■決戦用の戦車部隊
私たちは10月半ばの午前9時半、音威子府から52キロ南に下った名寄を出発した。郊外には、音威子府に一番近い陸自名寄駐屯地がある。
松村さんによれば、自衛隊は当時、定員割れに苦しんでいたが、北海道の部隊だけは定員を満たしていた。第2師団は当時9千人で充足率100%だった。陸自の隊舎は2段ベッドが普通だが、名寄だけは3段ベッドが導入されていたという。有事になれば、松村さんらの戦車部隊は名寄の普通科(歩兵)部隊などと合流し、戦闘団をつくって現地に向かう手はずになっていた。
松村さんは当時、自衛隊が導入を始めた74式戦車4両を指揮する戦車小隊長だった。74式は61式に次ぐ2代目の国産戦車で、音威子府付近を流れる天塩川を渡河できるように設計されていた。重量38トン。不整地での燃費は1リットルあたり約200メートル。約800リットルを積載し、予備燃料として200リットルのドラム缶を備えていた。
松村氏は「74式は、上陸してくるソ連軍のT72戦車との決戦用でした」と語る。乗員は車長、砲手、操縦手、装塡手の計4人。油圧式で砲身を動かすが、職人としての技量が求められた。
旭川と稚内を結ぶ幹線道路、国道40号線を北上し、音威子府に向かう。
すでに始まった紅葉が、北に向かうほど深まっていく。道路の両側には、雪が積もっても路肩の位置がわかるように示す「↓」の表示板が続く。でも、ソウルと南北軍事境界線を結ぶ道路などにある、有事の際に巨大なコンクリート片で道路をふさぐ対戦車用障害物は置かれていない。松村さんは「冷戦時代にもありませんでした。日本の法律では、防衛設備を駐屯地以外に設置できないのが決まりですから」と語る。
名寄を出発して間もなくすると、ほとんど人家が見られなくなった。松村さんが大卒後の最初の赴任地として上富良野駐屯地に到着したのが1981年9月だった。夜、裸電球1つだけがともった上富良野駅には駐屯地から迎えに来たジープ1台だけが止まっていた。「ようやく、〈いい日旅立ち〉や〈北の国から〉がはやり始めたころで、当時の道北は今以上にうら寂しい場所でした」
それでも、民家が全くないわけではない。あちこちに牧場もある。当時は、有事に起こりうる民家の接収や、民間人の立ち退きなど、具体的な手順も決まっていなかった。
■敵を迎え撃ちやすい地形
音威子府に近づくと、道路の両側に緩やかな丘陵地が迫り、蛇行する天塩川を何度も越えた。「丘陵地は戦車を隠すのに好都合。180度から敵に火力を集中もさせやすい。敵との間に川があれば、こちらの陣地に突入されにくい。当時は車窓の景色を眺める時、いつも、一番適切な陣地はどこなのかを考えていました。音威子府から南北に20キロほどに伸びた地域は、敵が進撃してくる道路の両側計5キロほどに谷間が広がっていて、迎え撃ちやすい。ここが戦略的要衝でした」
松村さんによれば、敵戦車部隊は自衛隊との間合いがあるうちは、速度を発揮するため道路上を1列になって進撃してくる。自衛隊を発見するか、攻撃を受けた場合、反撃するために横に展開する。展開には時間がかかるので、進撃を遅らせることができる。
「私たちの部隊は、敵をなるべく足止めする遅滞行動を取り、味方の自衛隊や米軍が増援に来るまでの時間を稼ぐのが任務でした。相手に損害を与え、進撃を遅らせながら、こちらもじりじりと下がる作戦でした」
JR宗谷線、音威子府駅のそばにY字路があった。松村さんは「ここは、日本海側の抜海から来る道と、オホーツク海側の浜頓別から来る道がつながる合流地点です。稚内をはさんで東と西にある抜海と浜頓別は、ソ連軍の上陸に適した海岸で、それぞれに上陸した後に進撃すると、ここで合流することになります」と語る。
自衛隊としては、この合流地点から南にかけての山の中腹に陣地をつくって、ソ連軍を迎え撃てば、進撃を効果的に止めることができ、逆に反撃に出て稚内を取り返すことも容易になると考えていた。
■ソ連軍を足止めする計画
松村さんたちが布陣するはずだった場所は、この合流地点から抜海に向かって行った先の天塩郡幌延町にあった。国道40号と交差する丘陵地帯に、松村さんが指揮する戦車小隊4両と、戦車を攻撃するカールグスタフ無反動砲などで武装した普通科1個中隊(約200人)が展開する計画だった。
「まず、戦車1両につき、主陣地1、予備陣地2を作ります。車体が隠れるくらい、深さ約80センチの陣地です。敵に見つからないし、攻撃されても車体への影響を最小限にできます。1発撃ったら、陣地を変えて、また攻撃する。74式が相手を正確に狙って打撃できる距離は1千~2千メートルくらいです。ここで数日間、敵を足止めするつもりでした」
ただ、自分が戦う場所と思い定めた陣地だったが、当時は目視するだけで、実際に陣地を作ることはなかった。「地形研究に来たので見せて欲しい」と言って、民有地に入って研究するのがせいぜいだった。
松村さんらは当時、「2師団は捨て身の師団だ。自分を投げ出して遅滞行動を行うのだ」と声をかけ合っていた。松村さんは「ただ、それも欧州で第3次世界大戦が起きるというのが前提でした。地元の大半の人には危機感がありませんでした」と語る。ソ連軍による北海道上陸は、航空戦や海戦で海空自衛隊が敗北することを意味したため、空自や海自との作戦調整も簡単ではなかったという。
松村さんらは当時、「出動準備訓練」もよくやった。今年、陸上自衛隊演習でも実施された訓練で、防衛出動で、基地を出発する直前までの過程を訓練する。あらかじめ、携行品や破棄する物品、残す物品を決めて標識をつけておく。残す物品のなかでは、自分が死亡した場合に親族に送る物も決めておく。松村さんは「若かったこともあり、地味で面倒くさい訓練だなと感じた記憶があります」と語る。
当時の自衛隊では、ソ連が北海道に上陸する狙いについて、宗谷海峡の自由な通航を確保する必要があるからとの見方が有力だった。
■戦車が王者だった時代は「終わった」
冷戦後、一時期戦力が落ちていたロシア軍の活動は再び、活発になっている。北極海航路の利用が増えれば、宗谷海峡の価値が上がり、音威子府も再び、戦略的要衝としての価値を取り戻すかもしれない。
ただ、2003年から始まったイラク戦争で、イラク軍の戦車は、米軍の精密打撃兵器によって壊滅した。松村さんは「あの戦争で、戦車が地上戦の王者だという時代は終わりました」と語る。
自衛隊も冷戦時代1千両以上の戦車を保有していたが、現在は400両くらいまでに減っている。数年後には陸自富士学校の教育用を除き、本州の戦車はすべてゴムタイヤの機動戦闘車に置き換わる見通しだ。松村さんは「戦車は本来、旧満州や道北、道東のような舗装されていない広い平野部で使うことが想定されていました。でも、今の戦争は市街化された地域を巡って起きる場合が多いので、戦車の果たす役割も減っているのです」と語る。
戦車のキャタピラーは、鉄板を鉄のピンで留めているため、ぬかるみなどの路外機動には強いが、アスファルトの上を長く走ると振動のために切れてしまう。市街地戦闘には向いていない。
また、松村さんらが冷戦時代、北海道で演習を行っていると、突然無線にロシア語の音楽やニュースが割り込んできたという。自衛隊が使う無線の周波数を探知したソ連軍が、同じ周波数でニュースなどを流して自衛隊の通信を妨害し、「全部お見通しだ」と言わんばかりに威嚇していた。「今は妨害されにくい周波数拡散やホッピングなどの技術が一般化し、電子戦も複雑になっています」。ロシア軍はさらに、サイバーや宇宙も使った様々な戦い方を研究している。
2019年、米国とロシアによる中距離核戦力(INF)全廃条約が失効した。ロシアは極東地域への中距離ミサイル(射程500~5500キロ)の配備を目指しているとみられる。音威子府を巡る価値は再び上がっても、戦いの様相は全く違うものになるかもしれない。