1. HOME
  2. 特集
  3. 入試とエリート
  4. 点数主義、是か非か グローバル社会で渡り合うために

点数主義、是か非か グローバル社会で渡り合うために

Learning 更新日: 公開日:
東大赤門

東大法学部の凋落

東大に異変が起きている。

灘高から海外の大学を目指す学生はまだまだ少ない一方で、2015年の東大合格者数は、生徒数219人に対して94人。私が灘を卒業した1983年と比べても東大志向は変わらないと思いきや、内訳は大きく様変わりしていた。

83年当時は、文系の合格者57人、理系は66人と拮抗していた。ところが、昨年は文系28人、理系61人(中・後期合格者除く)と大差がついた。特に文科一類は、43人から13人へと3分の1以下に減った。東大文一を志望する2年生の駒井裕介(17)は「校内でも文系の志望者は『おまえ文系?』と、ちょっとなめられている印象がある」と悔しがる。

なぜ、文一の人気は凋落したのか。

教頭の大森秀治は「灘校生が変わったというより、社会の変化が大きい。文系の花形職業がなくなり、安定した将来像を描けなくなった」と指摘する。

かつての東大法学部出身者が目指す就職先は「中央官僚か法曹界、民間では金融」だったが、官僚は相次ぐ不祥事や天下り廃止により、社会的地位も収入も落ち込んだ。法曹界も司法試験改革後は、安定と高収入を保証された仕事ではなくなった。金融業界も先行きは見えない。実利面から見る限り、東大法学部の魅力は大きく損なわれた。

エリート・ヒエラルキーの崩壊の兆し

文一、法学部の人気低落は灘高に限った話ではない。13年、そして今年の入試では、かつては考えられないことだったが、センター試験成績による足切り(第1段階選抜不合格)が実施されなかった。文一で入学しても3年生の時点で法学部以外に進む学生が増え、13年、15年には法学部の定員割れが起きた。

東大法学部は明治期に、中央官僚という国家のトップエリート育成を目的に設立された。にもかかわらず、最も偏差値の高い層の受験生が東大法学部を目指さなくなったのは、日本のエリート・ヒエラルキーの崩壊の兆しではないか。

一方で、現在の灘校を席巻するのは医学部志向だ。83年の医学部現役進学者は28人だったが、15年は38人に増えた。不況だった5、6年前には、1学年のうち100人近くが医学部を目指したこともあった。

河合塾教育情報部長の近藤治は「全国レベルでも成績の優秀な生徒は、東大よりも医学部を目指す傾向が強まっている」と指摘する。東大の志願者数がほぼ横ばい傾向を続ける一方で、国公立大の医学部志願者数は、不況時には大幅に伸びる傾向が続いている。

医師は安定収入が保証された数少ない職業の一つだ。昔も今も、エリート候補生が進路選択で最優先するのは将来の安定なのかもしれない。

東大卒は、ハーバード卒と渡り合えるか

「今の大学教育や入試のままで、日本のトップレベル大学の卒業生が、グローバル社会でハーバードなど米国の超一流大学の卒業生と互角に渡り合えるのか、危機感を抱いている。下手をすればリーダーではなく、フォロワーに回らざるを得ないのではないか」。

2月中旬、安西祐一郎(69)は自らが理事長を務める独立行政法人日本学術振興会の応接室で、熱っぽく私に語った。安西は文部科学相の諮問機関である中央教育審議会の前会長として、また、昨年3月から始まった「高大接続システム改革会議」の座長として、2020年度からの実施を目指す大学入試改革を主導してきた立場だ。

2106年の大学入試センター試験初日の様子


だが、これまでの議論は順調とは言い難い。「実施年限を定めて改革を余りにも急いでいるのではないか」(日本私立中学高等学校連合会)「新しいテストのイメージが全然つかめない」(国立大学協会)などの批判が相次ぐ。現行の大学入試センター試験に代わる「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」については、当初予定していた複数回実施を先送りすることを検討中だ。

メディアの報道も含め、ともすれば「ペーパーテストの内容はどうなるのか」に関心が向かいがちだが、安西によれば、どちらかと言えば改革の枝葉の部分に過ぎない。本当に目指すのは「空洞化した教育と点数主義の入試からの脱却」だ。

安西は「あくまでもトップレベルの大学に限った話だが」と前置きしつつ、こう主張した。

学力テストは「合否の判断材料の一つ」

「ハーバードの学生は、ほぼ全員が『大人』。自分の経験や考えを元に即座にスピーチをこなし、年長者とも対等に話ができる。ベースにあるのは、学びに対する『主体性』だ。日本のトップ大学もそうした学生を入学させる必要があるが、今の点数主義の入試では選抜しきれない。相当数の合格者は受験勉強の先に何も見えていないのではないか。ペーパーテスト以外の方法で見極める必要がある」。

文科省が示す改革の概要の中でも、大学入学希望者学力テストは「合否の判断材料の一つ」という位置づけに過ぎない。エッセー、高校時代の課外活動、推薦書、面接などの要素を総合的に評価し、入学者を選抜するとしている。これは米国の一流私大が実施する「人物をみる入試」とほぼ完全に重なる。

安西も「合否の具体的基準となるアドミッションポリシーは、日本のそれぞれの大学が独自に決めるが、形式自体は米国のやり方と似ている」と認める。

改革が最終的に目指すのは、受験生の学力面での評価を「大学入学希望者学力評価テスト」や高校の調査書に委ね、各大学が個別に課する教科ごとの試験をできる限り廃止・縮小することだ。

教育産業では、安西や文科省の目標を先取りする動きがすでに始まっている。

米国型入試がグローバルスタンダードに

ベネッセは今年1月、国際的評価が高い「世界大学ランキング」を作成している英国教育誌「タイムズ・ハイヤー・エデュケーション(THE)」の運営会社と業務提携し、年内に日本版の「ベスト100大学ランキング」を作成すると発表した。仕掛け人の1人は、ハーバードに進学した高島や楠も通った海外大学向け進学塾「ルートH」の藤井雅徳だ。

「日本の大学で米国型入試が主流となれば、ペーパーテストの得点力だけを物差しに、生徒と大学をランク付けする現行の偏差値は意味を失う。偏差値に代わる、より普遍的な大学選びの指標を作ることを目指す」という。

藤井は「グローバル社会に適応できる人材を大学で育てるには、さまざまな背景、出自の学生を集め、学内にも多様性を創出することが必須だ」という。その主張は、画一的な「受験エリート」が優位に立つ筆記試験の比重が下がり、アドミッションオフィスが入試の主導権を握って学生を選抜することにつながるだろう。

「米国型入試がグローバルスタンダードになっていく。そうなれば国内入試と海外入試が一体化し、日本の受験生が海外大学に進学することも、海外の受験生が日本の大学に入ることも容易になる」と藤井は構想する。「日本の大学が海外からの学生であふれ、多様性が実現できて初めて、ハーバードと肩を並べる教養教育が可能となるのではないか」

米国の大学にはなれない/天野郁夫(東大名誉教授)

photo:Ota Hiroyuki

かつての日本では、大学入試とエリートの間には、確かな結びつきがありました。その典型例が、東大法学部卒業生の多くが高級官僚となり、その一部が保守政治家へと転身していったことです。

だけど、そうした「試験とエリート」との長い蜜月は終わりつつあります。一流進学校も医学部志向が強い。医師は優れた専門家ではあっても、社会を引っ張るエリートとは言い難いでしょう。

一方、志願者選考で「人柄で選ぶ」ことを基本とする米国の有名私大は、世界的に評価が高い。米国の大学は専門性よりも「リベラルアーツ」と呼ばれる教養教育を重視し、人間形成を主な目的としている。学生たちは全寮制の校舎で濃密な人間関係をとりむすび、教官と学生との距離も近い。入学時には専攻も決まっておらず、何を学ぶかは自由です。

日本の入試改革では、ペーパーテストの役割を限定し、米国の一流私大に近い入試を導入しようとしている。だけど何十年かけても、日本の一流大学は米国の私大のようにはなれないでしょう。目指す教育の方向性が違うからです。日本のほとんどの大学は入学時に専門分野が決まり、教養課程は軽視されている。基本的に専門家養成の場であり、人間教育にはあまり関心がありません。

指導層としてのエリート養成に重要なのは「どんな入試をするか」よりも、「入学してきた若者にどんな教育を施すか」でしょう。米国の私大が成功している主な理由も、入学してきた学生たちが自由な雰囲気と濃密な人間関係を体験できることにあると思います。

かつての日本で、米国の一流私大に最も近い雰囲気だったのは、戦前の旧制高校です。入試は完全な点数主義でしたが、教育では人間修養を重視し、学生たちは寮生活で濃密な人間関係を育んだ。洋の東西を問わず「自由と善き友、善き教師」が善きエリートを育む条件です。

現代の日本で比較的それに近い存在が、麻布、武蔵や灘など、中高6年一貫教育の歴史ある進学校でしょう。生徒数が少ない上に6年間一緒に過ごすので、人間関係は嫌でも濃くなる。高校入試がなく、自由な時間も多い。例えばこれらの学校が実践的な英語教育を徹底すれば、海外大学への進学が一気に増え、日本の一流大学も何らかの対応を迫られるでしょう。日本のエリート教育が変わるのは、こうした所からかもしれません。

あまの・いくお 1936年生まれ 東大教育学部教授として、高等教育や試験制度が近代日本にとって持つ意味を研究。著書「試験の社会史」など。

点数主義の方が多様だ/芦田宏直(人間環境大副学長) 

photo:Ota Hiroyuki

常識的に考えれば「点数主義の入試よりも人物主義の入試の方が、画一的ではない多様な学生を選抜できる」と思いがちです。でも、本当にそうでしょうか。

人物主義のハーバードは多様性を目指していますが、選抜される学生は圧倒的に富裕層が多い。大変高い基礎学力も前提になっています。点数主義の東大の学生も高所得家庭の出身者が多いが、ハーバードに比べればずっと多様な所得層から入学しています。ハーバードの多様性とは、富裕層と高い学力という画一性の上に振りかけられるスパイスに過ぎないのではないでしょうか。

なぜそうなるのか。「人物をみる入試」とは実は「本人の努力が届かない、育ってきた環境も含めて人を評価する」という選抜方法だからです。

面接で初対面の人に好感を与えたり、気の利いたスピーチをしたりする能力は、本人の意思や努力や先生の教育よりも、家庭や周囲の環境に左右されます。人物本位とは「育ちの良さ」を見ることの言い換えでしかありません。

一方、国語や社会など主要教科の学習は、経済格差や家庭文化の影響を最小化し、本人の努力が反映されやすい。教科書で勉強できるし、社会的な親とも言える図書館も無料で利用できます。それに比べ、美術や音楽は「育ち」の影響を強く受ける。

相対的に環境に影響されにくい主要教科について、ペーパーテストという公平な競争を行うことで、次世代のリーダー候補を選抜する。それによって世代ごとに階層がある程度シャッフルされ、欧米に比べ平等な社会が実現した。人物本位の入試になればシャッフル機能は失われ、階層の固定化が一層進むでしょう。

今、大学に必要なのは、入試改革の前に「どんな人材を育てるのか」という目標を定め、それを実現するカリキュラムや教員体制を作り上げることです。今の大学、特に文系の学部はバラバラの概論科目や選択科目ばかりで、各科目が有機的につながり、積み上げられていく一貫性のあるカリキュラムが存在しません。

職業教育でも教養教育でもいい。明確な目標を持った積み上げ式の厳密なカリキュラムをつくり、学生を4年間かけて徹底的に鍛え上げる。それによって初めて、学生の中に学ぶ意欲や主体性が形成される。入学前の学生に完全な主体性を求めるのは本末転倒です。

「どんな学生を育てるか」という目標とカリキュラムが定まって初めて「学校の方針に合う入学者をどう選抜するか」という入試の議論が可能となるのです。

あしだ・ひろなお 1954年生まれ。専門学校校長、大学教授を経て、大学や専門学校のカリキュラム開発、教員職能開発、学校経営などに関わる。

取材を終えて/太田啓之(GLOBE記者)

灘高校時代、受験勉強は確かにきつかったけれど、ゲームのようなおもしろさもあった。志望校の過去問の傾向を調べ、自分なりの攻略方法を考える。それは決して「知識の詰め込み」だけに終わらない主体的な挑戦であり、今の仕事に生かされている面も確実にある。そういう意味では取材を終えた今も、私は「点数主義入試」の擁護者だ。

と同時に「グローバル時代のリーダー育成には、経済面だけではなく文化的・地域的にも多様な学生の選抜が必要で、点数主義の入試では対応しきれない」という主張にも強い説得力を感じている。

東大、京大は今年初めて「推薦入試」「特色入試」を実施した。まだまだ未熟な点は目立つものの、こうした試行錯誤を積み重ねることで、点数主義と人物主義をうまく組み合わせ、日本に合った学生の多様性を実現する仕組みができることを期待している。