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捜索進む 第2次大戦の行方不明米兵

ニューヨークタイムズ 世界の話題 更新日: 公開日:
パプアニューギニア沖の海底で見つかった第2次大戦中の米爆撃機B―24の残骸。NPOプロジェクト・リカバーの提供写真=Project Recover via The New York Times/©2018 The New York Times

米軍少尉トーマス・V・ケリーJr.を乗せたB―24爆撃機が撃墜され、現パプアニューギニアの沖合に墜落したのは1944年、第2次世界大戦のさなかだった。息子を失った両親は墓を建て、そこに同機の姿と、「愛するあなたをしのんで」との言葉を刻んだ。
当時21歳。爆撃手だったケリーの遺体は見つかっていない。戦後しばらくの間は、親類の人たちもつらくて口に出せなかった。その一人、ケリーのめいのダイアン・クリスティーは「私の母は、クリスマスソングが流れる時期になっても、聞こうともしませんでした」と当時を振り返った。

ケリーのめいダイアン・クリスティー。カリフォルニア州フォルソムの自宅でケリーの家族のアルバム写真を見ながら、思い出を語ってくれた=2018年5月25日、Talia Herman/©2018 The New York Times


ところが2013年、クリスティーのまたいとこが、ケリーの乗っていた爆撃機に関する情報をウェブサイトで見つけた。それから数年間、親類たちによる保管資料の調査が行われた。そうして最近、ついに海洋学者と考古学者による海底捜索が実施されたのだ。
数週間前のことだった。カリフォルニア州フォルソムに暮らすクリスティーがスーパーで買い物をしていると、携帯が鳴った。彼女の姉妹(sister)からだった。ケリーの爆撃機は「Heaven Can Wait(天国は待ってくれる)」というニックネームで呼ばれていたが、その機体が見つかった、と知らせたのだった。
「ちょうどホールフーズ(チェーンの食品スーパーマーケット)から出て歩いていた時で、思わず涙が出てしまいました」とクリスティー。
爆撃機「天国は待ってくれる」は、米国防総省捕虜・行方不明者調査局(DPAA)の調査に協力している設立6年のNPO、プロジェクト・リカバー(Project Recover)が回収作業に取り組んでいる30機の行方不明機の一つだった。

1943年に撮影された「天国は待ってくれる」=U.S. Army Air Force/Kelly Family via The New York Times/©2018 The New York Times


かつては不可能と考えられていた海底の機体回収だが、最新のソナー(音波探知機)とロボット技術の活用で、かなり簡単に見つかるようになってきた、とプロジェクト・リカバーは言う。
プロジェクト・リカバーに協力してきたNPO、カリフォルニアのベントプロップ・プロジェクト(BentProp Project)の理事長パトリック・スキャノンも「最新技術のおかげで、今後、行方不明者の捜索はどんどん進んでいくだろう」と言った。
米国防総省の資料によると、1973年以降、行方不明の米軍兵士と民間人合わせて2381人の遺骨が収集された。第2次大戦で行方不明となった米軍人は7万2千人以上になるが、同省はこのうち約2万6千人の遺骨は収集されるだろうとしている。
国防総省は、科学捜査技術が進んだことで、行方不明になった米軍人の所在が世界各地で確認されるようになり、その数も増えているとも明かした。
とはいえ、DPAAの女性広報官で陸軍軍曹のクリステン・デュースは、遺骨の確認作業は難しくなる一方だ、と指摘する。DNAサンプルを提供してくれる家族を捜すことが次第に難しくなってきている、というのだ。
「私たちだけの問題ではないのです」と彼女は言った。
行方不明機の捜索にあたって、プロジェクト・リカバーは当時の軍関係者にインタビューしたり記録や衛星画像を分析したりして、場所の特定作業を始める。それから熱探知カメラ、ソナーを装備したロボットなどを駆使して捜索する。ロボットは魚雷のような形をしており、海底をなでるように遊泳しながら目的物を捜し出す。
海底で見つかった遺骨の収集と特定は、国防総省の指揮下で行われる。プロジェクト・リカバーがこれまで見つけた30機のうち27機には計113人が乗っていたとみられる。このうち遺骨が特定され、帰還を果たしたのは今のところ5人の空軍兵士(当時は米陸軍航空軍)だけだ。
爆撃機「天国は待ってくれる」が見つかったのは2017年、パプアニューギニア北部のハンサ湾だった。同湾では第2次大戦中、5機の米軍機が墜落したとされている。

米国内で訓練中のB―24爆撃機「天国は待ってくれる」の前で、搭乗メンバーと記念写真におさまったトーマス・V・ケリーJr.(前列右端)=U.S. Army Air Force/Kelly Family via The New York Times/©2018 The New York Times

B―24に搭乗したケリーについては、第2次大戦における太平洋空域の動きを研究しているオーストラリアの歴史家マイケル・J・クレアリングボールドが次のように語った。
米軍は1944年春、ハンサ湾近郊と同湾から360マイル(約580キロ)北西にある日本軍の飛行場への攻撃作戦に出た。作戦実施に先立って、米軍は日本の艦艇を破壊し、供給路を断つべく一連の妨害作戦を展開した。同年3月11日、ケリーの乗ったB―24も同湾上空から攻撃した。米軍の攻撃で、多くの日本兵はジャングルに逃げ込み、餓死することになった。
ハンサ湾に沈んだケリーのB―24爆撃機の位置をプロジェクト・リカバーが突き止めたのは、クリスティーのまたいとこ、スコット・L・アルトハウスら親族の貢献が大きかった。
アルトハウスはイリノイ大学アーバナ・シャンペーン校の政治学教授。彼によると、親族チームを立ち上げたのは5年前のメモリアルデー(戦没将兵追悼記念日、5月最終月曜日)で、ケリーに関する情報をオンラインで収集し始めた。「それから情報が雪だるま式に増え、正確な位置の確定につながった」とアルトハウス。
彼はクリスティーと3人の親族をメンフィス大学にある第2次世界大戦アーカイブに送った。そこで、彼女らはケリーの爆撃機と、同機に搭乗していた米陸軍航空軍の兵士らに関する800点以上の記録文書を写真に収めた。
アルトハウスは、かつてハンサ湾近くで暮らしていたベルギー人スキューバダイバーにも電話して、爆撃機が墜落したとみられる海底について尋ねた。ダイバーはおおよその場所を語ってくれた。
ただ、アルトハウスたちを駆り立てたのは、機体を見つけ出すことより、ケリーと同機に搭乗していた他の10人の男たちへの敬意だった、と言う。「誰もが家族を持ち未来があるのに、彼らはそれすら持てなかったのだ」とアルトハウス。
ケリーと10人の男たちを乗せた爆撃機は17年10月、ハンサ湾で見つかった。アルトハウスのおばがプロジェクト・リカバーに接触してから1年後だった。
アルトハウスの調査をもとに、プロジェクト・リカバーの科学者たちはソナーやロボットなどで約10平方マイル(約26平方キロメートル)の同湾海底を11日間捜索した。そうして同機の残骸が散らばっている所を見つけ出した。捜索費用がどれほどなのか、同プロジェクトは明かしていないが、理事長のスキャノンは、一般論として大規模な捜索の費用は20万ドル(1ドル=110円換算で2200万円)から40万ドル(同4400万円)と言った。
DPAAのハワイ駐在広報官のケネス・ホフマンにメールで問い合わせたところ、国防総省としては爆撃機「天国は待ってくれる」の11人の搭乗員の遺骨の収集と特定に関しては、まだ決まっていないと述べ、機体を掘り出す場所を選定するだけでも数カ月、いや数年かかるだろう、と明かした。
クリスティーはいま61歳。ケリーの遺骨が家族の元に戻ってくれたらうれしい、と話した。彼女はケリーが戦争中に送って寄こした手紙を読み返しながら、カリフォルニア州リバモアにあるケリーの墓でもいいことがあった、と言った。ケリーと10人の搭乗者の栄誉をたたえて、B―24爆撃機がつい最近の日曜日に3度も上空を旋回し、墓地では追悼セレモニーが行われたのだ。「素晴らしかった」とクリスティーは話した。

米カリフォルニア州リバモアにあるトーマス・V・ケリーJr.の墓。第2次大戦中、爆撃手としてB―24に搭乗、撃墜された=2018年5月24日、Talia Herman/©2018 The New York Times

ケリーの手紙を読むと、爆撃手という任務の厳しさを知っていながらも、楽観的な彼の心情がうかがえた。ある手紙では、書いている最中にこれから1クオート(946ミリリットルのアイスクリームを食べるからちょっと中断するよ、といったことが記されていた。
また、21歳の誕生日直後だった1944年2月1日の手紙には「運よくクリスマスまでに帰れるといいけれど、どうなることやら」と記し、2月29日付には「お母さん、お父さんは元気ですか?……2人ともつまらないことで心配しているのではないですか?」と書いてあった。死は、それから2週間足らずでやってきた。(抄訳)

(Richard Martyn Hemphill) © 2018 The New York Times

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