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クリミア併合とは何だったのか? 驚天動地の事件を再考する

迷宮ロシアをさまよう
ロシア人には、クリミア、特にセバストポリは、祖先たちが血を流して獲得し守ってきた領土だという意識が強い。この写真は、英・仏・土とのクリミア戦争の「セバストポリ攻囲戦」を記念する碑。トルストイはこの戦いへの参加の経験をもとに『セバストポリ物語』を書いた(以下すべて2012年10月に服部倫卓撮影)。
ロシア人には、クリミア、特にセバストポリは、祖先たちが血を流して獲得し守ってきた領土だという意識が強い。この写真は、英・仏・土とのクリミア戦争の「セバストポリ攻囲戦」を記念する碑。トルストイはこの戦いへの参加の経験をもとに『セバストポリ物語』を書いた(以下すべて2012年10月に服部倫卓撮影)。

ウクライナの蹉跌

前回のエッセイで述べたように、筆者は2012年10月にウクライナ領クリミアを訪問し、ロシアによる併合前夜の現地事情を観察する機会に恵まれました。確かに、軍港都市セバストポリなどは完全にロシアの租借地といった雰囲気でしたが、クリミア全体として見てみれば、ウクライナ国家への帰属意識はそれなりに定着しているように感じられました。それだけに、2014年2月下旬のウクライナ政変を受け、クリミア情勢が急変し、ロシアによる併合に繋がっていったことは、個人的に予期せぬ展開でした。

ちなみに、首都キエフが反政府デモで騒然とする中、2014年2月8~18日にウクライナ全土で実施された世論調査結果があります。その中に、「ロシアとの間でどんな国家間関係を望みますか?」という設問がありました。その質問に対し、「ロシアと1つの国に統合されたい」と答えた回答者の比率は、ウクライナ全体では12.5%でした。地域別に見ると、ロシアとの統合を望む声は、やはりクリミアで最も多く、41.0%がそれを望んでいるという数字が出ました。非常に多いことは事実ですが、筆者はむしろ、この時点ではまだ、対ロシア統合支持が過半数ではなかったという事実を重視したいと思います。

様相を一変させたのは、やはり首都キエフにおける政変劇でした。2014年2月22日のヤヌコービチ大統領逃亡でクライマックスを迎えた政変は、当初は「ユーロマイダン革命」と呼ばれ、またその後ウクライナ本国では「尊厳革命」と名付けられ美化されています。筆者は、国家を食い物にしたヤヌコービチ大統領への怒りから国民が立ち上がったのは当然だと思いますし、彼らの多くが掲げていたヨーロッパ統合への参入という理念も尊重します。

しかし、方法に問題がありました。曲がりなりにもヤヌコービチは選挙で選ばれた合法的な大統領であり、ウクライナの特定の地盤(クリミアもその1つ)、支持基盤を代表していました。反政府デモを受け、ヤヌコービチ政権側も譲歩の姿勢を示していましたし、そもそも大統領の任期はあと1年しか残っていませんでした。交渉で当面の妥協を図り、しかるのちに、ウクライナの進むべき道は1年後の選挙で決着を着けるといったことは、できなかったのでしょうか? 実際には、反政府勢力の一部が尖鋭化し、激しいデモでヤヌコービチ政権を追い詰めて、体制を暴力的に打倒することが自己目的になってしまいました。このようなやり方は、国民統合にとってマイナスでしかありません。

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これはセバストポリに駐屯していたウクライナ海軍の水兵。クリミアの帰属が焦点になるさなか、2014年3月1日に、当地のウクライナ海軍はロシア側に寝返ってしまった。

ウクライナ・ロシアの双方に非があった

そして問題は、2014年の政変の過程で、過激かつ暴力的な右派勢力が台頭し、彼らの民族主義的な主張がウクライナの時代精神のようになってしまったことです。一般的に国民国家というものは、シビック(市民的)、エスニック(民族的)という2つの類型に大別されます。1991年に、多くのロシア系住民も含め、ウクライナ住民の圧倒的多数がウクライナ独立に賛成したのは、まさに前者が重視された結果でした。つまり、民族や言語にかかわりなく、皆がウクライナという場で権利を享受し幸福を希求できるというコンセンサスがあったはずです。

ところが、ウクライナ独立後の四半世紀の間に、言語政策や歴史認識などでエスノナショナリズムが強まっていき、ロシア系住民は肩身の狭い思いをするようになりました。そして、2014年2月の政変で、エスノナショナリズムが最終的に勝利したような格好になってしまったわけです。クリミアの人々にしてみれば、まったくあずかり知らないところで、ウクライナのありようが勝手に決められてしまい、自分たちが二級市民に転落したような感覚を抱いたことでしょう。クリミアの人々が「ウクライナ」に見切りをつけた瞬間でした。

ここで、ウクライナとクリミアの情勢を注視していたロシアが動きます。2014年2月27日、クリミア自治共和国では、議会が武装集団によって取り囲まれる騒然とした状況の中で、親ロシア派のアクショーノフが自治共和国の新首相に任命されました(このあたりは、完全にキエフの政変のしっぺ返しです)。それとほぼ時を同じくして、ロシア軍と見られる集団がクリミアに展開。3月1日にプーチン・ロシア大統領は、ロシア系住民の保護を理由に、ウクライナへのロシア軍投入の承認を上院に求め、上院はこれを全会一致で承認。さらに、3月6日にクリミア議会はロシア連邦に加入する方針を決定し、クリミアの国家的帰属を問う住民投票を3月16日に実施することを決めました。

投票の結果、クリミア自治共和国では96.8%が、セバストポリ市では95.6%がロシア編入に賛成。この結果を受け、ロシアはクリミア、セバストポリとそれぞれ編入に関する条約に調印し、条約は4月1日に発効しました。

2014年3月16日の住民投票は、ロシアの息のかかったものですので、投票結果が一部改竄された可能性がないとは言えません。しかし、この時点では、もうクリミア住民の心は完全にロシアに傾いていたことは事実でしょう。プーチン大統領は、ロシアのクリミア編入は、国連憲章で認められたクリミア住民の民族自決に則って行われたものだと述べ、それを正当化しています。

プーチンの主張は、一見するともっともらしいものの、良く考えると無理があります。一般的に民族自決というものは、ある民族が重大な迫害を長期間にわたり被ってきたような場合に、その権利が認めらます。しかし、クリミアのロシア系住民の場合は、つい最近までウクライナ市民として特に不自由もなく生きていました。中央の政変を受け、クリミア住民のウクライナへの帰属意識が一気に薄らいだといっても、そうした短期的な住民感情の変化に付け込んで、隣国がその領土を編入していいはずがありません。ましてや、1997年の友好・協力・パートナーシップ条約で、ロシアとウクライナはお互いの領土保全と国境線の不可侵を約束し合っていたわけですから、一方的な併合は論外と言わざるをえません。

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セバストポリにあるロシアの女帝エカテリーナ2世の像。オスマントルコに勝利してクリミアを獲得した君主。

着々と支配を進めるロシア

ロシアは、自らの意に沿わない周辺国の動きを阻止するために、その国の少数民族地域などにテコ入れし、本国から引き離して揺さぶりをかけるということを、繰り返してきました。ただ、そうした地域が独立国として国際社会から認められることはないので、「未承認国家」という宙ぶらりんの状態が、長く続くことになります。ロシアにとっては、あくまでも揺さぶりの手段ですので、ロシアがそうした地域を自国領として編入することもありません。

クリミアは、それとは似て非なる運命をたどりました。ロシアは、宗教・歴史・文化の聖地であり、地政学的な価値もきわめて高いクリミアに限っては、速やかに自国の領土として編入する道を選んだからです。かくして、ウクライナのクリミア自治共和国は、ロシア連邦のクリミア共和国となり、セバストポリ市とともに、現在はロシアの南連邦管区に属しています(ただし、国際的な承認は得られていない)。

この間、ロシア当局が全力を挙げてきたのは、クリミアの経済・産業を振興し、インフラを整備してロシア本土と連結し、住民の生活水準をロシアと同等のレベルまで引き上げることです。それを達成するため、ロシア連邦政府は2014年8月、「2020年までのクリミア・セバストポリ社会経済発展連邦特定プログラム」を採択、8,370億ルーブル(現在のレートで換算すると1.4兆円ほど)の予算を計上しました。

一連のインフラ整備の中でも、最大の目玉は、「クリミア橋」の建設です。これは、ロシア本土とクリミア半島を隔てるケルチ海峡に架けられる鉄道・自動車道兼用の橋であり、総工費は2,279億ルーブル(3,700億円ほど)。橋の総延長は19キロメートルであり、これはロシアだけでなくヨーロッパ全体でも最長となります。

本年5月15日、まず橋の自動車道路部分が完成し、プーチン大統領も駆け付けて開通式が行われました。道路部分の開通は、当初2018年12月と言われていたので、半年あまりも前倒ししたことになります。ロシアによるクリミアの実効支配が、また一歩進んだ形になりました。

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第二次大戦末期、米英ソ3巨頭によるヤルタ会談が行われたリバディア宮殿。ヤルタはクリミアを代表する海岸保養地。