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「原爆神話」に包まれた1946年のアメリカで、米雑誌が掲載に踏み切った広島ルポ

ことばで見る政治の世界 更新日: 公開日:
朝日新聞の取材に応じるジョン・ハーシー。米マサチューセッツで。当時61歳。(1975年撮影)

広島と長崎に原爆が投下されてから73年がたつ。年々、被爆者の高齢化が進み、関係者の間では「被爆者のいない時代が始まる」(田上富久・長崎市長)という危機感が広がっている。あの日、キノコ雲の下で何が起きたのか。あの経験をどう記録し、伝えるべきか。様々な人たちがこれまで努力を続けて来た。その中で、投下の半年あまり後に広島に入り、世界に発信するルポを書いたアメリカ人ジャーナリストと、記事の掲載に踏み切ったアメリカの雑誌のことを紹介したい。(朝日新聞編集委員・三浦俊章)

毎年、今ごろになると思い出すことがある。すこし寄り道になるが、今回は個人的なエピソードから書き始めたい。

197986日、私はアメリカ人の学生たちと広島市にいた。平和記念式典に出席し、被爆者を招いて体験談を聞いた。国際交流プログラム「日米学生会議」の企画だった。私もメンバーの一員だった日本側実行委員会は、アメリカ人の学生にヒロシマの意味を考えてほしいと考え、会議のプログラムに広島訪問を盛り込んだ。会議には日米それぞれ約40人の学生が参加していた。

その晩のことである。ホテルで、ひとりのアメリカ人の男子学生に詰め寄られた。

「なぜこんなプログラムをつくったのだ。今までの会議で、アメリカ側が日本の過去の中国侵略を議題にしたことがあったか」

アメリカを批判する意図はない、被爆の実態を知って欲しいだけだ、と説明してもなかなか納得してくれない。

アメリカ人の女子学生が割って入ってくれた。

「私はきょう被爆者の話を聞けてよかったと思う。原爆が何をもたらしたのか、アメリカ人はよく理解していない。まず知ることが大切でしょう」 

あの日からもう39年。原爆が何をもたらしたか。知ることの大切さに変わりはない。そのことを世界に最初に示してくれたのは、アメリカ人の従軍記者、ジョョン・ハーシー(19141993年)である。

原爆投下から1年後の19468月という、いち早い時点で、被爆者の聞き書きに基づくルポ「ヒロシマ」を発表した。

ハーシーは1937年にニュース週刊誌「タイム」の記者になり、第2次世界大戦の従軍報道で活躍した。文才に優れ、1944年には連合軍のイタリア占領を舞台にした小説「アダノの鐘」を発表、同作でピュリツアー賞を受賞した。 

広島に原爆を投下した爆撃機「エノラ・ゲイ」は、米スミソニアン航空宇宙博物館の分館に展示されている=ランハム裕子撮影

ルポ「ヒロシマ」は、週刊誌「ニューヨーカー」からの発注だった。「ニューヨーカー」は優れた小説や評論を掲載し、知的な読者層を対象とすることで知られる雑誌である。その雑誌の編集部が、原爆投下がアメリカの視点だけで語られているのはおかしいと考え、ハーシーにルポを依頼したのだった。

 来日したハーシーはおよそ3週間をかけて被爆者に話を聞いた。取材の際に「私は人道主義の立場から被害調査をしたい」と語ったという。(邦訳『ヒロシマ』の増補版訳者・明田川融氏による「あとがき」、法政大学出版局)。多くの人に取材したが、ルポに書き上げる際、登場人物を6人に絞った。女性事務員、2人の医者、夫を戦争で失った仕立屋のおかみさん、イエズス会のドイツ人神父、そして日本人のメソジスト教会の牧師である。

 194586日の朝、日本時間できっかり815分、広島上空で原子爆弾が閃光を発した。そのとき…」

ルポ「ヒロシマ」はいきなり、その瞬間から始まる。

全身にやけどを負いながら、「水!水!」とうめく人がいる。巨大な火炎が避難の逃げ道をはばむ。家という家がつぶれ、その下から救いを求める声がする。だが、だれも助けてやれない。淡々と事実を重ねるその叙述は、読む人の心を離さない。このルポはジャーナリズムの歴史に残る金字塔になった。 

被爆直後の原爆ドーム。1945年9月1日撮影

発表の場となった「ニューヨーカー」誌の英断も大きかった。もともと4回に分けて連載する予定だったが、編集部はルポの重要性に鑑みて,全ページを割いて一挙掲載に踏み切った。「ヒロシマ」が掲載された1946831日号には、このルポ以外の記事はない。「原爆の信じがたいほどの破壊力をほとんどだれも理解していない」との告知文を添えたこの異色の号は、たちまち完売した。全米各地の新聞が抜粋を掲載し、米ABCラジオでは全文を朗読した。その年の暮れには書籍化され、これまたベストセラーとなった。 

アメリカ国民はそれまで、「原爆は真珠湾攻撃の報復である」という投下直後のトルーマン大統領(当時)の説明を鵜呑みにしていたが、ハーシーのルポを通して初めて原爆の残酷さを知った。大きな衝撃が走り、原爆使用は間違いだったのではないかと疑問視する声が出始めた。 

今もアメリカで流布されている「原爆が戦争の終結を早め、多くの人命を救った」という正当化論は、実はこのハーシーの「ヒロシマ」が引き起こした原爆批判を受けて、アメリカ政府や軍の側が繰り出した反論だったのである。それ以来、延々と続く原爆投下をめぐる議論の出発点に、このルポがある。 

2016年5月27日、歴史的な広島訪問で、連合軍捕虜を研究する森重昭さんを抱き寄せるオバマ大統領

201586日。広島の原爆から70周年の日に、「ニューヨーカー」誌は、もうひとつの決断をした。ハーシーの「ヒロシマ」が持つ迫力はいささかも減じていない、として全文(英語)をオンラインで無料公開したのである。

ハーシーのルポ「HIROSHIMA」を紹介したニューヨーカーの記事

ニューヨーカー」ウェブ版で全文が無料公開されている「HIROSHIMA」の記事