芝園団地では毎週日曜日、外国人のための日本語教室が開かれている。
団地内にある公民館の一室を借りて、市民がボランティアで運営している。私も日本語を教えるというよりは学ぶのを手助けする程度だが、手伝っている一人だ。
芝園団地に住む外国人の大半が中国人なので、学習者も中国人が半分以上を占める。来日して間もないIT技術者やその家族が多い。
団地の外国人住民以外に、川口市や蕨市に住むベトナム人やインドネシア人の技能実習生もやってくる。こちらは建築関係の仕事をしているという人が多い。
11月上旬には、課外授業として教室のみんなで東京都北区の防災センターや古河庭園に行った。「ベトナムの春巻きはおいしいね」とか、「北部と南部では何が違うの」といった他愛もない会話をしながら、楽しいひとときを過ごした。実習生の彼らは普段、仕事以外で日本人と交わる機会は少ないようだ。
■「生活支援」だけが共生ではない
いま、外国人労働者受け入れ拡大のための入管法改正案のニュースが、連日大きく報じられている。芝園団地に住む私は、もどかしい思いをぬぐえない。日本人と外国人が、ひとつの社会で共生するために何が必要か、という視点での議論がなかなか深まらないからだ。
政府はこれまでに明らかにした新たな受け入れ制度に関する基本方針の中で、生活支援に言及してはいる。法務省がつくった制度の概要を説明する資料にはこうある。
「特定技能1号の外国人に対しては、受け入れ機関または登録支援機関において、日常生活上、職業生活上または社会生活上の支援を行う」
生活オリエンテーション、住宅の確保、日本語習得の支援などを想定しているという。「登録支援機関」は耳慣れない言葉だ。技能実習生の場合、日本側で受け入れ窓口となる協同組合などが、「監理団体」として2000以上登録されているが、同じような団体を想定しているのかもしれない。
生活に必要な基本的なことは、こうした企業や登録支援機関がサポートする制度設計のようだ。ただ、外国人が日本で生活できるようになることと、日本人と外国人の「共生」は、イコールではない。
「共生」という言葉には、お互いが密に関係することや、そこから何かプラスになるものが生まれるといった含意がある。外国人が増え、生活できるようになれば、自然に共生社会が実現するわけではない。
以前、芝園団地に住み始めたころの印象として、「共存はしても、共生はしていない」と書いたことがある。芝園団地では生活上のトラブルは昔より減って共存はしているが、お互いに交わることがなく、あたかも一つの団地に二つの生活空間があるように思えたからだ。
共生社会には、日本人も外国人も含めた「私たち」という意識があるべきだし、人間同士の交流があるはずだ。芝園団地では今、大学生のボランティアや自治会が、日本人も外国人も参加するイベントを開くなどして、交流を広げようと地道な努力を続けている。
「共生社会」の理念をうたってほしい
いまの法案とその審議をみていると、日本社会の「人手不足で外国人労働者が必要だ」という切迫した事情と、「外国人は増えてほしくはない」という本音が、整合性がはかられないまま走り出しているように映る。
「お互いが尊重し合えるような、そうした共生社会の実現に向けた環境整備をしっかりと進めてまいります」。安倍晋三首相の、11月2日の衆院予算委員会での言葉だ。
国が「共生社会」をうたうのであれば、外国人の生活支援はもちろんのこと、日本人に対しても、その理念を正面から語ってもらいたい。地域社会での共生の取り組みが広がるような施策、現場で取り組む人たちを後押しする施策を、進めてもらいたい。
政府はこの法案と関連して、共生社会の実現に向け取り組むべきことを「外国人材の受け入れ・共生のための総合的対応策」として年内に取りまとめる方針だ。検討の方向性を示した中間報告では、円滑なコミュニケーションの実現、暮らしやすい地域社会づくり、子供の教育の充実、などが列挙されている。
これまでの国会審議では、この総合的対応策を含め、共生社会のあり方は議論が深まっていない。関心が高まらなければ、予算配分も含め実効性がどれだけ担保されるのか、いささか心もとない。
日本人と外国人の共生社会とは何を意味するのか。そのためにやるべきことは何か。ここはみなで考える大事なタイミングだと思う。
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