今から9年前。私はウクライナの首都キエフにいた。2013年12月上旬のことだ。
キエフは、世界遺産に登録されているウクライナ正教会の施設や歴史的な建物が点在する古都だが、そんな美しい光景は一変していた。
立て看板をつないで作ったバリケードが大通りをふさぎ、中心部の独立広場には巨大なステージが出現。道のあちこちにテントがはられ、たき火の炎がちらちらと揺れる。
日本で例えるなら、東京の銀座や丸の内といった場所で、群衆はウクライナ国旗と欧州連合(EU)の旗を振りながら、ヤヌコビッチ大統領(当時)の退陣を叫んだ。「ユーロマイダン(マイダン革命)」と呼ばれる抗議活動だった。
抗議のきっかけはこの年の11月下旬、ヤヌコビッチ氏がEUとの経済協力を強化するための協定締結を断念すると言い出したことにあった。
ヤヌコビッチ氏は当初、経済の安定的発展のためEU加盟を望んだ。だが、市場開放だけでなく「法の支配」も重視するEU側は、ヤヌコビッチ氏と大統領選を争った政敵ティモシェンコ元首相の釈放を協定の条件とした。
元首相はロシアとの天然ガス取引契約をめぐる刑事事件で実刑判決を受けて服役中で、EUは「事件は政治的だ」と問題視していた。
だが、ヤヌコビッチ氏はこれを飲むことができず、締結を見送った。そればかりか方針を大転換し、ロシアに対して支援を求めた。欧米志向の人たちの間で失望が広がり、前代未聞の「首都占拠」へとつながった。
抗議活動の参加者は日に日に増えていき、数万人へとふくらんだ。行政庁舎の占拠も始まった。そして12月11日未明。事態が動いた。
マイナス12度の中、軍と警察隊が大量に動員され、バリケードなどの強制排除に乗り出した。抗議者と当局側とが激しくもみ合った。
年が明けても衝突は収まらず、他の都市でも行政庁舎が占拠されていった。2014年2月下旬。ヤヌコビッチ氏は大統領選の前倒しを約束する「譲歩」を示した。
それでも抗議の勢いは止まらかった。しまいには大統領府も占拠された。ヤヌコビッチ氏は国を追われ、ロシアへ亡命した。
「ウクライナで権力を掌握しているのはファシズムを信奉するチンピラだ」
消息不明だったヤヌコビッチ氏が一週間ぶりに公の場に姿を現し、ロシア南部で記者会見を開いた。キエフから戻ったばかりの私も出席したが、彼の表情と言葉には怒りがあふれていた。
首都中心部と大統領府の占拠。そして亡命――。ヤヌコビッチ氏の目には、ユーロマイダンは力で権力を奪った「クーデター」と映ったことだろう。
同じように堪忍袋の緒が切れたのは、ロシアのプーチン大統領だったに違いない。
この出来事はプーチン氏にとって「レッドライン(越えてはならない一線)」(プーチン氏)だったのであり、のちのクリミア実効支配、ウクライナ東部での分離勢力の支援、そして現在進行中の軍事的緊張につながっている、と私はみている。
話を進める前に、地政学的、歴史的な見地からウクライナという国を振り返ってみたい。そうすることでプーチン氏の怒りの理由と、今日の事態を招いた原因がよくわかるからだ。
ソ連の崩壊(1991年)によって、アメリカを中心とする資本主義陣営と、ソ連が率いる社会主義陣営による対立が終了し、西側と旧東側諸国との接近が進んだ。
経済で言えば、EUに東側陣営だったバルト三国や東欧諸国などが相次いで加入。ソ連を構成していたウクライナやジョージア、モルドバも加入を求めるようになった。
安全保障の分野では北大西洋条約機構(NATO)にバルト三国、東欧諸国が加わり、やはりウクライナとジョージアが加盟を強く希望している。
欧米にとっては、こうした動きはまさに、資本主義の「勝利」を意味するのかもしれない。
だが、ロシアにとっては、それは逆だ。経済と安保の両面で自国が脅かされていると見えるのだ。
とりわけ安保については、ソ連など東側諸国に対抗するために創設されたはずのNATOが、ソ連崩壊後も存在し続けていることに不信感を抱いてきたし、自国と直接接する旧ソ連ウクライナやジョージアも取り込む可能性が出てきたとなれば、容認できないレッドラインなのだ。
プーチン氏は就任当初、対テロなどで西欧と協調姿勢を取っていた。にもかかわらず、NATOの東方拡大が止まらない状況に何度も懸念と怒りを訴えてきた。結局、冷戦はまだ亡霊のようにどちらの側にも立ちはだかっているような気がしてならない。
ウクライナの国内問題もある。
ウクライナの地には中世時代、東スラブ人のキエフ大公国があった。東スラブ人は主にウクライナ、ロシア、ベラルーシに暮らす民族だ。この3国が兄弟国と言われるのはそのためだ。
キエフ大公国はモンゴル勢力に滅ぼされたが、それに代わってこの地域に台頭してきたのがモスクワ大公国(現ロシア)だった。
これ以降、ウクライナは西をポーランドやリトアニアが、東をロシア帝国がそれぞれ支配する時代が続き、今もウクライナの西部は親ヨーロッパ、東部は親ロシアの地域となっている。東部にはロシア系住民も多い。
こうした経緯から、ウクライナの外交路線は歴代大統領の出身地や政治的地盤などに左右され、ヨーロッパとロシアとの間で絶えず揺れてきた。
例えば最終的にロシアに支援を求めたヤヌコビッチ氏は東部ドネツク州の出身だ。当初はEU加盟を求めたが、最終的にロシアを選んだのは必然だった。ロシアが神経をとがらせるNATOに関しては加盟を求めなかった。
一方、彼の前任で最も西欧接近を試みたユーシェンコ氏は西部に地盤を置く政党党首だった。EU、NATOの双方に入ることを強く望んだ。
そしてユーロマイダンを率いた指導者たちもやはり西部にゆかりのある人が多かった。
話を戻そう。
ヤヌコビッチ氏が国を追われたことで、彼の地盤である東部では親ロシア派グループが立ち上がった。ユーロマイダンに激しく反発し、欧米寄りの新政権に対する抗議活動を始めた。今度は彼らが各地で行政庁舎を占拠し、ユーロマイダンを支持する人たちと衝突を繰り広げた。
中でも抗議が激しかったのが、ロシア系住民の多いクリミア半島とヤヌコビッチ氏の出身地ドネツク州、隣のルガンス州(両州合わせたドンバスと呼ばれる)だった。まず事態が動いたのがクリミアだった。
新政権に反発するロシア系住民らが抗議集会を開き、新政権を支持するウクライナ系、タタール系住民らとの緊張が高まった。
2月下旬には、記章を外し、所属が不明の謎の兵士集団が出現した。
彼らは行政庁舎や空港などを次々と占拠した。ロシア軍の疑いが指摘されていたが、プーチン大統領は当初否定した。だが、現地入りしていた私が兵士の一部に取材すると、彼らはあっさりと「ロシアから来た部隊」と認めた。
3月に入り、ロシア上院は「ロシア系住民の保護」を理由に軍投入を承認した。謎の兵士集団とのつじつまを合わせる形になった。のちにプーチン自身も集団がロシア軍だったと認めた。
クリミア半島南端のセバストポリにはウクライナの海軍本部があったが、ここも含めて軍関連施設はロシア軍に占拠され、兵士らも投降を余儀なくされた。
中旬にはロシア編入の是非などを問う「住民投票」が行われた。編入に賛成を投じた人が圧倒的多数だったとされているが、現状を維持するという選択肢はなく、「ロシアへの編入ありき」の内容だった。
そもそも領土変更について、国民投票ではなく、住民投票で決めるのはウクライナの憲法違反でもあった。
当然、国際社会は投票の正当性を認めなかった。だが、それでもロシアの姿勢は揺るがなかった。クリミアの分離独立を認めるだけでなく、自国の領土に編入したのだ。
これにより、ロシアは主要国首脳会議(G8)から外され、欧米を中心に厳しい経済制裁を受けることになった。
そんなリスクを背負ってでも、ロシアがクリミアを手に入れようとしたのは、この地がロシア人にとっては「特別な場所」だったからだ。
ロシア帝国時代から多くのロシア人が暮らしていたにもかかわらず、ソ連時代の1954年、ときの指導者フルシチョフは帰属をロシア共和国からウクライナ共和国に変更した。
当時は同じソ連領内だから問題にならなかった。だが、ソ連が崩壊して別々の国になったとき、ウクライナとロシアのどちらに帰属すべきかという問題はくすぶり続けてきた。
これに加えて、クリミアにはロシアの黒海艦隊が駐留していた。北方国家であるロシアは伝統的に不凍港を求めてきた。その最たる拠点がクリミアにあるセバストポリだった。
ソ連崩壊後、ロシアは艦隊が駐留するための基地をウクライナから貸与されてきたが、ウクライナによって外交の駆け引きに使われてきた。編入を果たすことで懸案を一気に取り除きたかったのだろう。
クリミアでの動きに刺激を受けたドンバスの2州でも抗議活動が活発になり、ウクライナからの分離独立を求めるようになった。新政府との対立はやがて武装闘争に発展し、内戦状態に陥った。
両州の分離独立派(親ロシア派)は2014年5月、ウクライナからの事実上の独立を問う「住民投票」を実施。賛成が多数を占めたとして、それぞれ勝手に独立を宣言した。その上で両州からなる国家を自称した。
その後もウクライナ政府軍と分離独立派の戦闘は続き、分離独立派に対してロシア側から物資や武器の支援もあった。ロシアは正式に国家として承認はしていないものの、「後ろ盾」としての姿勢を鮮明にした。
ウクライナ政府は「伝家の宝刀」を抜くことになる。
ロシアが最も嫌っているNATO加盟に向けた動きだ。すでに述べたとおり、ロシアにとっての最大の脅威は、隣接する旧ソ連の国々がNATOに入ることだ。
ヤヌコビッチ氏亡命以降、大統領に就任したポロシェンコ氏に続き、現大統領のゼレンスキー氏もNATO加盟を表明している。
すべに述べたとおり、ロシアが自国の「勢力圏」と位置づける旧ソ連諸国のNATO加盟は絶対に容認できない立場だ。10万人規模の軍部隊を動員しているのもその表れと言えるだろう。
もちろん、かつて同じ国家を構成していたからと言って、ウクライナとロシアは別の国だ。主権国家の判断に他国が口出しする権利はない。内政干渉そのものだ。
だが、そんな国際法の原則でさえロシアに響かない。アメリカのバイデン大統領は経済制裁をちらつかせるが、「越えてはならない一線」と一貫して主張してきたプーチン氏は動じないだろう。
欧米にも責任はある。冷戦終了後、ロシアと協調すると言っておきながら、NATOの東方拡大を進めてきたからだ。
彼らのダブルスタンダード(二重基準)も問題だ。
ユーゴスラビア解体の過程で、セルビア領内にあったコソボが独自に住民投票をへて独立宣言をしたとき、NATOは国連を無視する形で軍事介入し、セルビア側を空爆した。
コソボのケースは認め、クリミアでは認めなかったのはなぜなのか。
プーチン氏は編入を認める宣言をした際、次のように疑問を投げかけている。
「なぜコソボはよくて、クリミアではだめなのか。人的犠牲が出るところまでいかなければ認められないのか。驚くべき原始的な皮肉だ」
ウクライナ国境近くに軍を集結させているプーチン氏は、クリミアのケースから考えても本気だろう。
「はったり」などではなく、武力衝突すら辞さない覚悟だ、と筆者はみている。
ひるがえって欧米には果たして同じような覚悟があるだろうか。プーチン氏に見透かされているような気がしてならない。