少し前までは、この極北の地にはだれも住んでいなかった。シロクマとセイウチ、それに何種類かの海鳥以外が姿を見せることは、ほとんどなかった。それが、温暖化で変わり始めている。それも、急速に。
緑の塊のような大型軍用車両が、対艦ミサイル「バスチオン」を運んでいる。指令があれば、5分で発射を準備できる。
兵舎は周りの厳しい環境から切り離され、まるで宇宙ステーションのようだ。150人ほどを収容できる。
新しい滑走路がある。戦闘機が発着でき、最近も2機が北極点の上空に達している。
ここは、ロシア領フランツ・ヨシフ諸島。氷河に覆われたいくつもの島々が、北極海に浮かぶ。地名は、オーストリア・ハンガリー帝国の皇帝にちなんでいる(訳注=1873年に同帝国の探検隊が訪れ、命名したとされる)。
この地球上で、南北の両極ほど気候の変動に影響を受けているところはない。北極では、温暖化で海氷面積が急速に減り、夏の数カ月の間は船が通れるようになった。かつては氷で固く閉ざされていた世界のこの急変は、新たな安全保障上の脅威をロシアに突きつけている。
氷が解けるにつれ、ロシアはかつてないほどの兵員と軍備を極北に送り込み始めた。気候変動がもたらす事態を想定して、真っ先に軍事力で戦略的に対応した国といってもよいだろう。
「極寒冷戦」。厳しい寒さの中で、文字通りの冷たい戦いが始まった――こう例える向きもあるほどだ。
北極圏の8カ国でつくる北極評議会の閣僚会合が2021年5月、アイスランドのレイキャビクで開かれ、ロシアが持ち回りの議長国を引き継いだ(訳注=構成国は米、ロ、カナダ、アイスランド、北欧4カ国)。
その際に、バイデン政権になって初めて、対面での米ロ外相会談が開かれ、北極圏でロシアが進める軍備増強についても話し合われたようだ。
ロシアは、これまでの歴史を通じて、北の守りは一貫して凍りついた北極海という天然の要塞(ようさい)に頼ってきたといってもよい。しかし、ここ何年かは夏季の海氷が史上最も少ないほどに減ってしまった。その面積は、観測が始まった1980年代より約3分の1も縮んだ、と米国立雪氷データセンター(本拠・コロラド州)は20年に発表している。
この間に失われた北極海の海氷面積は100万平方マイル近く(約259万平方キロ)。このままでは、21世紀半ばには北極点も含めて、夏には氷がほとんどなくなってしまうと見られている。
これはロシアの防衛戦略にとっては「悪夢中の悪夢に違いない」と米シンクタンク、海軍分析センター(本拠・バージニア州)の上級研究員マイケル・コフマンは語る。「米国と争いが生じた場合は、守るのが困難な、まったく新しい舞台が出現したことになる」
北極圏の各国の中で、かなりの長さの海岸線を持つのは、米、ロとカナダ、デンマーク、ノルウェーの5カ国だ。中でも、ロシアの長さは際立っている。
「ある意味では、外敵から守らねばならない新しい国境をロシアは抱え込んだことになる」。ベルリンのシンクタンク、ドイツ国際安全保障問題研究所は、氷が解けてしまうことに伴うロシアの課題をこう記している。
フランツ・ヨシフ諸島(訳注=具体的にはアレクサンドラ島)にあるロシア最北の軍事施設は、その形から「三つ葉型基地」と呼ばれる。駐留する対艦ミサイルなどの部隊を率いるのは、バラベグ・エミノフ中佐。「北極海の主な問題は、船によるアクセスが氷のために制限されてきたことだ」と説明する。「しかし、今は、航行可能な開放水域が広がるようになり、艦船の動きも活発になってきた」
ロシア軍は、民主的な西側の政治家やグリーンピースのような環境保護団体とは、さして共通性を持つわけではない。しかし、氷が実際に消えているという現実への視点だけは、しっかりと共有している。だからこそ、米国を出し抜くことができた。
ロシア政府は、20年に公表された最新の北極戦略で、気候変動を重要な柱として公然と位置づけた。一方、(訳注=気候変動を認めなかった)トランプ政権のもとで、米国防総省は対照的に対応した。北極戦略を最後に公表したのは19年で、氷がなくなりつつあることには「物理的な環境の変化が生じている」と遠回しに触れているに過ぎない。
ただし、そこでは、北極圏内でロシアが最大の軍事力を展開していることへの米側の警戒心は示されていた。触れられることのなかった気候変動の位置づけも、21年初めに発足したバイデン政権のもとで変わるのは確実だろう。
そんなせめぎ合いを反映したロシア軍の動きがあった。先のレイキャビクでの米ロ外相会談の直前に、外国の報道陣がフランツ・ヨシフ諸島の三つ葉型基地を含む極北ツアーに招待された。普段は透明性に欠けるロシア軍としては、異例のことだった。
寒さに震える報道陣が見守る中で、基地の現地司令官エミノフは、対艦ミサイルのバスチオンを発射できる状態まで立ち上げさせた。そして、白っぽい迷彩服の兵士を前にこう訓示した。
「我々の任務は、祖国の国境を守ることにある。これこそが、その抑止力だ」
この基地を含む極北防衛の中核を担うのは、ロシア海軍最強の北方艦隊だ。その旗艦である巡洋艦ピョートル大帝の艦上で、艦隊司令官のアレクサンドル・モイセエフ提督が、今回のツアーに参加した報道陣にブリーフィングをした。そして、ロシアの軍備増強については、西側の北大西洋条約機構(NATO)が北極海で軍事行動を活発化させていることへの対抗措置だという構図を描いてみせた。
「NATOに加わる各国の海軍は、定期的に水上艦を単隻で北極海に送り込むだけでなく、艦隊まで派遣するようになった」とモイセエフはいう。しかも、その滞在期間は延びており、この海域にとっては第2次世界大戦後で最も重要な軍事的変化が起きているとの現状認識を示した。
このため、ロシア側も対応に迫られていると強調。約50隻に上る北方艦隊の所属艦船が今後、急速に増えることを明らかにした。21年中に13隻もの新造船が、試運転の航海に出るというのだ。
このブリーフィングには、艦内の将校ラウンジが使われた。「ロシア海軍の父」ピョートル1世(訳注=初代ロシア皇帝。1725年没。海軍を創設し、晩年に「大帝」と称した)の胸像があり、海戦に臨む帆船の油絵が飾られていた。
ピョートル大帝は、北方艦隊の司令部があるコラ湾の不凍港セベロモルスクに係留されていた(訳注=コラ湾はロシア北西部・コラ半島の北部に切り込んだ長いフィヨルドで、湾奥には北極圏最大の都市ムルマンスクがある)。
この日は、報道陣の他にも訪問者があった。カモメたちが、灰色のレーダーアンテナ群の周りや、20基ある対艦ミサイルの発射管の上をせわしく飛び交っていた。タラップの脇には武器を携えた歩哨が、顔に打ちつける冷たい雨もまるで気にならないかのように立ち続けていた。
コラ湾のどこかでは、別次元のロシアの軍備増強が報道陣には非公開で進められているはずだ。アザラシやシロイルカを訓練して使う極秘作戦で、特殊任務用と見られる地点の沖合にいけすのような囲みが浮かんでいるのを衛星写真がとらえている。
事実、2年前には謎のベルトを装着したシロイルカが、(訳注=ムルマンスクから400キロ余り離れた)隣国のノルウェーに現れた。(訳注=ベルトのラベルなどからロシアでの)訓練中に逃げ出したと見られ、ワルジーミルの愛称が付けられた。
ロシアが軍備を増強する目的の一つは、氷が解けるようになってもたらされる経済的な利益を確保することだろう。
「気候変動は新たな経済的可能性をもたらしている」とロシアは先の北極戦略で指摘している。19世紀の終わりに、カナダの極寒の地クロンダイクで起きたゴールドラッシュのような事態の再現を思い描いてのことだろう。
その実現に向けて、ロシアの政府と企業はさまざまなもうけ話を考え出している。石油や天然ガス、石炭といった地下資源の採掘は、(気候変動をもたらす資源そのものであるにもかかわらず)優先順位が極めて高い。
もう一つある。欧州とアジアを結ぶ北極海航路の開発だ。ロシアの水先案内人と砕氷船を同乗・同行させて手数料を取り、有料道路同然に運用する構想だ。
ただし、これは火種にもなるだろう。この航路を米国は、国際的な通商ルートと見なしているからだ。国防総省は、南シナ海で現在実施している航行の自由作戦を、北極でも行う権利があると牽制(けんせい)している。
米ロの軍事的対立は、さまざまな形をとって現れている。演習があれば、互いに相手の艦船を追尾する。長距離爆撃機も飛ばし合っている。航海無線の電波妨害というロシアの得意技も飛び出している。
ロシア海軍は21年3月、分厚い氷を突き破って3隻の潜水艦を同時に浮上させてみせた。この曲芸のような大技が見過ごされることのないようにドローンで撮影し、その映像をネットで公開したのだった。
米国も動いた。バージニア級原子力潜水艦のニューメキシコを21年5月、ノルウェー北部のトロムソに派遣した。民間の港に立ち寄るのは、めったにないことだった。
外国報道陣を招いた今回のロシア軍の極北ツアーも、同じ文脈でとらえた方がよさそうだ。膨大な国土の最もはずれにあり、秘密に包まれていた北極海の軍事施設をあえて見せたのは、その軍事力を誇示することに大きな狙いがあるのは確かだろう。
「東西冷戦時代の軍事施設を近代化して復活させたところに報道陣を招待したのは、対外発信がすべてといってもよい」。米シンクタンク、ウィルソンセンター(本拠・首都ワシントン)の極域研究所で北極分析を担当するマリソル・マドックスは明快だった。そして、こういい添えた。
気候変動の時代になっても、「力でかなう者はいないという絶対的な強者の役を、ロシアは演じ続けたいのではないか」。(抄訳)
(Andrew E. Kramer)©2021 The New York Times
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