11世紀のキエフ・ルーシ公国以来の聖ソフィア大聖堂(1)の前に、17世紀のコサックの英雄フメリニツキーの像が立つ。干渉を強める当時の大国ポーランドに反乱を起こしたが、その死後キエフを含むウクライナの東半分が今度はロシアに併合されてしまう。ロシア革命はそれ以来の独立の好機だったが、勝ったのは赤軍だ。
キエフは起伏に富んだ街だ。ブルガーコフが20世紀初めに暮らした家(2)は観光客でにぎわう「アンドレイ坂」にある。坂を下ると、ドニプロ(ドニエプル)川沿いの下町「ポジル地区」に出る。市民の抗議でロシア寄りの政権が倒れた「マイダン(広場)革命」が起きた5年前、私は多くの時間をここで過ごした。
反発したロシアがクリミア半島を併合し、東部でも親ロシア派と政府軍が衝突した、現代の激動の日々だった。
長い空白を経て昨年12月から再び訪れるようになったが、複雑な起伏のせいで今も時折自分が街のどこにいるのか見失う。
思えば、あの時もそうだった。
14年2月、独立広場(3)の市民に治安部隊が断続的な発砲を始めた後で現場に着いた私は、殺気立つバリケードの中で行き場を失った。地元の男性に助け出されて長い坂を上って高台へ。黄金のドームを持つ聖ミハイル修道院(4)脇からレトロなケーブルカー「フニクレール」で独立広場と反対側の急勾配を下りた。広場脇に予約したホテルには近づけず、その場で宿を探すしかなかった。
しばらく滞在するうち、起伏が分けた明暗の歴史にも気づかされた。聖ミハイル修道院や聖ソフィア大聖堂から国立オペラ劇場(5)に至る高台や、反対側の丘にある大統領府(6)周辺は19~20世紀初頭の街並みなのに、二つの丘に挟まれた「谷間」のエリアには剛健な1950年代のソ連式建物群が並ぶ。ナチス・ドイツに占領された第2次大戦時、徹底的に破壊されたためだ。
独立広場は「谷間のエリア」の中心だ。大統領選の不正に市民が抗議した2004年の「オレンジ革命」もここで起きた。ソ連崩壊から28年、民意の振り子は揺れ続ける。評論家のボロディミール・フィセンコ(60)は「我々にはどの世代にもそれぞれの『心のマイダン(広場)』がある」と話す。(喜田尚)
■ルーシ公国を再現
キエフの複雑な地形を知るには、アンドレイ坂の上にあるウクライナ歴史博物館がおすすめ。11~12世紀のキエフ・ルーシ公国を再現した巨大なジオラマで、多数の丘に築かれた当時のキエフを再現してくれる。同じ趣旨のジオラマは、モザイク画、フレスコ画が美しい聖ソフィア大聖堂の中にもある。
■バビ・ヤールの虐殺
キエフにはもう一つ、第2次大戦中に惨劇の歴史が刻まれた場所がある。1941年9月、わずか2日でユダヤ人の市民ら3万3000人超が銃殺された北部のバビ・ヤール渓谷だ。アウシュビッツなどで後に起きるホロコーストに道を開いた。今は広大な公園に整備され、ソ連崩壊後は世界各地の団体が慰霊碑を置くようになった。憩いの場であり、祈りの場でもある。
■ソ連を席巻した銘菓
ドニプロ川に浮かぶはしけの上のレストラン「フトレツィ・ナ・ドニプリ」(ドニプロ川の上の集落)(7)が評判と聞いて出かけた。夕日に染まる中州の森を眺めながらウクライナ料理を楽しんだあと、同行の知人がすすめたデザートは「キエフケーキ」。1950年代に地元の国立製菓工場で考案され、ソ連全体に広がった。
ナッツ、クリームを練り込んで何層にもなった生地が特徴で、とても甘い。だが、最大の特徴はカリカリとしたナッツの食感だ。工場で職員が生地のために用意した卵白を固まらせてしまい、失敗を隠そうとナッツを入れることを考えついた─という伝説もあるそうだ。
工場はソ連崩壊後、製菓業で財をなした前大統領ポロシェンコの企業グループ傘下に。レストランのケーキはしゃれた感じだったが、店頭販売の品は色とりどりの菓子がのったレトロな外観だ。歴史の曲折を経ながら定番の地位を保つところが「キエフ」の名にふさわしい。