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「エル・ブリ」に始まった革新的で前衛的な料理 どこまで許される?

マイケル・ブースの世界を食べる
外山俊樹撮影

客を試す、挑発する、ときにはいら立たせる料理を出すレストランは、果たして受け入れられるのだろうか。従来のおもてなし精神には反するが、革新的料理人を自任するシェフたちがいる。彼らの店では胃袋を満たすことよりも思考を拡張させることが優先される。見栄えに影響を与え、厨房が驚きやショックを生み出すことを後押しするソーシャルメディアの存在もある。

私も最近、前衛的でおしゃれ、あるいは「浮世離れした」レストランで、何度か「困難な」時間を過ごした。

最近訪れた香港の料理店「ハッピーパラダイス」では、豚の脳みそに続き、ハトのローストの上に、その不運なハトの黒こげの頭部が乗って出てきた。2月にはコペンハーゲンの「ノーマ」で、魚のうきぶくろを使った一皿が出た。昨年11月には、ポルトガルの「オーシャン」で、現代チリ料理界の異端児、ロドルフォ・グスマンの料理のあちこちに、採りたての苦い野草が使われていた。同席の客は食べ切れないか、最初から口に運べないかのどちらかだったが、私は喜び勇んで食べた。食べさせるだけの料理ではなく、考えさせる料理だったからだ。

私が思うに、こうしたトレンドの始まりは、調理中の食品の変化を分子レベルで解析するなどという「分子ガストロノミー」を世界にもたらした先駆者、カタルーニャ(スペイン)の「エル・ブリ」からだろう。

2011年の閉店直前に私が食べた料理では、ウナギやタコなどいろいろな生き物の赤ちゃんが丸ごと出た。多くのコースで野ウサギが使われた。野ウサギのコンソメスープがかかったボウルいっぱいの野イチゴには正直ゾッとした。独創性だけを求めると行き詰まる。それでも私はこうした料理を「我が人生の一皿」として振り返る。それはシェフのフェラン・アドリアが何かに挑んでいたと感じられ、彼の飽くなき発明を目の当たりにしたからだ。

■まず何でも試してみる

新奇なものを求めることは、私が日本の食事を好む一つの理由でもある。普通は出くわさないような料理や食材を味わえると知っているからだ。植物のイタドリや、鶏の刺し身が食用に適しているなんて知りもしなかった。西洋人は鶏肉を生で食べることに心理的抵抗があるが、それでも逆らえないほどおいしい。

中華料理の食感もまた、たびたび西洋人の快適な領域を超えてくる。つるつるしている。スポンジやゴムのような弾力がある。かみ切れない。軟骨やコラーゲン、ナマコ、鶏の足、ナガイモなどだ。しかし、子供たちにも言っているが、なんでも一度は試すべきなのだ。

評論家たちは、客の喜びよりもシェフのエゴやミシュランへの野心を大事にしていると批判する。おおよそ真実だろう。見当はずれな自己主張や自己満足、自己顕示欲はよく見られる。多くのシェフが、客に食べさせる15~20皿全てをじっくり食べたことはないと思う。でも、いい厨房のシェフはみな本当の意味で革新的になれる。新しいことや普段は踏み込まないような味覚の獲得への挑戦を後押しする。問題は、どこまでやるべきか、ということだ。

食に対するこうしたアプローチは慎重に扱う必要がある。客との合意があってこそだ。いきなり料理に虫を入れてはいけない。攻める料理は一度の食事にせいぜい一皿にとどめたほうがいいだろう。

とはいえ、口に運ぶのをためらわせたり、たじろがせたりする以上に不愉快なのは、退屈な料理だ。イギリスの田舎町のガストロパブやフランスの多くのブラッスリー、有名シェフが展開するチェーンのレストランで出されるありがちなメニューだ。

脳みそに昆虫、雑草に(ナマコなどの)棘皮(きょくひ)動物、何でもござれ。どこかの哲学者もかつて言っていた。「最も優れた胃袋は、ほとんどの食べ物を拒絶しない」(訳・菴原みなと)