国民は鶏じゃない! 「ジェノサイド」のきっかけは教授との論争

オーストリア・ハンガリー帝国時代に州議会庁舎だったリビウ大学【下の衛星写真参照】本部の建物を訪ねた。通り一つ隔てた国際関係学部の入り口で、イホール・ゼマン副学部長が迎えてくれた。
狭い階段の壁に、人の背丈ほどある縦長の石板が掲げられている。「本学の国際法、外交研究の基礎を築いた先達たち」として、「ジェノサイド」の概念を考え出したラファエル・レムキンと、「人道に対する罪」の概念を生んだハーシュ・ラウターパクトの名と短い業績が刻まれていた。「2020年に取り付けられたばかり」という。
レムキンは大学を卒業するとワルシャワで検察官となり、1939年のドイツの侵攻を受けて渡米。そこで、人種や部族を意味するギリシャ語由来の「geno」と殺人を意味するラテン語由来の「cide」を組み合わせ、「ジェノサイド」の言葉を生み出した。戦後はニュルンベルク裁判に「ジェノサイド罪」を取り入れるよう連合国に働きかけ、1948年12月に国連で採択された「集団殺害罪の防止および処罰に関する条約」(ジェノサイド条約)のために尽力した。
ただ、その後再びレムキンの業績に注目が集まるのは、1990年代まで待たなければならなかった。冷戦下、国際法廷で人道犯罪を裁こうとする動きが途絶えたからだ。
ゼマン副学部長によると、ウクライナでのレムキンの「復権」はさらに遅れ、2004年の「オレンジ革命」以降という。2005年に発足した親欧米路線の政権が、1930年代にソ連で起きた「ホロドモール」(大飢饉〈ききん〉)がウクライナに対するジェノサイドだと認めるよう、国際社会に訴えてからだった。
「レムキンが後のジェノサイド条約につながるコンセプトを持ったのは、間違いなくリビウでの学生時代だ」とゼマン副学部長は言った。レムキンは自伝の中で、第1次大戦中にオスマントルコで起きたアルメニア人虐殺事件をめぐって教授たちと論争になったと書いている。「大量殺害を犯した者は裁かれなければならない」と主張するレムキンに、教授たちは「国家主権は絶対」と取り合わなかった。
ゼマン副学部長によると、当時の国際法の専門家の間には、個人の権利を国家の主権の上に置く考えはなかった。「論争の中である教授が国を養鶏場の所有者にたとえ、『鶏をどう扱うかは所有者の自由』だと言った。レムキンは教授の名を明かしていないが、『国民は鶏じゃない』と反論したと生前、語っている」
欧州で新しい独立国が生まれ、それぞれのナショナリズムがぶつかった時代。少数派に厳しい態度を取る教授もいたという。現在のベラルーシ領内の農村出身だったレムキンは、この地域一帯で多数の犠牲者を出した反ユダヤ人暴動ポグロムも10代で経験していた。
ゼマン副学部長は、ロシアが侵攻の過程でおこなった戦争犯罪に国際的な関心が高まったことについて「ウクライナはレムキンに感謝しなければならない」とも話す。
ジェノサイドとは「国民的、人種的、民族的または宗教的集団の全部または一部を破壊する意図をもって行われた行為」のことで、「集団の子どもを他の集団に強制的に移すこと」も含まれる。ロシアの占領地では同じスラブ系のウクライナ人をロシアに同化させる当局の行為が指摘され、国際刑事裁判所は子どもの連れ去りをめぐってプーチン大統領に戦争犯罪容疑で逮捕状を発行している。
ただ、ジェノサイドの罪で裁くためには、その集団を破壊する意図があったことを証明しなければならない。「今のロシアの侵攻をジェノサイドと考えるか」と聞くと、ゼマン副学部長は首を縦に振った。
「ウクライナに対するロシアの過去からのすべての行為が今につながっている。ホロドモールはジェノサイドであり、クリミア・タタール人の強制移住はジェノサイドの要素を構成する。プーチンはウクライナのアイデンティティーを認めない。我々は自分たちと、自分たちの将来を(ジェノサイドから)守らなければならない」
レムキンとともに、リビウ大学で過去十数年、業績の研究が進められている卒業生がラウターパクトだ。法学部内にあるウクライナ科学アカデミー「人権ラボラトリー」の部屋を訪ねると、顔の浮き彫りがついた大きな銅板レリーフが廊下に掲げられ、「世界人権宣言の原案筆者」と刻まれていた。
ラウターパクトは大学卒業後に英国に渡り、ケンブリッジ大学教授に。第2次大戦後のニュルンベルク裁判で、英検察グループのスタッフとして「人道に対する罪」を国際法上に明確に位置づけた功績で知られる。
在学は1915~1919年。第1次大戦期で、オーストリア帝国の崩壊やロシア軍との攻防、短命に終わった「西ウクライナ人民共和国」の独立宣言と、波乱と緊張に満ちた時代だった。
「彼は自分が時代の目撃者であることを理解し、自身が経験した問題を解決する方法を国際法に求めたのだろう。それが新しい時代の息吹を生んだ」と法学部のスビトスラウ・ドブリアンスキー准教授は話す。人権ラボ所長のセルヒー・ラビノビッチ教授は「レムキンとラウターパクトが個人の権利をめぐる考えをここで育んだのは偶然ではない」と語った。
2010年代からラウターパクトの功績を研究し、一昨年に他界した父の故パブロ・ラビノビッチ氏が、1945年のラウターパクトの著書と1948年に採択された世界人権宣言のテキストを比較した論文で、「ラウターパクトこそが宣言の主要筆者」と結論づけたという。世界人権宣言は同年12月の国連総会で、ジェノサイド条約の翌日に採択されている。
ロシアによる侵攻さなかの2023年12月、米国の国際法学会はウクライナの学会と共催でジェノサイド条約と世界人権宣言の採択から75年を記念する国際フォーラムをリビウで開き、各国から計150人の国際法学者が集まった。ロシアによる全面侵攻では、キーウ郊外のブチャなどで市民の虐殺が起き、占領地の多くの人々が住まいを追われている。「我々は今こそ、正義が実現されるのを待っている」とラビノビッチ教授は語った。