バルト三国ってどんな国? ソ連の占領から独立の歴史 各国に占領博物館「継承が重要」
西側がバルト海に面し、北から順にエストニア、ラトビア、リトアニアと並ぶ。人口はそれぞれ約137万人、約188万人、約288万人と、日本の政令指定都市くらいだ。1991年にソ連から独立を承認され、2004年に欧州連合(EU)と北大西洋条約機構(NATO)に加盟した。
「バルト三国」とひとくくりにされがちだが、歴史や国の成り立ちは違う。宗教はエストニアがロシア正教とプロテスタントが多く、ラトビアはプロテスタントやカトリック、ロシア正教、リトアニアは主にカトリックだ。
中世にはデンマークがタリン(今のエストニアの首都)を築き、その後エストニアとラトビアはドイツ騎士団の支配下になる。リトアニアはポーランドと関係が深く、リトアニア・ポーランド王国がつくられた。
18世紀には三国ともにロシア領に編入される。1917年にロシア革命が起こり、1918年に三国は独立を宣言したが、1940年にはソ連邦に加盟させられる。この頃、リトアニアの在カウナス日本領事館に勤めていた杉原千畝がナチス・ドイツに追われたユダヤ人難民らにビザを出し、日本経由で避難させたのは有名な話だ。三国は1941~44年はナチス・ドイツに占領され、1944年からはまたもソ連に占領された。第2次世界大戦とその後の占領による被害は甚大で、シベリアへ強制移住させられた人や、殺害された人は多い。
1989年、三国の人々は三つの首都を620キロにわたって手をつないで結び、独立を訴えた。「人間の鎖」といわれ、1991年のソ連からの独立につながった。
「ソ連時代の苦難の歴史を忘れない」という思いは三国に共通し、すべてに「占領博物館」がある。リトアニアは国が主導し、ソ連時代にKGB(国家保安委員会)の刑務所だった建物を使っている。エストニアとラトビアは民間主導だが、エストニアは別館としてやはりKGBの刑務所を展示している。
エストニアの博物館のマネジャー、エディ・タムキビさん(45)は「エストニアから米国に渡り医師として成功したオルガ・キストラーの寄付で、初めての私立博物館として設立された。歴史の継承は非常に重要。つらい経験をした人の中には語りたがらない人もいるし、ロシアへの態度も世代によってかなり違います」と説明する。
博物館では子どもへの歴史教育にも力を入れている。「最近はネットの偽情報やフェイクニュースが多く、AIが間違いを伝えることもある。見学に来たロシア語話者の小学生が『チャットGPTが、ここはロシアのオリガルヒ(新興財閥)が寄付していると説明した』と言ったんです。そんな事実はないのに」
ウクライナ戦争で状況は複雑になっている。昨年2月の深夜にはラトビアの占領博物館に火炎瓶が投げつけられる事件が起きた。「幸いにして私たちにはそのようなことは起きていませんが、決して他人ごとではないと思っています」