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抽象画の先駆者ヒルマ・アフ・クリント、埋もれた才能 美術界の男性優位という問題

アートから世界を読む
ヒルマ・アフ・クリント=トレノバ提供
ヒルマ・アフ・クリント=トレノバ提供

ニューヨークのグッゲンハイム美術館で2019年に開催された展覧会「ヒルマ・アフ・クリント:未来の絵画」(注1)は60万人以上の入場者を集め、美術館歴代1位の集客数(注2)となった。

このスウェーデン人女性アーティスト、ヒルマ・アフ・クリント(1862-1944)は、美術史の重要な記録を塗り替える可能性のある人物として注目されている。

なぜなら抽象画の先駆者とされる彼女の同時代の大芸術家たち、ヴァシリー・カンディンスキーやカジミール・マレーヴィチ、ピート・モンドリアンよりも先に抽象表現を実践していたとみられるからだ。

4月9日からユーロスペースなどで公開が始まる映画「見えるもの、その先に ヒルマ・アフ・クリントの世界」を見れば、彼女を深く知ることができる。ヒルマの人生と業績をたどりながら、美術史や美術業界の構造の問題に迫る作品だ。

「見えるもの、その先に ヒルマ・アフ・クリントの世界」予告編=配給会社トレノバのYouTubeチャンネルより

1862年にスウェーデンの貴族の家に生まれたヒルマは、海軍士官学校で教鞭をとる父親から数学や天文学、航海術を学ぶ。

ストックホルムの技術学校で肖像画を学んだのち、1882年にスウェーデン王立美術学院に入学。在学当時から、依頼された解剖学のドローイングなどを手がけて報酬を得る。

優秀な成績を収めたヒルマは、卒業時にストックホルムの中心街にあるアトリエを与えられ、肖像画や風景画で職業画家として成功する。さらにイラストや獣医学研究所から請け負った動物画などを描いて収入を得ていた。

各分野で求められる内容に着実に答える仕事ぶりと、そこに加えられる独自のセンスを見るにつけ、彼女の技量の高さと多才さを感じる。

興味深いのは、当時王立美術学院で技術を身につけることは、未婚の上流階級の女性にとって自活の手段となりえたことだ。キャリアウーマンとしてのヒルマの姿が想像できる。

スウェーデンの王立美術学院は1864年にはすでに女性に門戸を開いており、ヒルマはここで学んだ女性としては既に第2世代だった。これは注目すべきことだ。

世界最高峰のパリ国立高等美術学校が1897年まで女子学生を受け入れなかったのに対して、スウェーデンではその30年以上も前に女性の正式な高等美術教育が始まっていた(ちなみに日本においては、東京藝術大学の前身である1887年創立の東京美術学校が女性の入学を認めたのは、戦後1946年である)。

特権階級出身ゆえに可能だったとはいえ、幼少期から父親が彼女の知的才能を積極的に伸ばし、芸術の学びを後押ししたことと、スウェーデンの美術教育が女性に開かれていたことは、この稀有な女性画家の誕生にとって幸運だったことは間違いない。

さらに、ヒルマの芸術に決定的な影響を与えたものは神智学だった。ヒルマは早い時期から交霊術に親しんでいたが、この時代、交霊術はヨーロッパのブルジョワの間で流行しており、神智学の影響を受けた芸術家は多い。作家のアーサー・コナン・ドイルや詩人のW.B.イェイツ、さらにカンディンスキーやモンドリアンもそうであった。

ヒルマは志を共にする女性画家4人と共に「ザ・ファイブ」というグループを結成し、交霊術による「お告げ」をもとにした絵画を制作し始める。

そして1906年、「天啓」を受けたヒルマは、人の一生の四段階を表現した10点の大作「The Ten Largest」シリーズを描く。「大きな力が私を通して絵を描いた」と述べているヒルマは、これを皮切りに世界の真理を探求する抽象表現に没頭し、大量の絵画を制作する。

Hilma af Klint “Group IV, The Ten Largest, No. 7, Adulthood,” 1907
Hilma af Klint “Group IV, The Ten Largest, No. 7, Adulthood,” 1907=トレノバ提供

1908年、神智学協会のドイツ語部門の責任者で教育者としても知られるルドルフ・シュタイナーがストックホルムを訪れた際、ヒルマは自分の作品を彼に見せている。

神智学の旗振り役としてヨーロッパ中で講演し、その理論が医学や教育、農業、芸術などに多大な影響を与えていたシュタイナーは当時のカリスマだった。

しかし、霊性を重んじながらも交霊術に依存するアプローチには懐疑的だったシュタイナーは、「霊媒師のように描くべきではない」とヒルマの作品を否定した。これはヒルマの名前が世に出るかどうかの分岐点だっただろう。

ルドルフ・シュタイナー
ルドルフ・シュタイナー=朝日新聞社

どんな天才であっても、社会的影響力のある「強者」の支えなしに評価を得ることはできない。圧倒的に弱者の立場である女性であったならば、なおさらだ。ヒルマが「死後20年自分の作品を発表しないように」と遺言したのも、シュタイナーからの拒絶が影響したのだろう。

Hilma af Klint “Group X, No.1, Altarpiece,” 1915
Hilma af Klint “Group X, No.1, Altarpiece,” 1915=トレノバ提供

「私の中に私を前進させる力があり、結婚や家庭という幸せは私にとっての運命ではない」と語っていたというヒルマは、彼女を愛した医師からの求婚を断っている。しかし、男性と深く関わらなかったことは「幸運」だったといえるのではないか。

例えばヒルマと生没年がほぼ同時期であるカミーユ・クローデル(1864〜1943)は、才能あふれる彫刻家でありながら大物彫刻家オーギュスト・ロダンとの愛人関係に苦しんだことで有名だ。弟子としてロダンに搾取され、宿した子供を中絶し、精神病院で孤独な一生を終えた。

カミーユ・クローデル
カミーユ・クローデル=パブリック・ドメイン/Wikimedia Commons

ヒルマは、当時は女性にとっての終着点だった結婚や育児を選ばず、才能ある男性アーティストとの禁断の恋に巻き込まれることもなかった。無名だったがゆえに、男性アーティストたちの嫉妬によってキャリアを潰されずに済んだともいえる。

古くて新しい問題「美術界の女性差別」

男性からの抑圧をすり抜けて芸術に邁進することができたヒルマは、女性アーティストとしては稀有な存在だったのではないだろうか。

こんな風に「〇〇しないですんだ」ことを挙げてヒルマの「幸運」を語るのはあまりにもペシミスティックだろうか。ではここでよりポジティブな、「ありえた」あるいは「あるべき」仮説を考えてみよう。

シュタイナーがヒルマの作品の抽象性と独自性を認め、当時の芸術界に大々的に宣伝していたとしたらどうなっていただろうか。カンディンスキーより先に偉業をなしえたアーティストとして引っ張りだこになり、美術史にヒルマの名が載っただろうか。

映画では「現代美術史はニューヨークMoMAに所蔵されている作品で作られている」と語られているが、ヒルマの作品がMoMAに首尾よく所蔵されただろうか。残念ながら、そんな「幸運」はなかったのではないだろうか。

美術史家のリンダ・ノックリンが「なぜ偉大な女性芸術家はいなかったのか」(1971)という論文の中で、芸術の世界では男性が優遇され、能力ある女性アーティストが男性と同等に評価されてこなかったことを指摘した通り、美術史を形作ってきたのは男性であり、世界中の主要な美術館のコレクションの大半も男性アーティストの作品である。ヒルマが無視されたことは全く不思議ではない。

さらに、ヒルマが恋愛や結婚、出産を避けることなく、作品制作を続けることができる可能性はあっただろうか。

精神世界に没頭しながら森羅万象の有り様を描こうとしていたヒルマの姿勢を思えば、そして妻や母に求められる当時の社会的プレッシャーを考えると、それは難しかったかもしれない。

大量の作品が無傷で保管されていたこと、抽象絵画の概念に新たな光を与える女性アーティストにいま、私たちが出会えたという事実こそが貴重であり、幸運なのだと思う。

同時に、私たちは「あるべき」世界を、ヒルマの再評価とともに検証すべきだろう。なぜならヒルマが直面した女性への不平等は、現在も驚くほど解決されていないからだ。ジェンダーにかかわらず誰もが平等に評価され、尊重され、生きたい人生を選ぶことのできる社会を求めて、思考と行動を止めてはならない。

「ヒルマ・アフ・クリント―抽象のパイオニア」の展示風景(ストックホルム近代美術館、2013)
「ヒルマ・アフ・クリント―抽象のパイオニア」の展示風景(ストックホルム近代美術館、2013)=トレノバ提供