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旧ソ連を震撼させたアフガニスタン 侵攻失敗、帰還兵はPTSD…そして国家崩壊

迷宮ロシアをさまよう 更新日: 公開日:
旧ソ連軍のアフガニスタン侵攻(1979~1989年)で死亡した兵士の遺影を掲げるベラルーシ兵。撤退から丸11年を迎えた=2000年2月15日、ミンスク、ロイター
旧ソ連軍のアフガニスタン侵攻(1979~1989年)で死亡した兵士の遺影を掲げるベラルーシ兵。撤退から丸11年を迎えた=2000年2月15日、ミンスク、ロイター

ソ連がアフガニスタン介入に踏み切ったのは、戦略的な要衝である同国における共産主義体制を維持することと、イスラム原理主義がソ連にも流入するのを阻むことが目的だったと考えられている。

軍事介入には、ソ連の政権幹部内にも慎重論があった。しかし、最高指導者のブレジネフ書記長は病気がちであり、アンドロポフKGB議長、ウスチノフ国防相、グロムイコ外相らが取り決めた短期介入の方針を追認した。

アメリカ軍機に乗り、カブールからカタールに向けて脱出する約640人のアフガン人=8月15日、ロイター
アメリカ軍機に乗り、カブールからカタールに向けて脱出する約640人のアフガン人=8月15日、ロイター

2014年にプーチン・ロシア大統領がウクライナ領クリミアを決然と併合したのとは異なり、ソ連のアフガン介入決定は、ためらいがちなものだったわけだ。こうして、ソ連軍は1979年12月24日にアフガニスタンに侵攻した。

そして、アフガン侵攻は結果的に大国ソ連が崩壊に向かう大きな転機となった。軍事介入は西側陣営から予想以上に強い非難を浴びた。ソ連は西側から経済制裁を発動され、モスクワ・オリンピックもボイコットを受けた。

東西デタント(緊張緩和)は頓挫し、冷戦が再燃した。1981年1月に成立した保守派の米レーガン政権は「スターウォーズ計画」を推進するなどして軍備を強化。経済が硬直化し行き詰っていたソ連にとって、米国との新たな軍備競争はあまりに重い負担となった。

アフガン侵攻も短期で限定的な作戦という思惑は外れ、長期化・泥沼化していく。10年近くに及んだこの戦争は、ソ連の国家体制を蝕(むしば)み、国の危機を加速した。結局、ソ連軍は1989年2月15日にアフガン撤退を完了するものの、その2年後にソ連は崩壊することになるのである。

さて、ソ連は自らの国益のためにアフガン介入を決めたのだから、それが一因となって国が崩壊したのも、いわば自業自得だろう。問題は、この戦争が社会に残した深い傷である。

アフガン侵攻によるソ連の戦死者は1万5000人ほどだったとされている。このほか、負傷者が5万人あまり、戦地で病気を罹患した者が42万人あまりに上った。

ソ連にとってのアフガン戦争は、米国にとってのベトナム戦争になぞらえられる。山岳地の戦場は兵士にとって過酷なものだった。帰国後も心的外傷後ストレス障害(PTSD)を負い、社会に適応できない者が少なくなかった。

悲惨な戦場を経験した人間がPTSDを患うのは、どんな戦争でも多かれ少なかれ生じることである。しかし、ソ連のアフガン戦争の場合には特殊な事情がある。アフガン撤退直後に、国の価値観も体制も一変してしまったことだ。

高名な物理学者で人権活動家のサハロフ博士は1989年6月に開催されたソ連人民代議員大会で、「アフガニスタンにおける戦争は、犯罪的な冒険主義だった」と断罪した。その時の議場の様子は、まだ賛否が半々という感じであった。

しかし、ソ連人民代議員大会は結局1989年12月に「ソ連軍をアフガニスタンに投入した決定は道徳的・政治的非難に値する」とする決議を採択するのである。侵攻からちょうど10年後の大転換であった。ソ連が崩壊するのは、そのさらに2年後のことだ。

つまり、アフガン帰還兵は、それでなくてもPTSDに苛(さいな)まれがちであるのに、戦争の大義が否定され、そのために戦ったはずの国家すらも崩れ去ってしまい、より一層深い葛藤に苦しむことになったわけである。

周囲から「我々は誰もそんな戦争をしてくれと頼んだ覚えはない」などと言い放たれ、傷ついたアフガン帰還兵も多かったようだ。第二次大戦のナチス・ドイツとの戦争が、「大祖国戦争」として神聖視され、今日に至るまでその従軍者が英雄として扱われているのとは、あまりにも大きな差である。

アフガニスタン侵攻で死亡したソ連兵の民族別割合=ロシアの軍事関連ブログサイトもとに作成
アフガニスタン侵攻で死亡したソ連兵の民族別割合=ロシアの軍事関連ブログサイトもとに作成

ところで、アフガニスタンで戦ったのは、ロシア共和国(今日のロシア連邦)の人々だけではない。ソ連を構成していた他の共和国の人々も戦地に赴いた。上のグラフは、共和国別ではないが民族籍別の戦没者数を示している。

ロシア以外の共和国の人々の場合には、自分たちがソ連の後継国という意識が弱い分、「無益な戦争に駆り出された」というトラウマがより一層強いのではないかと想像する。

また、ソ連はアフガン介入当初、地理的に近い中央アジアの共和国からウズベク人、トルクメン人、タジク人などを主力として投入したという。その結果、上のグラフに見るこれら民族の比率は、ソ連における各民族の人口比よりも高いものとなった。

アフガニスタンの住民を敵に回すことは、イスラム教など文化的な親近性のある中央アジアの人々にとって辛いものだったはずだ。

さて、このようにソ連のアフガニスタン侵攻は、ロシアとその他の旧ソ連諸国に深刻な傷跡を残した。ところが、それと矛盾するような現象がある。ここに来て、ソ連軍のアフガン侵攻は必要だったと考えるロシア国民が増えているのである。

ソ連軍によるアフガニスタン侵攻の必要性を質問したロシアの世論調査の結果=民間の世論調査機関「レヴァダ・センター」のサイトより作成
ソ連軍によるアフガニスタン侵攻の必要性を質問したロシアの世論調査の結果=民間の世論調査機関「レヴァダ・センター」のサイトより作成

ロシアのレヴァダ・センターが実施した世論調査によれば、グラフに見るとおり、ソ連軍のアフガン投入は必要だったという回答者は、2019年12月には25%まで拡大した。不要だったという回答者が依然として過半数に上るものの、見逃せない風向きの変化が生じている。

2019年12月の調査で目立ったのは、意外にも若い世代ほど介入は必要だったと答えていることである。18~24歳の年齢層では、ソ連軍投入が必要だったという回答が31%に上り、全年齢層の中で最も多かった。

ちなみに、2019年にはソ連軍のアフガン侵攻から40周年、撤退から30周年を迎えたわけだが、それに際してロシア政界には気になる動きがあった。連邦議会の下院で、共産党などを中心に1989年のソ連人民代議員大会決議を破棄しようとする試みがあったのである。

もっとも、国際的に物議を醸すことを恐れたのか、この時はロシア外務省が抵抗し、ロシア連邦議会がソ連時代のアフガン侵攻を正当化するようなメッセージを発する事態は回避された。

それではなぜ、ソ連軍のアフガン介入は必要だったと考えるロシア国民が増えているのか?管見によれば、それはやはり、プーチン政権の下でロシア世論が保守化している表れだろう。

とりわけ2014年のウクライナ危機以降は、ロシアは欧米と一線を画す独自の大国として処していくべきだという意識が強まり、それがアフガン戦争についての意見にも反映していると考えられる。

はっきり言って、市井のロシア国民がアフガニスタン問題や冷戦時代の国際政治について詳しく知っているとは思えない。単に「ソ連は米国と互角に渡り合った超大国だった。その国の歩みを否定したくはない」というニュアンスではないかと推察する。

したがって、今現在の泥沼のアフガニスタンにロシアが新たに軍事介入すべきかと問えば、大多数のロシア国民は反対するはずである。

それでも、ロシア国家・社会において、1979~1989年のアフガン戦争の苦い記憶が薄れ、状況によっては他国への軍事介入という手段も否定はしないという風潮が広がっていることは認識しておく必要がある。

アフガン侵攻に参加し、死亡した旧ソ連軍兵士の慰霊碑=ベラルーシ・ミンスク、服部倫卓撮影
アフガン侵攻に参加し、死亡した旧ソ連軍兵士の慰霊碑=ベラルーシ・ミンスク、服部倫卓撮影

■GLOBE+では、過去のアフガニスタン関連記事で紹介したアフガニスタン人留学生の帰国後の安全に配慮し、一部記事の公開を一時的に停止しています。