■人口の1割が受験生
「わが校から統一入試6位を輩出!」「全インド女子1位!」――。人と牛が行き交う市街地に入ると、そんな看板が続々と現れる。子供たちの顔写真の下にずらりと並ぶ数字は、入学試験のランキング。成績優秀な塾生を輩出したことを宣伝する進学塾の広告なのだ。ここは、インド北西部の地方都市コタ。大小の予備校や進学塾が軒を連ね、「私塾産業の震源地」と呼ばれている。
とくに目立った産業もなく、半ば眠ったような田舎町が一変したのは1990年代。この町に開校した小さな私塾が、世界でも超難関と言われるインド工科大学(IIT)に合格者を輩出したことが評判を呼び、インド各地から受験生が殺到。他の塾も相次いで参入し、遠方からの生徒のために寮が続々と建てられた。いつしか、「教育」が町の主要産業の一つとなり、現在、コタの人口の1割に当たる約15万人が親元を離れて寮暮らしをしながら受験勉強に明け暮れている。
大手予備校「バイブラント・アカデミー」で学ぶアビラル・バンダニさん(16)も、その一人だ。「IITに合格できたら、修士課程は米マサチューセッツ工科大学に入りたいです。ゆくゆくはサイバーセキュリティーの専門家になって、グーグルに就職するのが目標です」
最高峰といわれるIITは、国内に23のキャンパスがあり、進学するには統一入試で競争率100倍以上の狭き門を突破しなくてはならない。グーグルなど名だたる大企業の幹部らを輩出しており、IT産業で将来の成功を夢見る若者やその家族にはあこがれの的だ。
IT業界への就職熱に一役買っているのが、ヒンドゥー教のカースト制度。バラモン(司祭)、クシャトリヤ(武人)、バイシャ(庶民)、シュードラ(隷属民)の四つの「ヴァルナ(原意は肌の色)」は日本でも知られているが、さらに細かい「ジャーティ(原意は生まれ)」という職業カーストに分かれており、その数は3千とも言われる。カースト差別は憲法で禁止されているとはいえ、インド社会には結婚などに今も色濃く残る。農村部では被差別カーストが世襲の職業以外に就くのは難しい。高カーストからの外圧があるため、被差別カーストが自粛することも多い。しかし、都市部での新しい職種のIT業界なら、こうした職業カーストの枠を乗り越えられる。被差別カーストの出身でも才覚と努力で社会的な成功と高給を手にするチャンスがあるのだ。
IT企業側も、優秀な人材を見極めようと懸命だ。5月22日、インド南部の都市ハイデラバードで開かれた、アジア最大級の人事業界のイベント。12カ国、500を超える企業が出店した会場は、インドの人事・人材開発の関係者であふれかえっていた。なかでも人気を集めたのが、人材採用の評価システムを扱うブースだ。「この国では、一つの職に数千人が群がってくる。一方で、地方には手つかずの才能が眠っている。いかに効率よく優秀な人材を見極めるか。それが重要です」。地元の人事ソフト大手の営業部長、ティマンシュ・オーリさん(30)は、そう語る。
この5年間、インドは年7~8%の高い経済成長を続ける一方、国民の4割超が20歳未満で、毎月約100万人が労働市場に加わる。若者の就職難が深刻な社会問題になっている。
インド社会に詳しい大東文化大学教授の篠田隆さん(68)は、一昔前の日本の状況とも重なると言う。「良い大学に入って、良い会社に勤め、高い給料をもらうことが重視される。学校教育の序列化が進み、著名大学を出ないと名の知れた民間企業は相手にしない。だから教育産業がビッグビジネスになっているのです」
■「競争がやる気にも」
2010年開校のバイブラントの塾生は現在、16~18歳を中心に約7000人。週6日、IIT出身の講師陣から、効率よく短時間に解答するテクニックを1日4時間みっちり伝授される。授業の後も多くの塾生が寮の自室で8時間以上は勉強する。4週おきに受ける模擬試験の順位に一喜一憂する。
バイブラント代表、ニティン・ジャインさん(49)は言う。「どんな秀才でもテクニックを知らずにIIT合格は難しい。かつて田舎の子供が合格するのは夢のまた夢だった。彼らにチャンスを広げる役割を、我々が担っているのです」。受験生の多くが2年間のコースを選択するが、合格できず4年通う生徒も少なくないという。
塾生のデビナ・アグロワールさん(16)は目を輝かせる。「毎日8時間ぐらい勉強しています。確かに競争は激しいですが、同時にやる気にもつながっています」
バイブラントの年間の授業料は、インドの1人当たりの年間所得に匹敵する約2000ドル(約22万円)で、これに寮費が加わり、一般家庭に重くのしかかる。それでも、とジャインさんは言う。「母親が付き添って寮に住み込み、父親が仕送りを続ける。子供の将来の成功のため、家族がスクラムを組んで闘う。激しい競争がスタートする年齢は年々、早まっています」。保護者の強い要望に応えて、11歳からのジュニアコースも開設したという。
■外れやすい扇風機に
しかし、激しい競争は「副作用」も伴う。IIT入試には本人の夢だけでなく、家族の期待も重くのしかかる。成績が伸びずプレッシャーに耐えられなくなり、自殺する子供たちが相次いでいる。政府当局の統計によれば、15年には約2600人が試験の成績不振を理由に自殺した。天井の扇風機にひもをかけて首をつるケースが後を絶たないため、バネを取り付けて一定の重みがかかると、天井から外れやすくした機種が売り出された。
受験生のデバンシュ・ビシュワカルマさんは、東部の田舎町からコタの大手塾に入ったものの、15年6月に自ら命を絶った。18歳だった。基礎学力が足りず、塾でテクニックを習っても勝てない。そんな悩みが遺書に切々とつづられていたという。
伯父のプリトビラージュ・ビシュワカルマさん(57)は悔やむ。「おいは模擬テストの点数をいつも気にしていました。親に経済的な負担をかけたくない。そんなプレッシャーも感じていたと思います」
■評価ゆがめるカーストの残照
ゆがんだ「評価」に希望を見いだせず、国を捨てる若者が後を絶たない。インドでは、貧困や格差を解消するために大学入試や公務員採用などに際して、被差別カーストの人々などを対象に優先枠がある。「留保制度」と呼ばれ、政治と結びつき徐々に対象枠が拡大。上位カーストの人々の間には「逆差別だ」という不満がくすぶっている。実際、この枠に阻まれ、上位カースト出身の若者たちが大学入試や公務員採用で高得点を取っても合格が難しくなる事態が生じている。
西部プネー出身のアトレー・シュレヤスさん(23)は、最上位のバラモンの家に生まれた。外国でも人気のインドのロースクールをめざしたが、猛勉強のかいもなく不合格。「1日7時間も机にかじりついて、塾にも通いました。そのおかげで試験は満足のいく出来で、合格できると思っていたのに、実際は僕の半分以下の点数で優先枠の生徒が合格したと知ったときはショックでした。カースト制度のせいで弁護士の夢を台無しにされました」
アトレーさんのように希望の大学に入れなかった上位カースト出身の学生の多くが、米国やカナダの大学院に進学するという。現地で就職して、永住する人も多い。アトレーさん自身も17年から埼玉大学教養学部に留学し、居酒屋でアルバイトをしながら大学院をめざす。
流暢な日本語で、アトレーさんは言う。「競争はけっして悪くない。でも、頑張っても正当に評価されない社会はおかしい。このままだと、インドから優秀な人材がどんどん出て行ってしまうと思います」