オークションの熱狂、バブルの狂騒 日本人アートディーラーが語る美術市場の光と影

私がアートの世界に興味を持つようになったのは大学生のころ。慶応大学経済学部で経済史を専攻したが、当時ゼミの教授が何でも好きなことを研究していいと言うユニークな人で、私は迷わず「美術品市場の歴史」を卒業論文のテーマに選択した。
卒業後、1983年に西武百貨店に就職したのも、世界2大オークションハウスの一つ、サザビーズと提携していたのが理由の一つだった。この世界で10年ほど勉強し知識や経験を蓄えたら、独立して国際的な美術品取引の現場で働くことを目指していた。
入社3年目、西武の美術品取引の部門で働いていた私に大きなチャンスが巡ってきた。1986年から1987年にかけて西武の企業留学としてサザビーズで研修を受けることになったのだ。
研修はロンドンとニューヨークで計2年間。この貴重な経験が、私のその後のアート人生を決定づけたと言っていいだろう。
私たちの仕事に求められる基本的な能力は、様々な作品を見て、それがいつ、だれによって描かれたものか、そして、どのぐらいの価値があるかを見極めること。絵画ならそれが何年ごろに描かれたピカソの絵で、どのぐらいの価値があるか。古い家具なら、それがルイ15世様式の肘掛け椅子で、18世紀半ばぐらいの価値あるものであるかといったことをすらすらと言えなければ、そこから先の専門的な部署には進めない。
半年間のアートコースを終え、サザビーズでの最初の配属先はロンドンの印象派部門だった。
バブル期の日本では印象派の近代絵画が続々と購入され、オークションハウスでも花形部署だった。当時26歳の若造だった私は、まず美術品の来歴調査や文献によるリサーチの仕事を主にやらされた。
「エキスパート」と呼ばれる指導役の女性から1枚のポラロイド写真を渡された。ルノワールの作品だとすぐに分かった。彼女の指示はサザビーズのライブラリーで展覧会カタログや総作品目録などの文献から、その作品を探し出すことだ。
さらにオークションでの売買データを収集し、それらの情報をファイルに記録していく。当時はまだインターネットも検索エンジンも一般に普及していない。すべてが手作業だった。
とにかく、かたっぱしから文献を広げて付箋をつけていく。資料ひとつ見つけるのに3日間かかったこともあった。骨の折れる仕事だった。
他にも私のような研修生がアメリカ、スイス、フランスなど世界各国から集まっていた。その多くは20代の若者たちで、企業からの派遣だけでなく、私費で留学している人もいた。当時、日本人は私が初めてだったと思う。
ある時、私はライブラリーの文献が非常に探しにくいことに気づいた。アルファベット順に並んでいなかったり、棚の離れた場所に置かれていたり。あまりに不便なので指導役に、「日本には図書カードというのがあって、文献の保管場所を探すにはとても便利だ」と説明したら、「あなたがそれを作ってくれない?」と頼まれた。
仕事が増えて「しまった」と思ったが、1枚ずつタイプを打ち込んでカードをこしらえたら、「これは使える」とみんなに喜んでもらえた。
ひとりで作業したことで、カードの内容もいつの間にか頭の中に入っていた。そこで覚えた重要な参考文献の情報は、現在の仕事のベースになっている。
サザビーズの地下にある倉庫は、とても興味深かった。一言でいえば、まさにカオスである。
現在はかなりの広さになっていると思うが、当時は一般家庭のリビングを2倍にしたほどのスペースしかなかった。ルノワールの作品もあれば、モネの「睡蓮」もあった。
そんな名作の数々がほとんど整理整頓もされず、せいぜい段ボール1枚をかませたような状態で無造作に保管されている。美術品は箱に入れる日本の文化を知る私としては、非常に雑に見えて、とてもおっかなく感じたのを覚えている。
続くニューヨークでの研修は、現代アート部門に配属された。
オークションの準備や運営にも携わった。当時オークションといえば、まだ紳士淑女のたしなみといった雰囲気が残っていた。花形の印象派オークションだと、ロンドンとニューヨークで春と秋の年2回ずつ行われ、お客様も社員もドレスアップして参加する。
「セールルーム」と呼ばれる会場は、バスケットボールのコートぐらいの広さで、300人分の椅子がびっしりと並べられた。一時ニューヨークでは一度に2000人が参加し、セールルームに入りきれないため、別会場を設けてメイン会場とテレビ中継でつないで競りの様子を見られるようにしていた。
日本のバブル期には約200人の日本人画商らが大挙してやってきた。私は配属先から頼まれて、そういう日本人参加者の座席表を作成した。
日本人の同業者にもライバルがいる。「あいつの隣は嫌だ」とか、「隠れて会場の後ろの方で競りたい」「柱の陰がいい」といった要望を聞きながら苦労して座席表をつくったのを覚えている。
オークションの仕切り役がカンカンと木づちを鳴らし、「皆さま、今日は印象派のセールによくおこしくださいました。ロットナンバー1番はこちらです」といった風にして、競りが始まる。
別会場からも同時に参加できるよう、メイン会場には連絡用の電話が10台も20台も設置されている。テレビ中継を見ながら、もしくは海外からメイン会場に電話がつながると、電話係がそれをさばいて指値をオークショニア(競売人)に伝える。会場からも続々と声があがる。そんな丁々発止の競り合いが、映画やテレビ番組さながらに行われていた。
最初はたいてい5人ぐらいから競り始める。11万ドル、12万ドル……とどんどん値段が上がっていき、最終的には2人に絞られる。互いに電話での争いになることもある。
1980年代後半、オークションで日本のバイヤーは絵画を高額で落札して異質な存在感を放っていた。サザビーズのオークションで日本人が当時約70億円でピカソの作品を競り落とした。
クリスティーズでも、ゴッホの「ひまわり」が日本企業によって約53億円で落札された。
当時の評価額は20億~30億円と言われていたのに、その2倍近い金額で競り落としたのだから、美術品市場としては大事件だった。それだけ日本経済の勢いがある時代だった。私自身、世界市場の約30%を占めていた日本市場の重要性をあらためて認識する機会にもなった。
1987年、サザビーズの研修を終えて帰国した後、私はクライアントの依頼を受けて西武百貨店でお客様の代理人としてオークションに参加するようになった。
東京からロンドンやニューヨークの競りに電話で参加する。オークションのあるシーズンは昼夜逆転の生活が何日も続いた。
ある時、ロンドンのオークションでモネの「睡蓮」を競り落としてほしいという依頼を受けた。指値の限度額は13億円。ポンド換算した金額をはじき出し、そこに至るまでにどのように値段を競っていくか綿密に戦略をたてた。現地の会場で電話係となる担当者とも上げ幅や競り合うタイミングなど、入念に打ち合わせをした。
だが、いくら準備しようとも、いったん競り合いが始まれば、最初5万ポンド刻みで上がっていた上げ幅が急に10万ポンド刻みに変わることもある。最後にクライアントの要望通り13億円で競り落とせたときは手にびっしょりと汗をかいていた。
翌日の新聞夕刊に、落札を伝える記事が載ったのを覚えている。
もちろん、失敗もあった。
忘れもしない、1987年のニューヨークの印象派オークションに会場で参加した時のことである。このセールは前述の約2000人の参加者が集う過去最大のオークションであった。会場に座っているだけで熱気と緊張感がひりひりと伝わってくる。
私は、フランスを代表する20世紀の画家ジョルジュ・ルオー(1871~1958)の大型作品を80万ドルで落札するよう、日本のクライアントから指示を受けていた。
西武の看板を背負う責任、そして、80万ドルという高額の指値。緊張と不安が、私の頭の中でないまぜになっていた。それと同時に大規模なオークションで、自分の判断で競り合うことに言いようのない高揚感と興奮を感じていたのも間違いない。
いよいよ競りが始まった。
私は静かに辺りを見渡しながら、できるだけ目立たないように競ることを心掛けた。競争相手を刺激しないようにするためだった。
想定する指値に近づくにつれて、緊張と興奮が高まっていく。気持ちを抑えながら慎重に競り上げ、目標の80万ドル付近まで達した。そう思ったときだった。
突然、会場の後ろの方から声が上がった。
「82万ドル!」
まずい。すぐに差し返そうと思ったが、指示された金額以上には上げられない。逡巡(しゅんじゅん)している間に、結局その参加者にもっていかれてしまった。
いったい何者だ?
後ろを振り返ると、業界では名の知れた日本のベテランディーラーだった。相手はおそらく、私が西武の若造で、クライアントに頼まれて競り落としにかかっていると見抜いたのだろう。日本に買い手がいるのなら、ここはとりあえず多少値がはっても買っておこうと強気で競ってきたのだ。
ここからはあくまで想像だが、クライアントが誰かもおおよその察しがついていて、後でそのクライアントに少し高めだけど買わないかと持ちかけたのかもしれない。いずれにしても、相手が上手だった。
正直、落ち込んだ。業界の厳しさと奥深さ、この経験から学んだことはものすごく大きかった。その後のキャリアにも大きな影響を与えた出来事だった。
「イトマン事件」。この事件を抜きに、私のアート人生は語れない。
大阪の中堅商社・旧イトマンから絵画取引やゴルフ場開発の名目で数千億円ともいわれる資金が地下経済に流れたとされる事件である。
特別背任容疑などで会社関係者や「地下経済のフィクサー」と呼ばれた人物らが逮捕、起訴され、「戦後最大の経済事件」と称された。
美術品取引の業界にイトマンの名が知れわたるようになったのは、1980年代後半のことだ。この会社が突然、高額な美術品を買いあさっているという情報が広まり、美術商がこぞって作品を持ち込んだ。
当時、西武の高級美術品・宝飾品の取引を扱う会社「ピサ」に勤務していた私も、イトマンとの大型取引に関わっていた。取引の中には、国際的に通用する代表的な現代アートも含まれていた。
バブル経済の真っただ中、美術品が投機の対象として短期的に値上がりしていた。「今この絵画を買っておけば、半年後には3倍になっているかもしれない」――。そんな認識が社会に広がり、闇社会の資金も美術市場に大量に流れ込んでいた。
突然、その時は訪れた。1991年の元旦、朝日新聞がイトマンをめぐる絵画取引の不正疑惑をスクープすると、大阪地検や東京地検が本格的に捜査に乗り出した。
私が勤めるピサにも、イトマン事件の捜査の一環として、麹町署の刑事、東京地検、大阪地検、国税局、監査法人、東京税関など様々な機関が調査に訪れ、任意ではあるが、帳簿類や在庫一覧などの提出を求められた。私は現場で指揮をとり、提出書類の選別などに追われた。直属の上司は取り調べを受け、手帳まで押収された。
私自身、通常業務と捜査対応の両方に対応しなくてはならなかった。当時、会社としてイトマン事件の犯罪にいっさい加担したわけではないと信じていたから、その疑惑を晴らすために苦労したのを覚えている。
その時はとにかく必死だったが、日本の経済史と美術業界の歴史に深く刻まれたイトマン事件の現場を垣間見たのは、「時代の生き証人」として貴重な経験だったかもしれない。
私が慣れ親しむ国際的な美術市場とはまったく別の世界が、日本の美術市場には存在している。「交換会」と呼ばれる日本独特のシステムだ。
これは、主に日本絵画や古美術品を扱う業者間で行われるオークションで、大規模な交換会は全国5か所で年10数回ほど、小規模なものなら地方を中心に頻繁に開催されているといわれている。
国際的なオークションとは違って、美術商の組合に所属する人だけに参加資格があり、一般人は参加できない。会場も座敷や広場で行われ、電光掲示板などはなく、畳や椅子に座って持ち寄った作品を競り合う。
交換会の大きな特徴の一つが、互助会のような仕組みだ。
会員たちは一定額をそれぞれ出資し、交換会のためにまとまった資金をプールしておく。ある会員が売りたい作品を持ち込み、他の会員が購入を希望して競りで取引が成立すれば、プールした資金から売り手に即座に支払いが行われる。こうすることで、購入者は支払いに猶予が与えられ、その間に次の買い手を探すことができる。資金力のない会員でも取引に参加できるメリットがあると言われている。
西武を退社後、1995年にアート・コンサルティング会社を設立し、2010年からクリスティーズジャパンの代表を務めていた当時、私は一度だけある交換会を見学する機会を得た。
その時はまさに、「外野席」のような所から競り合う様子を観察した。伝統的な交換会の参加者からみれば、私は「黒船」も同然に見えたに違いない。
警戒されていたのだろう。交換会を取り仕切る理事に、「あんた、クリスティーズなんだって?」とにらまれたのを覚えている。
交換会は日本的な、ある意味「ガラパゴス的」ともいえる仕組みだが、業界の既得権益を守るための仕組みであるのだろう。業界内の取引を円滑にし、外部からの介入を防ぐメリットもあると思う。
バブル崩壊後、日本の美術市場は様変わりした。世界中の美術品を買い漁っていた日本のコレクターがこんどは売り手に回り、この30年間で約1兆円相当が海外に流出したと推定されている。
1990年ごろ1兆円規模とされた美術市場が近年、約1000億円規模に縮小し、日本の伝統的な美術品の価値が下落し続けている。現代アートに興味を示す若い世代のコレクターが増え、伝統的な日本美術への関心が薄れていることも、その原因の一つだろう。
他方、日本の国立美術館・博物館は深刻な財政難に直面している。独立行政法人化後、国からの予算が減り、運営が困難になっている。
海外の美術館のように寄付文化を育成し、財政支援の仕組みを確立する必要性があるのではないか。美術館や財団による美術品の売却も、財政難を解決する一つの方法として検討されるべきだ、と私は考えている。
日本の美術市場を活性化させるためには、国際的なマーケットで新しい価値を見出す必要もあるのではないかと思う。
注目すべき変化も起きつつある。最近、国内オークションには若い世代の参加も少しずつ増えており、一部の参加者は国際的なオークションハウスとの協力を模索しているという。伝統的なシステムも少しずつ変わっていくのではないか。
今後、日本の美術市場が国際的な競争力を取り戻し、新たな価値を創造していくためには、従来の慣習にとらわれない革新的なアプローチが必要ではないだろうか。アートディーラとして、日々そんなことを考えている。