ベラルーシ情勢は相変わらず膠着状態
当連載では、しばらくベラルーシの話題から離れていましたが、今回は約1ヵ月振りにベラルーシを取り上げてみたいと思います。
結論から言えば、その後もベラルーシ情勢は膠着したままです。野党統一候補だったチハノフスカヤは10月13日、ルカシェンコに10月25日までに退陣するように求め、それに応じなければ国民がゼネストに突入するという「最後通牒」を付き付けました。もちろん、名うての独裁者がそんな要求に応じるはずもなく、最後通牒の期限が過ぎても何食わぬ顔で国民の指導者を演じ続けています。反ルカシェンコ派の市民は、チハノフスカヤの呼びかけに応じ、可能な範囲でデモやストを敢行していますが、平和的な抗議行動で体制が揺らぐ気配は、今のところ見て取れません。
ですので、今回も、漠然と情勢を論じるというよりも、テーマを設定してベラルーシを掘り下げてみたいと思います。この連載ではこれまで、デジタル社会、ウクライナとの比較、農村・農業、国内の地域構造、言語事情、エネルギー、対ロシア関係と、様々な角度からベラルーシを分析してきました。今回は、宗教がテーマです。
東西キリスト教がせめぎ合う前線
まず強調しておきたいのは、ベラルーシの地は東西のキリスト教がせめぎ合う前線になっているということです。ベラルーシという民族および国家は、正教会のロシアと、ローマ・カトリックのポーランドが数世紀にもわたってこの地で攻防を繰り広げ、その所産として生まれ落ちたような存在です。今日でも、東方キリスト教であるロシア正教と、西方キリスト教であるローマ・カトリックとが、混在しています。
調査によって異なりますが、今日のベラルーシでは、だいたいロシア正教徒が70~80%くらい、カトリック教徒が10~15%くらいと考えられます。ここでは、Pew Research Centerが行った国際比較調査の結果を参照してみましょう。これによると、ベラルーシおよび周辺諸国における宗教の信者比率は、上図のようになっているということです。ベラルーシでは、正教徒が73%、カトリックが12%という結果でした。
なお、ベラルーシやロシアなどでは、特定の宗派への帰属を名乗っていても、必ずしも全員が神を信じているわけではなく、増してや日常的に礼拝に参加しているわけでもありません。カトリックには信心深い人が比較的多いものの、正教徒の場合は単に自分の文化的・エスニック的なルーツとして「正教徒です」と申告しているだけの場合が少なくありません。社会主義時代の反宗教政策は、それなりに効果があったと言えるかもしれません。ちなみに、かつてルカシェンコは自らの宗教観を尋ねられ、「私は正教無神論者だ」という名言を残しています。
ともあれ、ベラルーシで正教が数の上で支配的であることは間違いありません。そして、正教が主流の国でありながら、ローマ・カトリック教徒も相当数いるというのが、ベラルーシの特徴です。上図に見るように、ウクライナもカトリックは一定数いるものの、その大部分はギリシャ・カトリックであり、ローマ・カトリックは同国ではごく少数です。以前「ベラルーシの民主化を牽引する地域は? ウクライナとの比較考察」で解説したとおり、ギリシャ・カトリックはユニエイト教会、東方典礼カトリック教会などとも呼ばれ、16世紀に正教会とカトリックを折衷して生まれた宗派です。
上図によれば、ラトビアでも正教・カトリック・その他の宗教(具体的にはルーテル派が多い)が拮抗していますが、ラトビアの場合は正教徒はほぼロシア系住民に限られると思われます。それに対し、ベラルーシでは、民族的なベラルーシ人の中に正教の人もいればカトリックの人もいるというのが特徴的です(当然、ベラルーシに住む民族的なロシア人は正教徒、ポーランド人はカトリックがほとんどですが)。ベラルーシでは、だいたいどの街に行っても、正教会の教会堂とカトリックの聖堂の両方を目にすることができます。
さて、ベラルーシ・ナショナリズムの立場から見ると、このようなベラルーシの宗教事情は、悩ましいものです。ベラルーシ人の民族形成は、周辺の諸民族に比べて遅れをとりました。歴史的に正教のロシアとカトリックのポーランドの狭間に置かれ、両者による支配と同化にさらされてきたからです。正教徒=ロシア人、カトリック=ポーランド人というステレオタイプが生じ、ベラルーシ人という独自の民族アイデンティティが育ちにくかったわけです。
正教会においては、ソ連末期の1989年10月に、ロシア正教会モスクワ総主教庁ベラルーシ管区が創設され、その体制が今日まで引き継がれています。1991年暮れのベラルーシ独立後は、慣例的に「ベラルーシ正教会」と呼ばれることが増えているものの、組織上は今もロシア正教会の支部にすぎません。正教会の礼拝は基本的にロシア語で行われ、歴代の幹部もロシアから送り込まれてきました。一方のカトリック教会でも、礼拝ではポーランド語が主流で、聖職者の多くはポーランドから派遣されるという状況が続いてきました。
教会の離反にルカシェンコが激怒
ルカシェンコは、もともとは正教寄りだったのですが、次第にカトリックも重視する姿勢に転じ、両教会とほぼ等距離の友好関係を築いていました。
ルカシェンコという人物に関し、良い点を一つ挙げるとするならば、この政治家は民族・宗教・言語などによる差別を一切しないという点です。もっとも、それはルカシェンコが高潔な人格者だという意味ではありません。ルカシェンコが人間を判断する基準は、「この私に忠誠を誓うかどうか」という点だけです。体制に歯向かう者は、民族や宗教の分け隔てなく、徹底的に弾圧するというだけの話です。
他方、今日ベラルーシで巻き起こっている反ルカシェンコ運動も、民族・宗教・言語の垣根を超えた全国民的なものです。彼らが希求しているのは、自分たちの尊厳を取り戻すために、ルカシェンコ体制に終止符を打つという点に尽きます。たとえば、「ルカシェンコ体制がカトリックを弾圧しているので、カトリック教徒がとりわけ活発に反政府運動に身を投じている」といった宗教的背景は、特にありません。
ただ、8月の大統領選をきっかけに起きた現下ベラルーシの政治危機では、正教会およびカトリックという東西教会の動きが、かつてなくクローズアップされました。実際、8月22日に西部のグロドノを訪れて演説したルカシェンコは、怒りを露わにしながら、次のように警告しました。「私は、各宗派のとっている立場に驚いている。親愛なる聖職者たちよ、落ち着いて、自分の仕事をしてほしい。人々が教会に行くのは祈るためだ! 正教会も、カトリック教会も、政治のためにあるのではない!」
いったい、何が起きたのでしょうか? 以下では、正教会、カトリック教会、それぞれの動きを整理してみたいと思います。
ベラルーシ正教会ではトップ交代に発展
一般的に言って、正教会というのは国民国家の単位で機能するものであり、また時の世俗権力と密接に結び付く傾向があります。ですので、ベラルーシ正教会がこれまでルカシェンコ政権と歩調を合わせてきたこと自体は、自然な成り行きです。8月の大統領選挙でも、ルカシェンコの当選が発表されると、ベラルーシ正教会の最高位であるパーベル主教はいち早く、ルカシェンコに祝電を送りました。
ところが、選挙後に予想外に大規模な反ルカシェンコ・デモが発生すると、官憲は徹底的な力の行使でその鎮圧に乗り出します。いかに政治権力と一体化する正教会と言えども、平和的なデモ参加者が手ひどく殴打される様子を、宗教者として見過ごすわけにはいかなかったのでしょう。パーベル主教は、ルカシェンコの当選を祝福したことは時期尚早だったと認めて信者たちに謝罪し、自ら病院を訪れデモで負傷を負った市民たちを見舞っています。そして、ベラルーシ正教会の教会会議は8月15日、体制側の弾圧を批判し、暴力を停止することを求める声明を発表しました。
しかし、悲しいかなベラルーシ正教会はロシア正教会の出先機関にすぎず、人事権などはロシア側に握られています。本家のロシア正教会の教会会議が8月25日に開催され、パーベル主教はロシアの地方への異動が決まりました。代わってベラルーシ正教会のトップに据えられたのが、ベニアミン主教です。実は、ベラルーシ出身者がこの座に就くのは初めてのことであり、その意味ではベラルーシにとって一歩前進と言えなくもありません。しかし、デモ参加者に寄り添おうとしたパーベル主教が更迭され、本家ロシアおよびルカシェンコ体制に言いなりのイエスマンにすげ替えられたという印象は、どうにも拭えません。
ルカシェンコは11月2日にベニアミン主教と会談し、「聖職者の人手不足は、この五ヵ年のうちに解消しなければならない」などと述べました。まるで、正教会もルカシェンコ計画経済の一翼に組み込まれたかのような言いようです。
カトリックのトップも放逐される
一方、ベラルーシのカトリック教会の最高位にあるのが、コンドルセビッチ大司教です。この大司教は、民族的にはポーランド系ですが、グロドノ州生まれのベラルーシ市民です。2015年の就任以来、ルカシェンコ政権とも良好な関係を築き、ミンスクやその他の街での新たなカトリック聖堂の建立も実現していました。
しかし、当然のことながら、大統領選後にルカシェンコ体制が行っている蛮行は、到底カトリック教会にとって許容できるものではありません。コンドルセビッチ大司教は留置所を訪れてデモで逮捕された人々に祈りを捧げるなど、民主派の市民に寄り添う姿勢を見せていました。
そして、8月31日に事件は起こります。ポーランドを訪問して同国のカトリック上層部と協議を行い、ベラルーシに帰国しようとしたコンドルセビッチ大司教が、ベラルーシへの入国を拒否されたのです。それのみならず、彼の所持していたベラルーシ・パスポートは無効とされ、大司教は国籍を失ってしまいました。ルカシェンコは、「コンドルセビッチはポーランドで特殊任務を課せられ、ベラルーシのブラックリストに入った」とコメントしました。コンドルセビッチ大司教は、現在のところその職を解かれたわけではありませんが、ルカシェンコ体制が続く限り、帰国は困難でしょう。
ローマ教皇の招聘を画策
一見すると、ルカシェンコとカトリック教会が決裂したかのように思えますけど、そうではありません。むしろ、ここに来てルカシェンコがカトリックにすり寄る現象が見られます。実はルカシェンコは現在、ローマ教皇のベラルーシ招聘を画策しているのです。
これまでの経緯をまとめると、まずルカシェンコが初めてバチカンを訪問しローマ教皇ベネディクト16世に謁見したのが、2009年4月のことでした。この時ルカシェンコは、教皇にベラルーシ訪問を要請するとともに、ベラルーシの地でロシア正教会の総主教と会談することも提案したということです。ローマ教皇とロシア正教総主教の会談は、その後2016年2月にキューバで実現することになるわけですが、ルカシェンコは歴史的な初会談を自分が取り持って手柄にしようとしたのでしょう。ルカシェンコは2016年5月に再度バチカンを訪問し、新しい教皇のフランシスコとの対面を果たしていますが、この時もベラルーシ訪問とロシア正教総主教との会談を改めて提案しています。
ベラルーシは本年9月、外交ルートを通じて、フランシスコ教皇を招聘したいとの意向を改めて伝えたとのことです。そして、教皇庁も現在実際に、訪問候補国の一つとしてベラルーシを検討していると伝えられます。11月3日にはルカシェンコが、「私はフランシスコ教皇をこよなく尊敬している。私は彼の前任者の多くと会っているが(注:実際には一人だけ)、フランシスコは最良の教皇だ」などと持ち上げる場面もありました。その一方でルカシェンコは、教皇のベラルーシ訪問が実現するのは、我が国における主要宗派である正教会が同意した場合に限られるということも言明しています。
ルカシェンコはこれまで、ロシア一国に依存する状況から脱却するため、中国との関係拡大や欧米との接触を通じて、多元外交の構築に努めてきました。しかし現在、自らの暴政が原因で、欧米とのパイプが途切れつつあります。おそらく、ルカシェンコがローマ教皇招聘工作で目論んでいるのは、そのあたりを補い、ルカシェンコ体制が再び国際社会から承認されるための環境作りでしょう。ローマ教皇庁が、そんな見え透いた手に乗ることがあったら、失望を禁じ得ませんが。
魂までは屈服させられない
以上見てきたように、8月の大統領選挙の直後には、正教会およびカトリック教会の双方から、ルカシェンコ体制による暴力支配に異を唱える動きが生じたものの、体制側は両教会のトップを事実上放逐し、2つの教会を屈服させることに成功しました。
しかし、たとえ正教会およびカトリックの上層部がルカシェンコ体制に白旗を掲げても、民衆に近い一般の聖職者の間では、反ルカシェンコの立場を明確にする動きも広がっています。増してや、高位聖職者がどのような対応をとろうとも、信者たちがルカシェンコ政権に対する態度を変えることはないでしょう。
8月以降、ベラルーシのキリスト教徒の間では、宗派の垣根を超えて、合同で「十字行」という行進を行ったり、あるいは正教徒が正教会の体制順応的な姿勢に飽き足らずカトリックの礼拝に参加したりといった興味深い現象も生じています。それでなくても、正教会は現代の要請に応えられていないと指摘されがちな宗派です。その上、ルカシェンコ体制の言いなりになっていたら、信徒離れが進むことも考えられます。その際に、文字どおりの「駆け込み寺」として信徒の受け皿となりうるカトリック教会が、ベラルーシではどの街にもあるのです。