――ウクライナがキーウ近郊のイルピンを奪還したと聞いたとき、イルピン川の壊れた橋の下を大勢の人々が避難していた3月上旬のニュースを思い出しました。
私が4月5日、ウクライナの首都キーウから北西約20キロのイルピンに入るときに最初に取材したのが、イルピン川にかかる橋でした。3月上旬に、ロシア軍の侵攻が迫るイルピンからキーウ方向へと逃れるため、壊れた橋の下につくられた急ごしらえの木の板の道を人々が歩いて渡っている様子が世界中で報じられた、あの橋です。
ロシア軍の侵攻が始まった翌日の2月25日、ウクライナ軍は侵攻を防ぐためにキーウとの間に流れる川で3カ所の橋を爆破。元々はまっすぐ橋がかかっていたところ、川の上部にあたる20メートルくらいが大きく陥没している状態でした。
4月5日に行った時は、橋のイルピン側に、破壊された車が数十台、放置されていました。橋の中心に近くなればなるほど、元々何色の車だったのかがわからないほど焼けて、原形をまったくとどめていないような、車の墓場のような状態でした。ロシア軍が攻めてくるということで、イルピン側の住民がキーウへ避難しようとして、橋のところで車を乗り捨てて、歩いて避難したんですね。そこにロシア軍が空爆や砲撃を行い、車が破壊されたのです。
5日時点ではたくさんの車が残っていたのですが、その4日後に再び通ったときには、ほとんどが撤去されており、橋の脇で仮設の橋の工事が進んでいました。イルピン側では、ミニバスに数十人が乗り込んでいるところでした。キーウ周辺から集まってきたボランティアで、その日はイルピンに250人くらいが入り、20人ほどのグループに分かれて清掃作業をしていました。
――ロシア軍が撤退して間もないですが、既にボランティアが作業を始めているんですね。日本の被災地を少し思い起こしました。
各地からボランティアが集まって、がれきの撤去や清掃作業をする様子は、日本の被災地などとも似ています。ただ、一つ大きく異なるのは、現地には地雷や捨てられた弾薬などが残されていることです。
イルピン市内でボランティアの方々をしばらく取材したのですが、しょっちゅう、危険なものが見つかっていました。あるときは、ロシア兵の防弾チョッキが見つかったのですが、一緒に手榴弾のピンが落ちていました。ピンが落ちていたとなると、近くに手榴弾本体が残されているのではないかとなって、いったんボランティアらは距離をとり、ウクライナの兵士が来て確認をしました。そのときは結局、手榴弾はなかったのですが、別の場所では弾薬が落ちていて、動かすと爆発するというのでやはりいったん離れることになりました。
イルピンの隣のブチャでも、非常線が張られていて中に入れない建物がありました。貼り紙のウクライナ語の意味を通訳に聞いたら、「地雷注意」と書いてあってひやっとしました。街中だけでなく、森や林に入るときも、安全が確認できた道以外は立ち入るな、という指示がありました。地雷などが見つかると、いったん作業を中断しなくてはなりません。1時間に1~2回ほど、ドーン、ドーンと、爆発物を処理する音が聞こえてきました。
――ウクライナにはいつごろ、どのように入ったのですか?
昨年8月からオランダに移り住み、10~12月にかけてベラルーシからポーランドに密入国する移民・難民の取材をしていました。そのころからこの両国と国境を接するウクライナに対するロシアの軍事的圧力が日に日に高まっていました。どこかで外交的妥協が図られるのではないかと思っていたのですが、実際には今年2月24日、ロシアによるウクライナ侵攻が始まりました。当初は私自身、ぼう然とするばかりで事態の推移を見守ることしかできず、実際に取材に動き始めたのは、3月12日からです。
オランダ南部の村で、住民らが支援物資を集めてウクライナ国境に近いポーランドの街まで送るというので、物資を載せたトラックを追うような形で、取材しながら車や鉄道を乗り継ぎ、東へ向かいました。ベルリン、ワルシャワを経て、ウクライナ国境に近いポーランド南東の街メディカへ。そして3月22日にウクライナに入りました。
――オランダからウクライナをめざして東へ進む中で、肌で感じるような変化はありましたか?
戦場に近づいていくような感覚はありました。ウクライナへ近づくほど、逃れてくる人たち、難民の数が圧倒的に多くなりました。ベルリンに着いた時点で、一時的な休憩所のようなところは満員状態で、キャパシティーを超えている様子がすぐにわかりました。
本当に大勢のボランティアがどこにでもいて、できることを最大限やっている感じです。例えば(ポーランドの)メディカでは、国境すぐのところに、色んな支援団体などがずらっと、500メートルくらいにわたって並んでいる。食べ物や飲み物だったり、歯磨きやシャンプーといった生活雑貨を配っていたり、SIMカードも無料で配られています。さらに、子どもたちを少しでも喜ばせようと、怪獣の着ぐるみを着てキャンディーやチョコレートを配っている人もいる。ありとあらゆる支援をやろうとしています。ただ、それを上回る人数が押し寄せていて、対応し切れていない状況でした。
国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、ウクライナからの難民の9割が子どもと女性です。というか、子どもと母親と言った方がいいですね。私も世界各地で難民の取材をしてきましたが、これだけ子どもと母親だけというのは見たことがありません。みんな手に持てる限りの荷物を持って、子どもを連れて、そこには男性が全くいない、という状況なんですね。やはりそこが、ヨーロッパにしても、何とかしなきゃいけないと取り組んでいる理由の一つでもあるかと思います。
――キーウ近郊にはどのように入ったのでしょうか?
ウクライナに入ってしばらくは、西部のリビウに滞在し、戦地となっているウクライナの北、東、南部から逃れてくる人々と、ヨーロッパ全土、世界中から集まってきた支援物資とが交わる街を取材しました。同時にキーウで取材するための通訳や運転を頼める人など、現地の人脈を広げていきました。
防弾チョッキなどの装備をそろえるために、いったんポーランドに戻り、ロシア軍がキーウ郊外から実際に撤退したことが確認された後の4月4日の夜行列車でリビウからキーウに向かいました。キーウに着いたのは5日朝のことです。そこからお願いしていた通訳兼運転手と合流し、彼の車で直接イルピンとブチャへ向かいました。
キーウからイルピンまでは直線距離で約20キロ、ブチャまでは約25キロ。どちらも、いわゆるベッドタウンで、大きな宅地開発の中高層のマンションがずらっと立ち並んでいるような地域です。先ほどお話ししたように、キーウとの間にイルピン川が流れていて橋を渡る必要があるのですが、橋が落ちているので、ぐるっと回り道するような形で2時間くらいかけてまずイルピンへ入りました。
――キーウから郊外のイルピンやブチャへ、道中はどのような光景でしたか?
キーウ中心部はところどころに攻撃を受けた建物や、被害の現場があるような感じでしたが、イルピンやブチャは、街全体が破壊されていました。キーウから郊外へ向かうにつれ、被害がグラデーションのようにだんだんと増えていきました。最初は大破してひしゃげた車両や黒焦げになった集合住宅を見るたびに車を止めて撮影していたのですが、きりがないことに気づいて途中でやめてしまったほどです。
ブチャはロシア軍が1カ月ほど支配していたのですが、その手前のイルピンは両軍が攻防する最前線だったエリアです。高層マンションなどの大きな建物は、壁一面が黒く焼けただれていたり、大きな穴が開いていたり。そんな状態の建物があちこちにある状況でした。街全体ががれきやガラスの破片であふれていて、路上には焼け残った車だらけ。中には、軍用車両も放置されていました。
――ロシア軍が撤収した街は、どのような状態だったのですか?
イルピンとブチャは隣町で、ほとんど一体化しているような住宅街です。その境目あたりに大きなスーパーがあるのですが、完全に黒こげになって焼け落ちていました。スーパーの近くに、「ハ」の字状態に折り重なった黒く焼けた2人のご遺体が放置されていました。男性であることはわかったのですが、どんな人なのかはよく分からない。体の一部も無くなっていて、おそらく数週間はたっているのではないかという状態でした。軍服のような緑色の布きれが見え、まだ回収されていなかったので、おそらくロシア兵の遺体だったのではないかと推測しています。
――ブチャでは虐殺が行われたと報じられています。
ブチャの駅前通りと呼ばれる通りが壊滅的な状態になっていて、いたるところに戦車や軍用車両があって墓場のよう状況でした。ウクライナ軍の攻撃で壊滅したロシア軍のものなのですが、その間の戦闘で通りの両側の家屋も大破していました。
この通りに交差するヤブロンスカ(リンゴの木、の意味)通りが、AFP通信などが報じたようにご遺体が点々と置かれていたとされる場所です。私がブチャに入った時点では、既に路上のご遺体はありませんでしたが、交差点から2キロほど離れたところに、焼け焦げた一般車両が残されていました。中を見ると、黒こげで体の一部と言った方がいいような状態の、ご遺体がありました。もう性別も分からないような状態でした。近くの住民は、車は見たことがあるので、地元の誰かのものと思うが、誰かは分からない、と話していました。
町の中心部にある教会の裏手の敷地は、ロシア軍に占領されていた間、集団墓地のようになっていました。私がブチャに入ったときには、深い穴の底から指だけ、胴体だけなど体の一部が見えているご遺体や、遺体袋もたくさんありました。
9日に再訪したときには、ヤブロンスカ通りから少し入った墓地のそばの雑木林に、腹部の皮膚が破けて内臓が飛び出た状態のご遺体がありました。頭部は1・5メートル離れた場所に転がっていました。そこから数メートル離れた場所にも、盛られた土の間から体の一部が露出したご遺体がありました。14日にまた訪れたときは、砲撃が直撃して崩れたマンションの一室に、頭蓋骨と肋骨でそれとわかる黒焦げのご遺体がありました。空き地に集められた大破した車両の運転席には、歯茎と前歯だけの肉片が残っていました。回収が進んでいるにもかかわらず、取材で訪れるたびに新たなご遺体を目にする凄惨な現場でした。
――残っていた住民の方々に話を聞かれたんですね。
ブチャにはいままで4回通って、駅前通りやヤブロンスカ通りの住民たちを中心に十数人に話を聞きました。地元の方たちはヤブロンスカ通りを「死の通り」と呼んでいました。
住民によると、激しい戦闘になった3月3日、ヤブロンスカ通りに面した4階建ての貸事務所ビルの地下シェルターに多くの住民たちが逃げ込みました。その後、ビル自体をロシア軍が押さえて拠点にしたため、地下の住民たちは監禁状態に置かれました。さらに周辺の民家からも住民が強制的に連れてこられて、約120人が数日にわたって閉じ込められたそうです。
その一人だった高齢の女性は「ロシア兵にシェルターから5人が呼び出されて、1人しか戻ってこなかった」と話していました。解放されて外に出ると、路上に複数の遺体が転がっていたそうです。目隠しをされて後ろ手にされた状態の人が貸事務所ビルの方向に連行されていく人を目撃した、という住民の話もありました。
ブチャの警察によると、ロシア軍が撤退した後、このビルで8人のご遺体が見つかりました。その現場を撮影した地元男性に動画を見せてもらうと、後ろ手に縛られていたり、胸や足、肩などに複数の弾痕があったり、顔面が血だらけになっていたりする凄惨な状態でした。地雷の撤去が終わって私がこのビル内部に入ったところ、ほとんどの部屋で内部がめちゃくちゃに荒らされており、テーブルや床にはお酒の空き瓶やロシア軍の食料袋、ごみが散らかっていました。
犠牲者のなかには家具職人をしていた地元の男性がいました。3月3日から連絡が取れなくなって家族がずっと行方を捜していたのですが、ネット上で映像を見た義母が現場に駆け付けたところ、変わり果てた姿になっていたそうです。妻と10歳と6歳の二人の娘は避難していて葬儀にも出ることができず、義母とご近所の方々の10人ほどでひっそりと執り行われた葬儀を取材したのですが、義母が棺に突っ伏して泣き崩れ、ボロボロと涙を流していた姿が忘れられません。
どうして多数のご遺体が路上や林に置かれたままの状態だったのか疑問だったのですが、住民の方々への取材を進めるにつれて状況が少しずつ分かってきました。
住民たちは、ロシア軍が遺体の回収を認めてくれなかった、と口々に話していました。それでもせめてご遺体をどこかに安置したい、と一部の住民がロシア軍と交渉し、中心部の遺体だけは回収が認められたのだそうです。中心部にある教会の裏の集団墓地は、路上から回収した遺体を埋めるために住民たちが重機を使ってつくったものだったと、約20体を回収したという地元男性は私に証言しました。
雑木林のご遺体も、同じように地元の人たちがロシア軍の顔色を見ながら許可をもらって急いで運んで行ったものでした。でも近くの線路にロシア軍が拠点を構えて常時砲撃が続いていたので、穴を掘ってきちんと埋葬するまではできず、運んでいってすぐに逃げる、というような状況だったと話していました。
――虐殺の立証は簡単ではないという声もあります。
住人によると、ロシア軍に占領された際、一部の住民は避難せずに、あるいは避難できずに家に残っていました。ほとんどが息を潜めて家の中、あるいは地下のシェルターに隠れているような状態で、外に出られたとしても家の周りくらい。街中を自由に歩くようなことはできない状況だったそうです。
ですので、「住民が連れて行かれるのを見た」という証言はあっても、「射殺される瞬間を見た」という人には私はまだ出会っていません。見ていた人がいたとしたら、おそらく一緒に殺されてしまうような状況だったのではないかと思っています。
群衆が見ている中で殺された、というような状況ではなく、住民側の行動が非常に制限され、みんな隠れている状態の中で行われたことを考えると、立証していく作業は、簡単なことではないように感じました。
一方で、ご遺体が語る部分が、かなりあるようにも思います。後ろ手にされていたり、ひざまずかされていたり、骨折や複数の銃創など。このあたりは、警察などを通じて立証されていくかと思います。街中や大型施設に監視カメラなどもあるはずですので、証拠を積み重ねていく作業になるのだと思います。
――占領中、ロシア兵とコミュニケーションがとれるような状況だったのでしょうか?
住民の方々が話していたのは、よくロシア兵から「携帯電話を見せろ」と言われたと。没収されたり、壊されたり、中のSIMカードを割られるケースもあったそうです。ロシア軍からすると、占領下の状況が外部に伝わらないよう、特に注意を払っていたのではないかと思います。ネオナチを連想させる刺青を探していた、という話も出ていました。
ただ、虐殺の理由についてはそうした個別のやりとりというよりも、ウクライナ軍の反撃でロシア軍が損害を受けたことへの報復として市民を狙った、と受け止めていた人がたくさんいました。
――街で出会ったのは、高齢の方が多かったのでしょうか?
駅前通りやヤブロンスカ通りは昔ながらの民家が並んでいるような地域だったということもあるかもしれませんが、私が直接話を聞いたのは、高齢の方が多かったです。体が不自由で動きづらいという方もいましたし、住み慣れた自分の場所にいたかったと話す方もいました。やはり子どもを守らなきゃいけない、という意識がみなさん強くて、子どもと母親をまず避難させたのだと思いますが、子どもの姿は見ませんでした。ロシア軍が撤退しても、インフラも壊されてしまってまだ住める状況でないので、まだ戻って来ていないのだと思います。
――ブチャやイルピンでの虐殺を含めた市民への行為が広く報じられている一方で、ロシア側は「ロシア軍は、民間人は攻撃していない。フェイクだ」という主張を続けています。実際、現地に入った立場として、ロシア側の主張についてどう思いますか。
まず事実として、壊滅しているのは、住宅やマンション、スーパーや病院、学校だということです。一般市民の生活の場が、軒並み、壊滅的な状態になっている。それで、ロシア側が「民間施設は狙っていない。民間人は殺害しない」というのは、いったい何を言っているんだ、という感じです。おそらくロシア側は、「実は軍事施設として使われていたんだ」「隠れみのにしていたんだ」などと主張するのかもしれませんが、街全体がほぼ壊されている中で、民間人や民間施設を狙っていないという言い訳は、まったくナンセンスだと思います。
また、民間施設を破壊した上に、ロシア軍が占領した地域では、救助活動も認めていなかったとされます。イルピン、ブチャからさらに北西にあるボロジャンカでは、救助が絶望視されているマンションがあります。(つづく)
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村山祐介(むらやま・ゆうすけ) ジャーナリスト。1971年、東京都生まれ。立教大学法学部卒。1995年、三菱商事入社。2001年、朝日新聞社入社。2009年からワシントン特派員として米政権の外交・安全保障、2012年からドバイ支局長として中東情勢を取材し、国内では経済産業省や外務省、首相官邸など政権取材を主に担当した。GLOBE編集部員、東京本社経済部次長(国際経済担当デスク)などを経て2020年3月に退社。米国に向かう移民の取材で、2018年の第34回ATP賞テレビグランプリのドキュメンタリー部門奨励賞、2019年度のボーン・上田記念国際記者賞、2021年の講談社本田靖春ノンフィクション賞を受賞した。