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【ウクライナの女たち①】紛争取材で出会った彼女たち、今どこに 確かめる旅に出た 

ウクライナの女たち 更新日: 公開日:
パリ郊外のアパートで愛猫ソーニャを抱くエリーナ・マノイロ。ウクライナ語で「眠たい子」という言葉に似た響きだ=2020年2月、渡辺志帆撮影

■【エリーナ・マノイロ】脱出を最後に別れた仲間、今パリにいた

2014年5月26日、ウクライナ東部の中核都市ドネツクのホテルの一室。市中の取材から戻ってきた同僚記者が切羽詰まった声で放った言葉に背筋がすっと冷えた。「ここも危ない、早く逃げましょう!」

その日、ドネツク奪還をめざすウクライナ政府軍が、親ロシア派武装勢力に占拠された空港に空爆を始めた。同じ頃、鉄道のターミナル駅では銃撃が発生。幹線道路のいたる所で武装勢力の検問が敷かれた。「都市封鎖されて脱出できなくなる前に」と、私たち取材班6人は翌朝、定員5人のワゴン車にぎゅうぎゅうに乗り込み、載り切らない荷物を捨て、幹線道路を避けながら6時間かけて安全な隣の州へ。まさに、逃げるような「退却」だった。

そんなドネツクで、脱出直前まで英語の通訳助手を務めてくれたのがエリーナ・マノイロ。ドネツク大学で国際政治を学ぶ21歳の学生だった彼女は、正義感が強く、長い黒髪とつぶらな瞳で、ウクライナへの愛国心や、ロシアへの怒りを力強く語った。脱出の直前、ドネツク中心部の自宅アパートまで車で送り届け、「無事でいてね」と手を振ったのが最後に見た姿だった。

6年ぶりにやりとりしたメールの返事に驚いた。フランスに暮らし、14年夏から一度もドネツクに帰っていないという。

■「帰れば捕まる」母と突然の別れ

反政権派が陣取るキエフ中心部の独立広場。襲撃してきた治安部隊との攻防で前線のバリケード周辺が黒煙に包まれた=2014年2月20日午前9時ごろ、西村大輔撮影

今年2月下旬、新型コロナウイルスの脅威が忍び寄るパリ郊外の宿に私を迎えに来てくれたエリーナは27歳になっていた。流行の大きめに輪郭を取った唇と、カールさせた長いつけまつげ。かつてのあどけなさはない。メトロの駅から徒歩5分の閑静な住宅街にあるアパートは、こまやかに整えられていた。異国でゼロから築き上げた歳月が詰まった部屋で、彼女はゆっくりと話し始めた。故郷ドネツクや家族との別れは、突然だった。パリの大学院進学が決まっていた14年夏、卒業旅行先のトルコに母オレーナ(49)が慌てた声で電話してきた。「帰って来ちゃだめ」。エリーナが親ロシア派のブラックリストに載っていて、検問を通れば捕まる――。

知人から、そう忠告されたというのだ。心当たりはあった。数カ月前、エリーナは週末になれば友人と街に繰り出し、青と黄のウクライナ国旗を掲げて祖国の統合を訴えた。ウクライナ独立の2年後にドネツクで生まれた彼女にとって自然な思いからだったが、東部はもともとロシア系住民が多い地域。妨害は激しく、生卵を投げつけられた。エリーナはドネツクには戻らず、ウクライナ南部の町を経由してパリに旅立った。それきり、故郷には帰れていない。

■故郷では「自分らしく生きられない」

パリ郊外で6年ぶりに再会したエレーナ・マノイロ=2020年2月、渡辺志帆撮影

「帰るふるさとは、もうない」。そう覚悟を決め、エリーナはパリに根を張った。食費を切り詰め、子守のアルバイトをしながら、パリの大学院で行政法と外国人法の修士号をとった。17年前に夫を病気で亡くし、トラック運転手などで家計を支えてきた母オレーナも仕送りを続け、娘を支えた。「一人娘を手元に置いておきたかったけれど、愛国心が人一倍強い娘は、外国で暮らした方が安全だと考えた」

国際機関への就職を目指したエリーナだったが、うまくいかなかった。そんな時、フェイスブックに趣味で開設していた「法律相談室」に、ウクライナやロシアからの移民手続きに関する質問が増えているのに気づいた。エリーナと同じくウクライナ危機で祖国を離れた人々がEUに滞在できる条件となる3~5年が過ぎて、移民申請のラッシュが始まっていた。「これだ」と相談業務や書類作成の代行を始めると、ロシア語やウクライナ語が話せるエリーナは引く手あまたに。昨年、事務所も開設した。「朝8時から夜8時まで週6日働くこともある。評判を落とすわけにいかないから書類にミスがないように、集中しないと」

フランスには、正規の在留資格を持たないため低賃金の仕事しかできずに生活に困窮しているウクライナ人もいる。エリーナは彼らを助けるボランティアにも参加している。

パリでウクライナ支持とロシア批判のデモに参加したエリーナ・マノイロ=2015年ごろ撮影、本人提供

月に1度、自宅からメトロで20分ほどのシュヴァルレ駅に出かける。高架の下はパリとウクライナ各地を結ぶ長距離バスや輸送サービスの発着地で、ウクライナ産の瓶詰め野菜や魚の干物、菓子が大量に並ぶ。ここから母にフランスのチョコレートや化粧品を送っている。母から届く荷物を受け取ることもある。ただ、新型コロナウイルスの感染拡大で国境が封鎖され、4月の母の誕生日をパリで祝う計画は立ち消えてしまった。

ウクライナが恋しくない? 私が尋ねると、エリーナはきっぱりと言った。「祖国は恋しい。でも、人生もキャリアもフランスにある。昔と変わってしまったドネツクには、もう帰りたくない」

昨春、フランス国籍を申請した。取得すれば祖国の国籍は失うけれど、悔いはない。「ウクライナに戻っても自分らしく生きることはできないから」。そう言って見つめたのは、学生時代の子守をきっかけに親しくなり、いまや後見人になったフランス人の子どもがほほ笑む写真だった。「近所の商店街を歩くと、知り合いに会わない日はないのよ」

6年をかけて必死に根付いた新しい居場所。そこに、いつか母を呼び寄せて一緒に暮らす。それが、いまのエリーナが考える「幸せ」のかたちだ。

【アントニダ・メルニコヴァ】「幸せ? 探しておくね」

エリーナと別れ、私が次に向かったのは、ウクライナ東部の町リシチャンスク。現在は政府の統治下だが、親ロシア派の支配地域との境界にほど近いこの町を訪れたのは、アントニダ・メルニコヴァ(63)という女性に再会するためだった。

紛争のさなか、14年5月25日に行われたウクライナ大統領選挙。当時、町の選挙管理委員長だったアントニダに初めて会ったのは、投票の1週間前だった。大統領選を阻止しようと親ロシア派武装勢力が圧力を強める中で、なんとか選挙を遂行しようとしていた彼女は、襲撃に備えて白いスニーカーを履き、「ここは私たちの町。無法者に委ねることはできない」と気丈に語っていた。数日後、「武装勢力が事務所に押し入って、選挙資材を奪ってしまった」と電話で泣いて訴えてきた時は驚いたが、私にはどうすることもできなかった。結局、武装勢力に占拠されたリシチャンスクを含む東部の町で投票は行われず、連絡が途絶えた彼女の安否も気になっていた。

ウクライナ東部リシチャンスクの選挙管理委員長だった当時のアントニダ・メルニコヴァ。襲撃に備えてスニーカーを履き、身の安全を理由に写真撮影は後ろ姿で応じた=2014年5月、渡辺志帆撮影

今年3月、ショッピングモールのカフェに現れたアントニダは、明るいオレンジ色に染めた髪と、首に巻いた虹色のスカーフが鮮やかだった。「あれからずいぶん太っちゃって」。6年前は「狙われるから」と写真撮影を拒んだが、今回はカメラに穏やかな笑顔を向けてくれた。法律家として、いまは企業や政党向けの法律相談の仕事をしているという。

■処刑寸前、イチかバチかの賭け

6年前、アントニダの身に起きたことは、私の想像を超えていた。

投票日前日、路上で複数の親ロシア派の男たちに取り囲まれて殴られ、車で郊外のガラス製造工場に連れ込まれた。選管の公印を奪うためだった。長い時間待たされた後、「尋問はない。お前を撃つ」と宣告され、鍵のかかった「処刑室」の前へ連れて行かれた。「殺される」と思ったアントニダは、男たちがロシア正教の教会の前で十字を切っていた姿を思い出し、とっさに「私も信者だから助けて」とでまかせを言った。実際は、その教会の聖職者と面識があっただけ。イチかバチかの賭けだった。男たちが確認の電話をする。電話口の向こうで、聖職者が「確かにうちの信者だ」と言ってくれたことで、男たちは処刑を取りやめた。「私を生かすメリットがあると思ったのか。それとも、ただ良心のある人だったのかもしれない」

解放された時、男の一人に性的暴行を受けそうになった。別の男が「命令にないことはするな」と止めて事なきを得たが、恐怖で3日間、家に戻れなかった。 彼女の話を聞いている間、カフェの後ろのテーブルで、子どもの誕生日パーティーが開かれていた。春の到来を祝う伝統の日で、町はお祭りムード。平和が戻ったみたいね?そう尋ねると、アントニダは首を横に振った。町の25キロ南には親ロシア派との停戦ラインがあり、今も散発的に戦闘が起きて銃声が響く。拉致に関わった男たちは刑事罰にも問われず、タクシー運転手などとして、いまもこの町に暮らしているという。

虹色のスカーフを巻いたアントニダ・メルニコヴァ=2020年3月、ウクライナ東部リシチャンスク、渡辺志帆撮影

■「墓場」のような町で武器を取る人々

「10代の頃は、ここで恋人とダンスを楽しんだのよ」。アントニダがソ連時代からの娯楽施設だった建物に連れて行ってくれた。神殿風のファサードを彩っていた青いタイルははがれ、辺りにはゴミが散乱している。ずっと前に閉鎖されて野ざらしになっていたのが、戦闘でさらに傷んだ。それでもアントニダにとっては、甘酸っぱい思い出の場所だ。

炭鉱地帯にあるリシチャンスクはソ連時代、工業の中核都市として栄えた。ソ連崩壊後に工場が次々に閉鎖され、国有炭鉱も半減した。寂れた町に失業者やホームレスがあふれ、アルコールや薬物依存も深刻だ。そこに紛争が追い打ちをかけた。仕事を求めて、敵対する隣国ロシアへ出稼ぎに行く住民も多い。バス代はキエフに出るより安いのだという。

「この町は墓場のよう。こんな景色の中で育って、どんな将来の夢を描ける? 政府が憎いというのではなく、こんな暮らしは嫌だという思いが、人々に武器を取らせたのだと思う」

リシチャンスクの職業安定所だった建物を背に立つアントニダ・メルニコヴァ。政府軍と親ロシア派の戦闘で激しく損傷したまま放置されていた=2020年3月、ウクライナ東部、渡辺志帆撮影

アントニダはウラル山脈ふもとの旧ソ連(現ロシア)の都市ペルミ生まれ。3歳の時に家族でウクライナに越してきた。キエフ国際社会学研究所によると、東部地域では8割以上がロシア語を母語とするが、彼女はこの6年間封印している。「ロシア語を話す人をロシアは守る」と言うプーチン大統領に反発してのことだ。それでも、町を離れるつもりはない。20年以上前に離婚した前夫に今も食料や薬を差し入れている。元炭鉱夫で、1986年に爆発事故を起こしたチェルノブイリ原発の解体作業に携わった後、心臓発作を繰り返して身体障害者になった。近くに暮らす40代の一人息子は、石油精製プラントの技師の職を失って久しい。「ウクライナ人は家族を見捨てないのよ。私のモットーでもあるの」

別れ際、アントニダに思い切って尋ねた。幸せって、なんだと思う? 「家族が健康で、将来に展望が抱けること。今はどちらもないけれど……。今度会うときまでに探しておくね」。そう言って、私を強く抱きしめてくれた。(つづく)

【次の記事】ウクライナ危機では、多くの人がふるさとを離れ、避難や転居を余儀なくされました。その中には、旧ソ連時代の1986年に起きたチェルノブイリ原発事故で故郷を失った人もいました。

【ウクライナの女たち②】私はふるさとを2度失った チェルノブイリと紛争