「必要なのは、武器だ。(脱出用の飛行機の)席じゃない」
ロシアの侵攻直前、アメリカから国外退去支援の申し出があった際、ゼレンスキー氏はこう毅然と断った。ウクライナや民主主義の価値を命がけで守る姿勢を明らかにした瞬間だった。
明快な口調で人を鼓舞する能力は、コメディー俳優やお笑い芸人の経歴も助けになっている。
ウクライナやロシアにも「スタンドアップ」というお笑いの分野がある。ピン芸人がしゃべくりまくるスタイルで、ゼレンスキー氏はそのスターだった。その一方で法学士の学位をもち、外交官を志したこともあったとも言われる。
立候補した2019年の大統領選では、その「話芸」を武器にした。ある会場でスタンドアップ口調で演説し、「泥棒をしない大統領になることはできるかな? そりゃ分からないよ。だって、これまでそうじゃない人はいなかったんだから」と聴衆の笑いを取った。
ウクライナは汚職のはびこる社会だ。筆者はウクライナの一流国立大学を卒業したウクライナ人から、「学士号を授与するのに、学生からわいろを要求する教授がいる」と聞いたことがある。
裁判長が民事裁判で原告側からわいろを受け取り、有利な判決を出す事件も起きた。代々の大統領も大財閥とのつながりが強かった。前大統領のポロシェンコ氏も自身が大金持ち。そこへ政治経験のないゼレンスキー氏が大統領選に立候補した。「人から軽蔑されない、全く新しい人材、良識をもった人材が政治をになうべきだ」と主張した。斬新さと「社会を変えてくれる」との期待から、大統領選の決選投票で73%を獲得する圧勝をおさめた。
ゼレンスキー氏は2015年、テレビドラマ「国民の奉仕者」で大統領役を演じた。歴史の教師が突然、大統領に選出されてしまうというストーリーだったが、それが数年後に現実になり、ウクライナ人も驚かせた。
ゼレンスキー氏はロシア語が優勢なウクライナ中部クリボイ・ロク市で生まれ、ロシア語を話すユダヤ系の家庭で育った。
話芸もロシア語でしゃべった。クレムリン(ロシア大統領府)からはゼレンスキー氏の大統領就任後、ロシアとの関係改善を期待する声さえあがった。
しかし、彼は北大西洋条約機構(NATO)加盟を求める姿勢を次第に鮮明にした。ロシアよりも欧州を選んだ。それが気に入らないロシアは2月24日、ウクライナ侵攻に踏み切った。ゼレンスキー氏は2月28日、対抗措置として欧州連合(EU)に加盟申請した。
President @ZelenskyyUA signed #EU membership application for #Ukraine. This is the choice of 🇺🇦 and Ukrainian people. We more than deserve it. pic.twitter.com/FRhLTfyjvJ
— Denys Shmyhal (@Denys_Shmyhal) February 28, 2022
また、ゼレンスキー氏は、西側がウクライナ上空に、ロシアの航空機の飛行禁止区域を設定し、ミサイルが飛んでこないよう「予防措置」を取るよう呼びかけた。「ウクライナが陥落すれば、ロシア軍がNATO加盟国の国境にやってきて、挑発行為をする。第二の試練がくる」と、その理由を説明した。
キエフに残ることを決心したゼレンスキー氏の武器はソーシャルメディアだ。ロシアの包囲が迫る中、明快なスピーチで国民と西側諸国を団結させた。
「ゼレンスキーが国外へ逃亡した」
開戦2日目の2月25日、そんな偽情報がネット空間で飛び交った。ゼレンスキー大統領は、4人の国家指導者をひきつれ、街頭へ。動画をメッセージアプリ「テレグラム」に公開し、国民に対して次のように呼びかけた。
「みなさん、こんばんは。国の指導者たちはここにいます。大統領府長官もここに。首相もここに。大統領もここにいます。我々の独立を守りましょう。ウクライナに栄光あれ!」
キエフ市内には現在、ロシアの破壊工作員が多数潜入しているとの情報も飛び交う。イギリスのタイムズ紙は2月28日、400人以上のロシアが雇った私兵がゼレンスキー暗殺のためキエフで活動していると報じた。ウクライナ当局は、キエフ市民の夜間外出を禁じ、破壊工作員の拘束作戦を今も続けている。
ゼレンスキー氏は3月1日、国際社会に支援を訴えた。この戦争がウクライナだけでなく、欧州諸国も脅かすのだ、と語った。
「ロシアと言っても国民のことではなく、軍や指導者のことだ。ロシア人の中にも私たちに良くしてくれて、支援してくれる人は大勢いる」 pic.twitter.com/5C9HESyCqw
— ロイター (@ReutersJapan) March 2, 2022
ゼレンスキー氏の力強い弁舌とウクライナ側の情報戦で、ウクライナ国民は大統領のもとに結束した。
一方で、60キロともいわれるロシア軍の戦車、装甲車の車列がじりじりと首都に迫る。悲劇のヒーローとして歴史に名をきざんでしまうのか。民主主義を侵略者から守護した勝利者となるのか。瀬戸際のゼレンスキー氏の運命は、世界各国の支援にかかっている。