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北極めぐる争奪戦 ロシアが海中に国旗、カナダは軍事演習で対抗「主権を行使せよ」

World Now 更新日: 公開日:
カナダ・北極諸島沖を漂う巨大な流氷。寒風と波しぶきにさらされる青白い塊は、ぞっとするような美しさだった
カナダ・北極諸島沖を漂う巨大な流氷。寒風と波しぶきにさらされる青白い塊は、ぞっとするような美しさだった=2008年8月、カナダ・パングナータング近郊、郷富佐子撮影

北緯66度08分にあるカナダのパングナータング。

カナダ北端にある北極諸島のひとつ、バフィン島のパングナータングは、8月でも凍えるような寒さだった。

「嵐が来る」

早朝5時半、青空と岩山の間に流れる筋状の雲を眺めながら、先住民イヌイットのヘザカー・オシュタピックさん(52)がつぶやいた。カナダ陸軍の傘下にある北極地域のガイド役、レンジャー部隊に加わって14年になる。

スティーブ・コベル小隊長の決断は揺るがない。

「我々は計画通り、今日、ボートで野営先へ向かう。防寒装備で6時半出発。全員、ただちに準備開始!」

30分後、ライフル銃を手にした36人が海岸に集結した。

いつの間にか雲は灰色に変わり、強い寒風が港へ吹きつけていた。兵士たちは、コベル小隊長に「遅いぞ。急げ!」と何度も怒鳴られ、震えながらテントや食糧などを9隻のボートに積み込んだ。陽気な教官のデレク・ウェブ軍曹(41)が「体感温度マイナス10度ってとこだな。ちょっと暑いけど、行こうぜ」と冗談を飛ばし、張りつめた空気が少しだけゆるんだ。

2008年8月下旬、カナダ軍が行った軍事演習「オペレーション・ナヌーク(ホッキョクグマ作戦)2008」を、「GLOBE」の郷富佐子記者が従軍取材した。陸空海軍の兵士600人のほか、沿岸警備隊や警察なども加わっての大規模なものだ。

北極圏が大きく変わりつつある。地球温暖化などで氷が溶け、新たな航路が開ける。欧州と日本を結ぶ距離が従来よりも40%も短くなるなど、経済に与える影響は計り知れない。北極圏には、世界の天然ガスや石油の未確認埋蔵量の約4分の1が眠っているとされる。その開発が現実味を帯び、周辺国はこぞって領有権を主張し始めている。

昨年8月、海洋学者でもあるロシアの下院副議長が、どの国に属するのかあいまいな北極点の海底に、ロシア国旗を立てた。カナダのハーパー首相は「北極での主権の大原則は、それを行使することだ。さもないと我々は主権を失う」と檄(げき)を飛ばす。大々的な軍事演習にも、カナダの対抗意識が表れている。

北極点から約4300メートル下の海底にロシア国旗を立てる小型潜水艇の映像
北極点から約4300メートル下の海底にロシア国旗を立てる小型潜水艇の映像=2007年8月、ロイター

作戦初日、カナダ最北端のヌナブト準州の州都、イカルイトで行われた作戦開始の記念式典には、マッケイ国防相も駆けつけていた。

「これはカナダのソブリンティ・オペレーション(主権行使作戦)だ」と力をこめた演説のあと、20人ほどの記者が取り囲む。

「ロシアに対する危機感は、どの程度ありますか」とたずねてみる。

「最近のロシアの動きをとても憂慮している。ロシアのベア(戦略爆撃機)がカナダの領空に近づけば、我々はF18(戦闘機)で迎えるだけだ。彼らに『これはカナダの領空であり、カナダが統治する領空だ』と思い出させる。そうすれば彼らは引き返す。これを続けるだけだ。不幸なことだが、我々はロシアとの関係において、新しい時代に入ってきていると言えるだろう」

驚くほど強い口調で、答えが返ってきた。

兵士たちを乗せたボートがパングナータングの海岸を出発して間もなく、雪が舞い始めた。強風と荒波で激しく揺られながら進み続けると突然、海上に無数の流氷が現れた。小舟くらいのものからビルのような巨大なものまで、大小の白い塊が漂う。その間を縫うように舵(かじ)を切ると、揺れが増す。船酔いでへばった兵士に、レンジャー部隊員が「横にならずに水平線を見ろ」と叫んだ。

寒さで一眼レフカメラを握る手の感覚がなくなってきた。前日の晩、味気ないレトルトパックの軍用食を口に運びながら、スコット・レイノルズ軍曹(38)とかわしたやりとりを思い出す。

「カナダの主権を強めるための作戦って、どういう意味ですか」。軍曹の答えは「うーん、北極地域に我々カナダ軍の『足あと』を付けるってことじゃないかな」だった。だとすれば、カナダはいま、流れる氷の間に「足あと」を付けているのだろうか。

港を出てから2時間後、野営地に到着した。真冬は零下50度まで下がるという岩だけの無人島で、本当に何もない。トイレもないから岩陰で用を足すしかない。「(米大陸に到達した)コロンブスになった気分だ」という声が聞こえた。

カナダ国旗を手にした兵士が、ふかふかのコケがはえた小高い岩によじ登った。地面が固くて支柱がささらず、小ぶりの岩を集めてようやく立てた。それでも強風で倒れそうになり、低地に張ったテントの横にくくり付け直された。

無人島に到着してすぐ、小隊長に命じられた若い兵士がカナダ国旗を立てた
無人島に到着してすぐ、小隊長に命じられた若い兵士がカナダ国旗を立てた=2008年8月、カナダ・パンダナータング沖、郷富佐子撮影

小隊長の補佐役、スコット・シュルツ准尉(36)によると、この島での主な任務は「イヌイットのレンジャー部隊員からサバイバル術を学ぶこと」。厳寒地で育つ数少ない植生から食べられるものを選び、トナカイやアザラシ、ホッキョクイワナなどを捕獲する。といっても、野生動物保護を厳しく定めた法律のために兵士は狩猟ができず、制限頭数付きの狩猟権を持つイヌイットが示す「お手本」を見るだけだという。

静まりかえる無人島に、レンジャー部隊員たちが撃つ「パーン、パーン」という銃声が響いた。横で「格好いい!」を連発していた18歳の兵士に、「ロシアが北極点の海底に国旗を立てたことをどう思う?」と聞いた。

「ああいうショッキングで意味のない行動は、米国がよくやる手法だから慣れているよ。だから僕たちは、ここにいるんだ。北西航路も北極も、カナダのものだ」。大きな身ぶりで力説した。

ロシアが国旗を立てたのは、ユーラシア大陸と北米大陸間の海底を走る「ロモノソフ海嶺(かいれい)」の権益確保を狙ったパフォーマンスだ。この海嶺が、ロシアの大陸棚の延長であると国際的に認められれば、北極点を含め広大な海底で資源開発が可能になる。カナダとデンマークも、黙ってはいない。ロモノソフ海嶺は自国の大陸棚の延長だと主張し、調査隊を北極に送り込んだ。

ロシア、カナダ、デンマークなどは「海の憲法」ともいわれる国連海洋法条約を批准しており、武力にものを言わせる紛争にはなっていない。しかし、今後、海洋法条約に定められた専門機関による大陸棚の判定次第では、対立が一気に表面化しかねない。

4日間、ろくに顔も洗えないまま、陸軍を離れて海軍へ移動した。イカルイトの沖合に停泊するフリゲート艦「HMCSトロント(4795トン)」までゴムボートで近づき、大きなつり輪で甲板へ引き上げられた。

「トロント」は長さ134メートル、幅16.5メートル。225人乗りの船体は5層に分かれており、300以上も部屋があって迷路のようだ。女性兵士用の寝室には3段ベッドが2つ。横になるのがやっとの狭さだが、陸軍の寝袋生活から解放され、ベッドで寝られるだけでもありがたい。

ただ、夜中でも「ピーピー」と警報のような大音声が響き、呼び出しがかかる。朝7時には、ポップス音楽に乗った「グッドモーニング、トロント!」で始まる陽気なDJと気象情報で起床の指令がある。

2日目の夕方、錨(いかり)を下ろした後に上官向けの食堂をうろうろしていたら、顔なじみになった兵士から「機密」の印がついた書類をちらりと見せてもらえた。「訓練用シナリオ」だ。「午前9時20分、ロシア砕氷船のエンジンルームから出火。SOSを受けて『トロント』が救助開始。26人死亡、負傷者多数」――。ナヌーク作戦で海軍が行う目玉演習のひとつだという。

このシナリオが実際に行われたのは、従軍最終日だった。午前9時半に突然、上官クラスに呼び出しがかかり、ミーティングが始まった。指揮を執る中佐が簡単な説明を行い、下士官らへ伝達するためにいったん解散。10時5分に再度招集がかかり、今度はアレックス・グラント艦長も出席して厳しい口調で命じた。

「第1は生命(Lives)。第2が環境(Environment)、第3が資産(Property)。以上が優先順位。各司令官は部下に発破をかけろ。わかったか?」。ミーティングルームに「イエス、サー!」の返事が響き、艦内が一気にあわただしくなった。

「炎上するロシア砕氷船」役は、別のカナダ軍艦「シャウィニガン」だ。沿岸警備隊の砕氷船「ピエール・ラディソン」も近くで待機した。「トロント」からゴムボートが行き来し、負傷者を甲板に設置された救助テントへ運ぶ。

艦橋のキャプテンチェアに陣取って指令を飛ばすグラント艦長に、ハーパー首相がよく口にする「北極での主権を行使せよ、さもないと失う」の真意を聞いてみた。

「海軍にとって、『主権を行使せよ』とは『北極をパトロールしろ。カナダの存在感を示せ』を意味すると理解している。ロシア人が入ってきて我々を武器で攻撃する恐れはないが、北極には他国からの船がどんどん入ってきているのが現状だ。ロシアもノルウェーもデンマークも米国も『北極は自分たちのもの』と主張する。カナダも当然、国益と主権を守るために偵察し、パトロールし、不審者がいればたださなければならない」

グラント艦長は、こうも言った。

「北極の氷はどんどん溶けている。北西航路はかなり近い将来に開けるだろう。ただ、客船が沈没すれば人命の危機だし、石油タンカーが座礁すればオイル漏れで深刻な環境問題になる。我々は常に、最悪の事態に備えなければならない」

夕刻、「トロント」を離れる時がきた。沿岸警備で一緒にアザラシを見たピーター・アウグスグス二等兵曹(44)が「思い出に、錨を下ろす時の旗揚げ役をやれよ」と言う。「そんな大役は無理」と断ったが、まわりの兵士たちが「やれ、やれ!」と盛り上がり、乗組員の黒キャップをかぶらされた。

「ゴー!」。無線機を持つ兵曹の合図で赤い手旗をさっと揚げると、3トン近い巨大な錨がするすると海底へ落ちていった。手を挙げたまま約5分。「ダウン!」の合図で降ろすと、拍手がわいた。1週間の従軍取材が、終わった。

従軍取材をした郷富佐子記者
従軍取材をした郷富佐子記者=2008年8月、バフィントン島イカルイト沖、本人提供

従軍取材、装備の重さは?

従軍取材は寒いだけでなく、重かった。出発直前に報道担当の大尉からメールで送られてきた「従軍メディアに薦める持ち物一覧表」は――。

【陸軍用】寝袋、エアマット、防水加工された防寒着、フリース服、防水加工された登山靴、懐中電灯、テントシューズ、キャンプ用マグや皿、フォークなど、虫よけスプレー、トイレットペーパー、洗面用具、ウエットティッシュ

【海軍用】酔い止め薬、防水加工された上着、サングラス、フリース服、底が柔らかいダイビング用ブーツ(甲板での歩行用)、バスローブ、シャワーサンダル、タオル

これらに加え、記者の仕事道具であるパソコン、デジタル一眼レフカメラ、三脚、ボイスレコーダーは欠かせない。筆記用具では、ボールペンは朝晩にインクが凍るため、鉛筆をよく使った。緯度・経度を測る小型ナビや地図、温度計、双眼鏡、手袋やスキーパンツなども合わせると持ち物は50キロ近くになった。

カナダの取材で、陸軍大尉が別れ際にリストバンドをくれた。シリコーン製で柔らかい
カナダの取材で、陸軍大尉が別れ際にリストバンドをくれた。シリコーン製で柔らかい=郷富佐子撮影