広島県原爆被害者団体協議会(坪井直理事長)が失望を表明し、オリンピック会場で黙禱をするよう求める電子署名が前日の8月5日までに1万6900筆集まり、IOCや組織委に送られたことは、すでに報じられている通りだ。
筆者は2006~08年に朝日新聞広島総局に勤務し、その後も長く原爆・平和報道に関わってきた。その経験から、この問題は複雑で、これが正解だと断言するのは難しいと感じる。
だが、この問題は、私たちは何のために広島・長崎の原爆犠牲者に思いをはせるのかという根源的な問いを含んでいる。8月5、6の両日に広島市を訪れたのを機に、あらためて考えてみた。
今年の原爆の日は、被爆者らの悲願である核兵器禁止条約(核禁条約)が発効して初めて迎えるという意味も持っていた。
爆心地に近い平和記念公園で開かれた広島市主催の平和記念式典では、午前8時15分に1分間の黙禱がささげられ、松井一実市長は平和宣言で、日本政府に条約批准を求め、核保有国に対して条約を機能させるために議論に加わるよう促した。
参列者は新型コロナウイルスの感染予防のために例年の1割にも満たない約800人に制限されたが、周辺では大勢の人々が会場に向かって立ち、静かに黙禱を捧げた。
その一人で、数珠を手に黙禱した広島市西区の被爆者の女性(78)は、原爆で旧制中学2年生、14歳だった兄を亡くした。空襲による延焼防止のため建物を壊しておく「建物疎開」の作業中に、爆心地近くで被爆。野戦病院が開設された広島湾の似島(にのしま)に運ばれたが、2日後に命を閉じたという。
女性は「(IOC会長の)バッハさんは開幕式前に広島に来られたのだから、声かけくらいあっても良かったのではないでしょうか。核禁条約が発効して初めての年に世界の人々に一緒に黙禱してもらい、核兵器の恐ろしさに思いをはせてもらいたかった」と残念がった。
その隣で黙禱を捧げた近畿大生、百田梨花さん(20)は広島市出身で、下宿先の東大阪市から原爆の日にあわせて帰郷したという。曽祖母は、爆心地から約2キロで被爆し、両目や体にガラス片が突き刺さり、視力を失った。
その曽祖母が8年前に亡くなる直前、「将来を悲観した母から、一緒に死のうと言われた」と口にしたことから「核兵器を絶対になくしたい」と思うようになった。
IOCや組織委が黙禱の呼びかけを見送ったことに「核廃絶をみんなで願うきっかけになったかもしれないのに、悲しい」と失望を隠さなかった。
共通するのは、原爆投下時刻の黙禱を、米国に憎しみを伝えることでも、無警告で非戦闘員の市民が大量殺害された被害者だと訴えることでもなく、核兵器も戦争もない平和な世界を実現させたいと願う機会だと考えていることだ。
きれいごとに聞こえるかもしれない。だが、私はこれまで100人近い被爆者に話を聞いてきたが、その大半は報復ではなく「誰にも同じ思いをさせたくない」という願いを持っていた。こうした思いは被爆者や遺族に広く共通するものだと言える。
背景には、地球上には核兵器が今なお1万3000発存在し、原爆投下の惨劇が共有されなければ再び核兵器が使われかねないという切実な思いがある。その意味で、被爆地の広島市などがIOCに黙禱の呼びかけを求めたことは十分に理解できる。
世界では、使われれば生き残った人にも深刻な健康被害を残す核兵器について「単なる大きな爆弾」と考えている人も少なくない。各地から集まった報道陣が黙禱をきっかけに広島・長崎で起きた惨事を伝えたならば、「核兵器廃絶は人類の生存と直結する問題」という認識が少しは広げられたかもしれないとも想像する。
だが、世界各国から集まった選手らに一律に黙禱を呼びかけることについて、被爆地の誰もが賛成していたわけではない。式典後、平和記念公園内の原爆供養塔前で会ったヒロシマ・ピース・ボランティアの上椙(うえすぎ)輝之さん(78)は「もし追悼を呼びかければ、原爆以外の戦争被害の記憶が呼び覚まされ、反発が起きると心配していた」と胸の内を明かした。
ピース・ボランティアは、広島平和資料館や平和記念公園を訪れた人たちに被爆資料や慰霊碑の解説をするのが役割だ。ボランティア歴が10年を超える上椙さんは、過去に中国人の訪問者から「第2次世界大戦で日本が中国でやったことをどう思いますか?」と問われ、答えに窮したことがあったという。
上椙さん一家は軍港で知られる呉市で暮らして被爆を免れたが、父は親戚を探すために広島市内に入って残留放射線を浴び、6年後に原爆症とみられるがんで亡くなった。そのため「核兵器は許せない」という思いは強い。だが、多数の外国人の訪問者と向き合った経験から「日本による侵略や植民地支配の傷の深さから、アジアには今も『原爆のおかげで解放された』と考えている人たちもいる。一方的に追悼を強いるような形になれば、広島に対する反発を生むのではないか」と懸念していたという。
実際、過去には日本政府が国連の場で世界の指導者の広島・長崎訪問などを呼びかけた際、一部の国から「被害者意識を強調し、第2次世界大戦での加害の歴史を覆い隠そうとしている」と批判を受けることがあった。
被爆地・広島も世界にそうしたまなざしがあることを意識してきた。広島アジア大会が開かれた1994年に広島平和資料館を全面改装した際、「ヒロシマのメッセージを広めるためには原爆投下に至るまでの歴史も示す必要がある」との判断から、原爆投下前、中国大陸への進出拠点として栄えた「軍都広島」のあゆみや、朝鮮半島の人たちが県内のダムなどに強制連行された実態を展示した。
こうした展示は被爆70年を前に2019年に全面改装された際、「被爆資料をじっくり見てもらう」という考えのもとに大幅縮小されたが、上椙さんは解説の中で、可能な範囲で原爆投下に至る戦争の歴史に触れるように心がけているという。
ただ、歴史認識をめぐる問題は、被爆地の努力だけでは足りないのが現実だ。たとえば8月15日の全国戦没者追悼式で、2013年以降、首相の式辞からアジア諸国への加害責任という言葉が消えるなど、日本政府が被爆前の歴史と真摯に向き合う姿勢は後退していると言える。
上椙さんは言う。「世界各国から集まった選手らに黙禱を呼びかけ、自然に受け入れてもらえる環境は、残念ながら整っていないのではないでしょうか。片や、広島市民も原爆投下時刻にみんなが黙禱しているのかといえば、そうではない。この時間だけは市内の電車やバスを止めて黙禱を呼びかけるなど、足元からの取り組みが先だと思います」
一方、そもそも被爆体験を通していのちの重さと向き合ってきた被爆者には、コロナ禍で東京五輪・パラリンピックが開催されたことに批判が多い事実にも触れるべきだろう。
被爆者の全国組織、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の事務局次長で広島被爆者の児玉三智子さん(83)は8月5日、広島市内で開かれた記者会見でこう強調した。
「コロナ禍で命が大事なときにオリンピックを開催することに、私個人として反対だ。市民にも選手にも感染を広げることがわかっていながら強行したIOCに『黙禱を呼びかけてほしい』と私は言いたくない」
児玉さんは、大やけどを負った「大好きないとこのお姉ちゃん」が被爆から3日後、自分の腕の中で息を引き取った経験などを国内外で語り、被爆証言の第一人者として知られる。
組織委によると、8月8日の閉会式には、IOCの方針として、歴史の痛ましい出来事や様々な理由で亡くなった人たちに思いをはせるプログラムが盛り込まれているという。
児玉さんとともに広島を訪れた日本被団協の田中熙巳(てるみ)代表委員(89)は次のように語る。
「セレモニーとして被爆地を利用するだけでは、核軍縮は前進しない。願うのは、核兵器が2度と使われないように、まず広島、長崎で何が起きたかを知り、自分の問題として考えてもらうこと。もし、バッハ氏に本当に思いがあるのなら、選手たちに『コロナ禍が終わったときに、静かに被爆地を訪れて下さい』と呼びかけてほしい」
地球上に核兵器が1万3000発存在し、使われれば一発だけの使用で終わらず、国境を越えて壊滅的な被害が出る中、核兵器の問題は被爆者やその遺族の話ではなく、「私たち」の問題だ。そのことを私も肝に銘じたいと思う。