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ヨーロッパのシェフと日本の職人 イタリアの食の都で考えた、その違い

マイケル・ブースの世界を食べる
北村玲奈撮影

最近、イタリアの中でも住民が裕福な街モデナを訪れた。偉大なる食の都の一つであり、ヨーロッパでも指折りの豊かな農業地域の真ん中に位置している。ランボルギーニについてのラジオドキュメンタリー番組の収録が目的だったが(私はランボルギーニが大好きなのだ!)、イタリアで一番有名なレストランがモデナにあるとも知っていた。世界のベストレストラン50で1位になったこともある、ミシュラン三ツ星レストランの「オステリア・フランチェスカーナ」だ。

急に決まった旅だったので席は埋まっていたが、シェフであるマッシモ・ボットゥーラがモデナ郊外で「カーサ・マリア・ルイジア」というホテルを経営しており、そこのレストランなら席を用意できると受付係が教えてくれた。その店のメニューはオステリア・フランチェスカーナの伝統的な料理で構成されていて、本家ではもう出しておらず、そしてこの先も出すことはたぶんないだろうだって? ふむ。そんなポップミュージックグループのベストアルバムのようなことが、食にもあるだなんて。私は予約を決めた。

ボットゥーラは昨年秋、銀座のグッチ旗艦店の最上階にレストランをオープンしている。私の(借りた)黄色いランボルギーニをカーサ・マリア・ルイジアへと走らせながら、ボットゥーラと、私が敬愛する日本のシェフたちのアプローチの違いは何か、思いをめぐらせることとなった。

■「完成された料理」はあるか

日本のシェフが、自身の「伝統」というべき料理を提供するために別のレストランを開くとは想像しがたい。それは日本人らしくないやり方ですよね。第1に、ちょっと自分を大きく見せすぎというか。「私の料理は重要かつ画期的だから、そのための店を出すに値する」とでも言うような。

第2に、ほとんどの日本のトップシェフにとって、完璧であるゆえそれ以上の洗練を必要としない「完成された料理」という考え方は、どこか奇妙に映るのではないだろうか。日本では何年も、ときには何十年もかけて絶え間なく洗練し、調整し、改善するというやり方がより一般的だろう。ある一つの料理にしてもその種類にしても、他の多くの料理にしても。銀座の伝説的すし職人で、80年の歳月を握りに捧げてきた小野二郎はその一人。彼が望むのは、自分の店で食事をするときはいつでも、そのとき握れる最高のすしをお客が楽しめること。一方、同じく銀座にある「壬生」の石田廣義も技を磨き上げることに職人人生を捧げているが、同じ料理は二度はつくらないとも言われている。壬生の料理には、決して再現されることのない、だからこそ慈しむべき、完璧なはかない一瞬であってほしいということなのだ。

マッシモ・ボットゥーラを批判したいわけではない。あくまでヨーロッパの「偉大な」シェフと、日本人同業者たちのアプローチの違いを述べているにすぎないのだが、私はそこに、それぞれの文化の何か根源的なものがあると考えるのだ。一方は栄光を求め、次なる高みへと進んでいく。もう一方は、絶えず洗練と改善を追求する。

ボットゥーラは、食の世界屈指のストーリーテラーでもある。どの料理も、自身が生まれた土地の歴史や、彼の芸術、料理、人生へのアプローチなど語るべきことを持っているのだ。カーサ・マリア・ルイジアでは、最も知られた一皿「おっと! レモンタルトを落としちゃった」(こういう一風変わった名前が彼の料理には多い)で締めくくられる食事を大いに楽しんだ。

しかしながら何より良かったのは、オステリア・フランチェスカーナにいたら感じたであろう静まり返ってうやうやしいミシュラン的な雰囲気ではなく、広々とした共用テーブルで食事ができたこと。ワインのグラスが進むように、新しい友人との会話も弾んだ、というものだ。

そういう意味では日本にあるお気に入りの店、大阪の割烹(かっぽう)料理店を思い出す。そこでは皿の上に乗ったものと同じように、気安さが大事な決め手となるのだ。おもてなしの世界へ向けて、ためになる日本の知恵がまた一つ。(訳・菴原みなと)