北極圏にあるスウェーデン北部アビスコ。トレッキングの世界的なスポットとして知られる国立公園地帯から東へ10キロのストールダーレン沼は、温暖化研究の最前線として知られる。
沼地を囲むようにカバの低木とスゲの草原が広がる。人影まばらな沼のほとりを7月に訪れると、時折「バコン!」と不似合いな機械音が響いていた。
「永久凍土地帯から漏出するメタンや二酸化炭素(CO₂)をはかる装置ですね」。この地域で研究する植物生態学者、北海道大学の小林真准教授(40)が説明した。
草地や沼沿いに設置された30センチ四方ほどのいくつもの透明な箱が、自動で閉じたり開いたりを繰り返している。箱からはチューブが伸び、コンテナのような小屋までつながっていた。
装置を設置しているのは米ニューハンプシャー大学の研究チームだ。
「この地域は、温暖化の影響で急速に融解している永久凍土地帯の端にあります」。同大のルース・バーナー教授はそう解説し、研究の意義を語る。「そして、変化を知るための長年のデータもそろっている」
小林さんやバーナーさんらが拠点とするアビスコでは100年以上、気象や生態系のデータが蓄積されてきた。主眼は北極圏の気候や氷河、生物学などの研究だったが、「2年間以上、地中が0度以下に保たれる」とされる永久凍土が広がる地域の南端、という特徴もある。
北極圏は世界平均の3〜4倍の速さで温暖化の影響が出ているとされ、アビスコも、1974年に年平均で零下0.9度だった気温が、2006年には0.6度と30年で1.5度も上昇した。
アビスコとストールダーレン沼の中間にある別の沼では、小高い沼の岸がひび割れてどんどん沼に落ち込み、国道脇の丘も崩れて電柱が傾いている。
「すべてが温暖化の影響とは言えないかもしれませんが、私も訪れるたびに、地形の変化に驚いています」
10年近く現地に通う小林さんも戸惑いを隠さない。
沼の本来の姿は、成長して枯れた後も微生物に分解されづらい「ミズゴケ」などが堆積することで、保温性が高くなった地下に永久凍土が重なる地形だ。
しかし、夏場に凍土が解けることでこの地形が崩れ、湿地が広がる現象が起きている。
この日の気温は約20度だったが、小林さんに促されて地面の割れ目に手を入れると、ヒンヤリと冷気が残っていた。
小林さんが割れ目から手に取ったミズゴケの堆積物は、さらさらと崩れていく。ほかの植物より分解されづらいミズゴケは莫大な有機炭素として、永久凍土の地下で保存されてきた。ただ、融解と地割れで水や大気にさらされれば分解は進む。
酸素が多い環境下ならCO₂に。そして、沼など酸素が少ない環境では、メタンとして大気に放出される。沼の底から、ぷくぷくと泡が浮き上がってくる。メタンが含まれているのかもしれない。
世界の永久凍土には大気中の2倍の炭素が含まれているとされ、2100年までに有機炭素の15%が温室効果ガスとして放出される心配がある。温室効果の高いメタンとしての放出が増えれば、温暖化を加速させる「時限爆弾」になる恐れがある。
ニューハンプシャー大のチームは、沼深くの微生物群がメタンを多く出す性質があることを確認。2021年のネイチャー誌の特集でバーナーさんは「温暖化で予想より多くのメタンが排出されるだろう」と警告した。
一方、アビスコで研究を続ける英ダラム大学のキャサリン・ハースト助教は「実際に爆弾と呼べるほどメタンが放出されるかどうか、はっきりしていません」と指摘する。
メタンやCO₂がどう放出されるかは、わずかな水分や金属含有量に左右される。「最近の研究で、メタンを有む微生物の比率が、年単位で変化することもわかってきています。温暖化でメタンの振る舞いがどう変わるか、解明には時間がかかりそうです」。ハーストさんと共同で研究するベルギー・ルーバンカトリック大学のソフィー・オプフェルゲルト教授はそう話す。解け出した凍土で何が起きるのか、研究は始まったばかりだ。
人工衛星からも確認できる巨大なクレーターが、ロシアや中央アジアに近年、いくつも出現している。永久凍土が解け、大量のメタンガスが噴出して、周辺を陥没させた跡らしい。
なかでも、分厚く広大な永久凍土層を抱えるシベリアの研究は急務で、世界中の研究者がさまざまな観測機器を設置してデータを集め始めていた。
だが、今年2月のロシアのウクライナ侵攻後、「国際共同研究が存亡の危機にある」。モスクワ大学での研究歴もある米アラスカ大学の岩花剛助教は懸念する。
現地協力者には、定期的に現地へ行ってデータを回収してもらう必要があるが、侵攻後、ロシア国内への調査委託費の支払いが難しくなった。「今は金融制裁の対象になっていない銀行を通す方法を使っているが、いつまでできるか」(岩花さん)
ロシア政府ににらまれることを恐れて「データは許可が出るまで送れない」と言ってきた協力者もいるという。
岩花さんら西側の研究者は自国や所属研究機関の規制でロシアに入国できなくなった。「現場を訪ねて、データの妥当性を実地に検討できなくなったのも痛い」
米アラスカ州やカナダでも永久凍土研究を進めている岩花は3月以降、急きょフランス、韓国、日本の3研究チームの北米受け入れに奔走した。
みな、ロシアで研究ができなくなっていた。別の場所で研究を始めれば数年は動かせない。その間、ロシアでの研究が滞ることは明らかだ。
岩花さんによれば、冷戦終結後、ロシアとの科学研究協力はうまくいっていた。
「プーチン大統領はかつて、温暖化は寒いロシアにとって悪いことではないとうそぶいていた。しかし、永久凍土が解けて地盤が崩れ、発電所の燃料タンクから大量の油が漏れた事故も起きて、研究に前向きになっていた」
2014年のロシアのクリミア半島併合の後も、この分野では大きな影響はなかったが、今回は深刻だという。
岩花さんは嘆く。「欧州を中心に、国や分野によっては『ロシアの研究者と一緒に論文を書くな』といった締め付けが起きている。投稿料を送金できなくなってロシア発の研究論文も科学雑誌から消えようとしている。温暖化研究のように全世界で取り組まなければいけない科学研究でも、分断が進んでいる」(竹野内崇宏、大牟田透)
メタン「封印」、奇策の実験
シベリアの平原では、生き物たちを使って、凍土の中にメタンを封じ込める奇策の実験が進行中だ。
そこは、「更新世パーク」と呼ばれている。更新世とは今から約1万〜258万年前の時代のことだ。
実験に取り組む更新世パーク財団によると、背景や狙いはこんな感じだ。
現在のシベリアでは雪が断熱材のように大地をおおい、冷気が地中に届かなくなり、永久凍土の融解が加速している。光を反射しやすい草地も、樹木に変わり、熱を吸収しやすくなっている。
こうした植生はじめじめしており、メタンが発生しやすい環境になっている。
ここに、シベリアにマンモスがいた更新世の生態系の再現をめざして、大型動物を入れる。動物たちが雪を踏み固めたり、掘り返したりすれば、冷気が地中まで届き、永久凍土の融解を抑えられる。
さらに、樹木を倒したり踏み折ったりして草地を守り、メタンが発生しにくい環境を維持する――。
すでにトナカイやバイソン、ジャコウウシなどが導入され、一部では地温が下がるなどの変化が見られたという。
財団を設立したセルゲイ・ジモフは今年1月、ユネスコのインタビュー記事にこう話した。
「今年は、アジアゾウがシベリアの気候に適応できるかについての実験を計画しているんだ」
本当に計画に実現性があるのだろうか――。財団にゾウ導入の進展を問い合わせたが、返答は得られていない。(小坪遊)