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「福島」についてパリで議論する 存在と不在を問う藤井光のアート

アートから世界を読む
藤井光《解剖学教室》2020
藤井光《解剖学教室》2020

被災地から運び出された収蔵品

その場所にあるはずの物がない、いるべき人がいない。あるいはその逆に、あるはずのない場所に物があり、人がいる。「場」を変え、人やものを移動させることによって際立つ存在と不在。映像というツールを巧みに操り、存在と不在に注目しながら、藤井光は社会と歴史に関わる問題にラディカルに切り込んでいく。

東京都現代美術館がカディスト・アート・ファウンデーションと協働して企画した展覧会「もつれるものたち」に出品された藤井の作品《解剖学教室》は、災害と物、人をめぐる複雑な関係をあらゆる角度から観察し、ときに挑発し、徹底的に議論するというきわめて刺激的で実験的な作品だ。

東京都現代美術館の展示風景
東京都現代美術館の展示風景

会場の展示台には、古い土器、民具、鳥の剥製などが置かれており、梱包されていて中身が見えない物や、プラスチックのトレイに入った何かの破片もある。トレイには双葉町教育委員会の文字が見える。博物館で調査中の考古学資料だろうか。さらに展示台の奥の壁には、フランス語で討論する人々の様子を映した映像作品がある。

映像を見るうちに、これらの展示物が、双葉町歴史民俗資料館の収蔵品であることがわかる。2011年3月の福島第一原子力発電所事故の後、帰還困難区域内にあった資料館は閉鎖された。その後学芸員たちの尽力により、放射線量が安全基準に達した所蔵品は別の場所に移して保管されたが、立ち入り時間は制限され、作業が完了するまでに3年を費やしたという。一点一点の作品を点検して放射線量を測る作業の場面が映像に挿入されている。

《解剖学教室》2020
《解剖学教室》2020

パリで繰り広げられる議論

映像の主な舞台はパリ国立高等美術学校。フランストップの伝統ある美術学校である。17世紀に美術の学生と医学生がともにそこで人体の内部を観察して描き、今も解剖学の授業が行われているという解剖学教室に人々が集まり、議論が行われた。このイベントに先立ち、藤井は2019年の4月に登壇者の何人かを日本に招き、震災後の双葉町の資料館を訪れていたのだった。ツアーに参加したのはフランスの「Call it anything(F93)」という緩やかなコレクティブ(グループ)で、福島の災害に関する考察を試みることを目的としている。メンバーには高名な人類学者や美術史家、哲学者などの専門家が名を連ねている。

《解剖学教室》2020
《解剖学教室》2020

討論の内容は実に刺激的だった。パリ国立高等美術学校の文化遺産主任学芸員であるアリス・トミーヌ=ベラーダが、フランス革命後、過去の王朝を象徴する物として批判と破壊の対象となった王侯貴族の収集品に言及する。それらが救出されてこの美術学校に持ち込まれ、保存された歴史について語り始めると、美術史家のパトリシア・ファルギエールは「博物館の話から始めるのは簡単だが慎重になるべき」と注意を促す。権力を伴う「公共機関の罠」にはまってはいけないと。自分たちのアプローチはそれとは正反対のもの、集合体の活動のダイナミクスや運動であるべきだという。

人類学者でフランス国立科学研究所センター教授のソフィー・ユダールは、双葉町の資料館を案内された時に、空になったケースにかつて展示されていた物について、まるでそれらがまだその場所にあるかのように説明する学芸員の二層化された語り口について話す。それはゴーストに出会うような奇妙な体験だったことだろう。

ふと、2016年に同じ会場である東京都現代美術館で行われた「MOTアニュアル2016 キセイノセイキ」展での藤井の作品《爆撃の記録》を思い出す。そこには空っぽの展示台がいくつも並んでいたのだ。

《爆撃の記録》2016
《爆撃の記録》2016

東京大空襲の資料を集めた東京都平和祈念館の構想が議会で紛糾し、20年以上実現が頓挫したままであることに藤井は注目した。幻のミュージアムの存在を示すために、藤井は戦災資料目録を頼りに作成した作品キャプションを、空の展示台に貼ったのである。なぜそこに物がないのか。なぜ「あってはいけないのか」。不在によって存在は強調される。

時間の乱れと災害の「表象」の問題

哲学者でベルギー国立リエージュ大学教授のヴァンシアーヌ・デプレは、震災によってシェイクスピアのいう「時間の乱調」が起き、複数の時間の層が現れたと指摘する。外部へと救い出された収蔵品がある一方で、この区域外へ避難した人々の家財道具が資料館に預けられたのだ。数千年にわたる人間の生活の痕跡を収集してきた資料館の直線的な時間の流れは崩れた。「圧力釜が現代の考古資料になった」と彼女は言う。歴史的に残すべき重要な物を吟味して収蔵するという、博物館の時間と意味の概念がねじれたのである。

一方、ツアーに参加していないアーティストのアリ・シェリは、「厄災を目撃したあなたたちが目の前のものに魅了されてしまったのではないか」と批判の言葉を挟む。ナチスドイツによるユダヤ人の大量虐殺同様に、厄災の表象の不可能性について触れたのである。

《解剖学教室》2020
《解剖学教室》2020

アリに応答してヴァンシアーヌは、表象とは「再び生じること」だと語る。過去を現在に留めるためにしっかりと記憶し、保存し、次に備えることが必要なのだと。ここで彼女が述べる「表象」とは、カタストロフィック(破壊的)な事象に魅了されて表現する「アート」ではなく、冷静な観察の上で未来を考えること、過去を失わないようにすることを意味しているだろう。

いつ起こるかわからない次なる厄災

アーティストのナターシャ・ニジックは、地震や津波とは性質が異なり、原発は「継続的に厄災を産む生き物」だと述べる。いつ起こるかわからない禍について、集団が恒常的に意識している状態は「夜警」のようなものだと、厄災の間に身を置き続けるこの時代の緊張を分析する。

そしてこの議論から1年も経たないうちに、コロナウイルスの世界的蔓延という、誰も予測することのできない規模の厄災が起こったのだ。これまで私たちが信じてきた制度や価値やライフスタイルは暴力的な転換を迫られた。大規模な人と物の移動が必須の現代において、パンデミックの広がりは防ぎようがなかった。そして放射能とウイルスという目に見えないものへの恐怖と不安は持続する。

議論することの重要性

今回の藤井の展示において、双葉町の資料館にいつ戻るかもわからない、そして基準値以下とはいえ放射能に「汚染された」収蔵品を、東京の美術館に持ち込んだことの意義は大きい。電力をはじめ、あらゆる利便性をむさぼりながら危険を地方に押しつけ、問題を「見ない」ようにしている首都東京で、これらの物質が含む生々しい問題をはっきりと視覚化したのだ。

そして何より感嘆したのは、パリでの議論の内容である。資料館に始まる博物館をめぐる問題も、20年以上美術館に勤めた筆者にとってはきわめて興味深かった。物を収集し、保管・展示し、次世代に残していくという文化伝搬のシステムそのものにポリティカルな力が潜んでいることを改めて思い知らされる。

《解剖学教室》2020
《解剖学教室》2020

筆者がイギリスの大学院でミュージアム・スタディーズを学んでいたとき、考古学者の教授が強調していたのは「中立な物質などありえず、全ての物質は政治的である」ということだった。なぜここにあるのか。誰が何のために収集したのか。なぜ大切に保管されているのか。そしてもちろん、それらの大半はほんの一握りの王侯貴族や富豪に所属する。教授がさらに忠告したのは「ミュージアムにない物と、それを使っていた人たちについて想像するべき」ということだった。私たちが最も注視すべきは、目に見えない物、見ようとしていない物、「不在」についての考察なのだ。

フランスの知識人たちが、福島の原発の問題を他人事とせず、被災者や資料館の学芸員などの当事者たちを尊重し、旅や出会いに身を委ねながら「運動体」として場に接近し、歴史、時間、表象、厄災について濃密な議論を交わす真摯な姿に心を打たれた。きわめてデリケートな話題であってもひるむことなく、それぞれの知見を総動員し、批判の自由も保証しながら、解決を目的とせずに異なる意見を提示し、それを発展させていくこと。このような場にこそ、知と感情を、そして自由を共有する可能性があるのではないだろうか。

目に見えない新たな厄災に世界が覆われた今、あきらめや孤立ではなく、知と想像力をはたらかせながら、議論を通した豊かな関係性と連携を目指したいと強く思う。

展覧会情報

もつれるものたち(終了)
東京都現代美術館
2020年6月9日ー9月27日