実は、プーチン大統領は節目節目で「論文」を発表する人である。もちろんそれは学術的な意味での論文ではないが、プーチン氏の政見がうかがえるという意味で興味深くはある。
その嚆矢(こうし)となったのが、まだ首相だった1999年12月30日に発表した「千年紀の狭間におけるロシア」という論文だった。
その翌日、エリツィン大統領が電撃的に辞任し、プーチン氏は大統領代行に就任して、名実ともにロシアの最高権力者となったわけである。
2012年3月の大統領選挙前には「論文攻勢」を仕掛けたこともあった。2012年に入ると、プーチン首相(当時)は実質的に自らの選挙綱領に相当する一連の論文を新聞紙上で次々と発表した。週1本のペースで発表された論文は計7本に上った。
このように、何か事を起そうという時にまず「論文」を発表して、自らのビジョンを示して見せるというのがプーチン流なのである。
そして、このほど新たなプーチン論文が登場した。大統領の署名による「ロシア人とウクライナ人の歴史的一体性について」というタイトルで、2021年7月12日付でクレムリンHPに掲載された。
ちなみに、ウクライナ国民の感情に配慮して、ロシア語に加え、ウクライナ語のテキストも添えられている。
以下では、論文の主要点を抄訳してみることにする。
近年、ロシアとウクライナの間に出現した壁を、私は大きな共通の不幸、悲劇として認識している。それは、様々な時期に我々自身が犯した過ちの結果ではある。
しかし、我々の統一性を常に損ねようとしてきた勢力が意図的にもたらした結果でもあった。
今日のウクライナは、完全にソ連時代の産物である。ウクライナは多分に、「歴史的なロシア」を損なう形で形成された。「歴史的なロシア」は、ソビエト政権の下で、実質的に簒奪されたのである。
ウクライナ人が独立した民族だという概念を強化する上で決定的な役割を果たしたのは、ソ連当局だった。
まさにソ連の民族政策によって、大ロシア人、小ロシア人、白ロシア人からなる三位一体のロシア民族に代わり、ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人という3つの個別のスラヴ民族が、国家レベルで固定化されたのである。
ソ連が崩壊した時、新生ロシアは新たな地政学的現実を受け入れた。それのみならず、ウクライナが独立国としてやっていけるよう、困難な1990年代にも、2000年以降も、ウクライナに巨額の支援を行ってきた。
1991~2013年に、天然ガスの値引きだけでも、ウクライナの国庫は820億ドル以上を節約できた。ウクライナ当局は、今日でもロシアから年間15億ドルのガス・トランジット収入を得ることに汲々(きゅうきゅう)としている。
ロシアとの正常な経済関係が維持されれば、ウクライナはその経済効果で年間数百億ドルを期待できたはずなのだが。
ウクライナとロシアは、数十年、数百年と、単一の経済システムとして発展してきた。30年前の協力関係の深さはEU諸国が羨むほどのものだった。
両国は、自然かつ補完的な経済パートナーである。緊密な関係は、お互いの競争力を強化し、両国の潜在能力を数倍にも発揮することを可能とする。
ウクライナには、大きな経済的ポテンシャルがあった。ソ連から遺産を継承したウクライナの指導者たちは「ウクライナの経済はヨーロッパでトップレベルになり、国民は最も高い生活水準を享受できるようになる」と約束した。
ところが、かつてウクライナとソ連全体が誇りとしたハイテク巨大企業は、今日では休眠している。過去10年間で機械産業の生産は42%減少した。過去30年間で発電量がほぼ半減していることからも、工業の衰退と経済全体の劣化の程がうかがえる。
IMFによると、2019年のウクライナの一人当たりGDPは4,000ドルを下回っており、ウクライナは欧州最貧国となっている。こうした状況に責任があるのはウクライナ国民ではなく、権力者である。
ウクライナは欧米によって危険な地政学的ゲームに引き込まれていった。その目的はウクライナをヨーロッパとロシアを隔てる障壁にし、またロシアに対する橋頭堡にすることだった。
ウクライナには、ロシアとの提携を支持する人々が数百万人もいるが、彼らは自分たちの立場を守る法的な機会を実質的に奪われている。彼らは脅迫され、地下に追いやられている。 ロシアはウクライナとの対話に前向きで、複雑な問題を議論する用意がある。
私は、ウクライナの真の主権はロシアとのパートナーシップによってのみ可能であると確信している。ともにあれば、これまでも、そしてこれからも、何倍も強く、成功するはずだ。結局、我々は一つの民族なのだから。ロシア大統領府公式サイト
以上、プーチン大統領の名義で7月12日に発表されたウクライナ論文の主な内容を抄訳してみた。
むろん、紹介したからと言って、筆者がプーチン氏の論旨に賛同しているということではない。部分的に正論が散見されないでもないが、全体として独善的としか言いようのない主張である。また、特に新味があるわけでもなく、以前から披瀝(ひれき)していた歴史観・世界観に沿ったものとなっている。
論文の中でプーチン氏は、ロシア人とは異なるウクライナ人の民族的独自性を否定するようなことを述べている。ただ、プーチン氏は以前もそのような主張を唱えていた。
さらに言えば、ロシア人という包括的な民族があり、大ロシア人、小ロシア人、白ロシア人の三つはその支族であったという定式は、ロシアにおける伝統的な民族観を踏襲したものに過ぎないとも言える。
ちなみに、だいぶ古いデータになるものの、2010年に行われた意識調査によると、ロシア人とウクライナ人が単一の民族だと認識しているのは、ロシア側では47.1%、ウクライナ側では48.3%だったという。
したがって、今回プーチン氏がロシア人とウクライナ人がもともとは民族的に同一と述べたからと言って、特別新奇な問題発言というわけではない。
しかし、ウクライナでも時代とともに独自の民族理念が浸透し、2014年の政変以降はそれがさらに強まっている。
ウクライナ領クリミアを一方的に併合し、東ウクライナ・ドンバス地方に戦乱をもたらした張本人のプーチン氏が、ロシア人とウクライナ人は同一民族というようなことを述べれば、多くのウクライナ国民が不快に感じるのは必至と思われる。
そもそも、プーチン氏はなぜこのタイミングで、確実に物議をかもすであろう論文を発表したのだろうか。筆者は現地の論調をざっと眺めてみたが、あまり納得の行くような解説には出会えなかった。
ロシアの専門家による分析の中で、筆者がある程度合点が行ったのは、確かにプーチンは今回ロシア人とウクライナ人の民族的一体性を強調してみせたが、だからと言ってそれを根拠にプーチン政権がウクライナに対し、新たに侵略的な政策を発動することは考えにくいという指摘であった。
今年に入ってから、ロシアが対ウクライナ国境に兵力を集結させるなどして、ドンバス情勢が緊迫化した経緯があった。
しかし、強硬姿勢が思うような効果を挙げなかったため、プーチン政権としては対ウクライナおよびドンバス政策を仕切り直そうとしており、その一環として「論文」という形でロシアの立場を改めて明確化しておくことにした。プーチン氏の思惑はそんなところではないだろうか。
筆者がリサーチした限り、今回のプーチン論文をウクライナ国民がどのように受け止めているかを調べた世論調査の類は、まだ発表されていないようである。
したがって、ウクライナ国民の反応については推測するしかないが、筆者が見るところ、プーチン論文がウクライナ国民の意識を大きく変えることはないのではなかろうか。ウクライナの人々は、プーチン体制のロシアに対する態度を、すでに固めているからである。
ウクライナ国民の多数派は、2014年にプーチン政権が行ったクリミア併合・ドンバス介入という仕打ちを許していない。今さら、プーチン氏がロシア人とウクライナ人の民族的一体性をアピールしたところで、「なるほど、ではロシアをパートナーに選ぼう」ということにはならない。
もちろん、プーチン論文はロシア国民の琴線には触れるところがあり、プーチン政権が対ウクライナ政策を国内向けに正当化するという意味はあるだろう。
また、ウクライナにも少数派ながら、親ロシア的な価値観の人々も一定数おり、そういう人たちは「プーチンさん、よくぞ言ってくれた」と感謝するかもしれない。
ちなみに、プーチン論文へのコメントを求められたゼレンスキー・ウクライナ大統領は、ロシアの我が国に対する態度は真に兄弟的なものとは言えず、むしろ「カインとアベルの関係を思わせる」と指摘した。
カインとアベルは、旧約聖書に登場するアダムとイヴの息子たちのことであり、兄がカイン、弟がアベルである。旧約聖書によれば、カインがアベルを殺してしまい、これが人類初の殺人で、さらにそのことについてカインが白を切ろうとしたことが、人類初の嘘であったとされている。