんの話や、広島とのつながりが関係しているのでしょうか。

きっかけではなかったのですが、外交官になった以上はそれらを存分に生かしたいと思っています。外交というのは、よいメッセージを世の中に伝えていくためのツールだと思っています。

――外交官の仕事とは、国同士が対立した際、戦争や武力によってではなく、平和的に話し合いで解決することだと思いますが、改めてご自身の仕事についてどう思いますか。

世の中に善なること、発展的でポジティブで、人類にプラスになることは無限にあると思っています。我々が今、同じ時代に一緒に生きている理由をしっかり考えて、人類の苦しい体験に対し、みんなで一つになって取り組もうという姿勢で向き合わなければいけないと思う。

そのための切り口はいくらでもあると思っています。まして今、情報が発達し、技術が人同士をこれまでにないほど近づけています。

AIや5Gなどデジタル上の技術の発展は人のつながりを強めてくれますし、AIは機械的なことから人間を解放し、もっと人間らしい取り組みをさせようというものです。我々は今、そういう時代に生きています。

もちろん、そういうときこそ注意しないといけない面もありますが、これらのものをポジティブに生かし、人同士の交流を盛んにし、互いに感謝し合って人類の過去の過ち、誰の過ちかといえば人類の過ちです。それを二度と繰り返されないよう政治や外交、技術の発展が同時に進められないといけないと思います。

――8月6日の「原爆の日」、広島を訪問しますか。

8月6日は家族と一緒に式典に参加すると思います。私たちのサロメ・ズラビシュビリ大統領は核の不拡散に長年取り組み、平和を何より支持しています。

残念ながら諸事情により大統領が来日できなくなりましたが、やがてはジョージアのハイレベルの訪問時に大統領も広島に行きたいと思っています。

被爆から75年を迎えた朝、平和の灯の前で手を合わせる人々=2020年8月6日午前、広島市中区、白井伸洋撮影
被爆から75年を迎えた朝、平和の灯の前で手を合わせる人々=2020年8月6日午前、広島市中区、白井伸洋撮影

――世界で核兵器がなくなっていない現状をどうみますか。

核というのは、ジョージアのような大きくない民族や国から見ると絶対的なパワーの争いです。我々が踏み込めない領域という偏見を持ちがちですが、それがよくないというのは証明されているわけです。

絶対的なパワーを求めて核競争を続けてきたことが大失敗に終わったのだとしっかりと認識することが必要でしょう。

大事なことは、民族や文化など、今に伝わる伝統というものが平和の解決に対する鍵にもなるということです。人類が我々に残し、自然が導いてくれたものです。それに目を向けることで平和のヒントがわかると思います。

どういうことかと言うと、例えば私がTwitterなどを通じてジョージアの文化を発信しているわけですが、それによって我々の文化や歴史、アイデンティティーを伝えることになります。相互理解、そして平和にもつながると、自信を持っていきたいです。

――改めて広島への思いを聞かせて下さい。

広島に暮らしていた頃から30年ぐらいたちました。私は今、2人の子どもがいますが、うち1人は日本で生まれました。そして私自身、外交官としてジョージアを代表し、日本で仕事をしています。

人生を振り返ってみて、また現状を考えてみると、私たち家族と日本のつながりが人生の土台になっています。

中でも広島とのつながりは特別です。大変な状況にもかかわらず、支えてくれた角谷先生をはじめとした広島の方々はとても温かかったです。

まったく異文化、異なる国にもかかわらず、私たちの気持ちをしっかり感じてくれました。

今から考えれば、そういった広島の人たちの温かさや親切な気持ちというのは、大変な過去があったからなんだろうと思っています。だからこそ広島の人たちは強くて、やさしい。やさしさというのは強さだと、私は思っています。